NHK短歌を読んでいたら、寺山修司の歌についての紹介があった。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
/『空には本』昭和33年
この歌について文章を書いている桑原優太郎は、塚本邦雄の次の賛辞を紹介し、
「寺山修司のデビューは・・・燦燦たる光に包まれた、戦後九年目の希望の象徴で
あった。老い朽ちようとする韻文定型詩は、まさしくこの寵児の青春の声によって、
一夜にして蘇った」。
しかし、その映像性についてはたぶんに作られたもので、
演出がほどこされたつくられたきらめきと記している。
で、表記の歌については、
「場面は、異国船が乗り付ける波止場、スクリーンには、主演の二枚目俳優が大写しに
なる。マッチを擦るのは、もちろん口にくわえた煙草に火をつけるため。炎によって、
霧にけぶる海がぼうと浮かび、そののち、無国籍を気取る主人公は、煙をくゆらせながら
捨てたはずの祖国を思う。もう、とびきりのハードボイルドである。こうした、詩歌作品と
しての演出に裏打ちされた映像性が、寺山修司の作品の大きな魅力といえるだろう」。
と評している。
確かに、寺山の歌は作られていて、その歌は映像的である。
それはしかし、寺山の歌の一面ではないのか。
ハードボイルドという印象になるのかもしれないが、
この歌が詠まれた昭和30年代前半、
寺山は戦争で父を失い、母は米軍基地で働いていた。
そういう背景から浮かびあがってくるこの歌は「とびきりのハードボイルド」という
ものだろうか。もっと陰影のあるものなのではないか。
もちろん、背景に引きずられすぎた読みも問題があることは分かっている。
そうだとしても、桑原のこの歌についての紹介は寺山の歌の既存の評価の一面だけを
伝えていて雑である。
寺山のこの時期の歌については俳句からの剽窃とか、いろいろ問題があるわけだが、
寺山が短歌の一時期を画したのは事実である。
その瑞々しい青春性も作り物として単純に否定されるものではないと思う。
雑誌の原稿の字数制限ということは分かるのだが、
もう少し深みのある文章を読みたいと思ったので書いてみた。