ひさしぶりに横浜歌会に行ってきた。
いろいろ忙しくて歌会に行けなくなってしまい、
今年はこれで3回目の歌会出席。
横浜歌会は確か去年の6月くらいに出ているから1年以上のご無沙汰である。
ひさしぶりに行ってみたら、知らない人が多くなっていた。
特に若い人が来ているのが嬉しい。
年寄りばかり集まって、年の功で31文字の並べ方だけ上手くなっても
しょうがないのである。
若い人の感性に触れ、刺激を受けることは大切である。
で、例によって気になった歌。
誌面発表前なのでここには出せないが、
目を合わせないでいる…足元に広がる落ち葉はみんな仰向けだから…。
歌意としてはそんなところか、
そのまま出せないので省略したり少し変えて書かざるをえず、
これでは分からないと思うのだがやむを得ない…(^^;
「目を合わせないでいる…」という上句から繋がって
「落ち葉はみんな仰向けだ」という表現。
落ち葉が仰向けかうつ伏せかという理屈はどうでもいいわけで、
作者は「落ち葉はみんな仰向けだ」と感じたわけである。
それはそれでいい。
仰向け、つまり上を向いているということは、
作者は一枚一枚の落ち葉に目を感じているのであろう。
足元に広がる落ち葉に目がありそれがすべて自分を見ている。
なんとも言えないシュールな感覚である。
面白い感覚、面白い把握だな、と思った。
しかし、そう思いつつ引っ掛かった。
作者のなかで自己完結していないか…。
「目を合わせないでいる」という上句の作者の行為を
「落ち葉は仰向けだから」という下句で説明しているような構造上の問題も
ある気はするが、それ以上に、自己の行為、その背景、心象、なんというのか、
そういうものが作者のなかですべて完結してしまっているような…。
そういう完結しているものを出されたとき、
読者はそれになにか響くものを感じることが出来るのだろうか。
出来る人はいるだろう。
同じような感性を持った人、同じような経験をしている人、
つまり、なにかしらの共通項のある人は共感するかもしれない。
しかし、そうでない読者には響くのだろうか。
作者のなかで自己完結した歌を読んだとき、
上手い歌だな、とか、面白い表現だな、ということは思っても、
心の琴線に触れてくるような感動は受けるだろうか、
作者のなかで自己完結した歌は読者がその歌の中に入っていく余地がないような、
そんな気がしたのである。
もちろん、短歌は普遍的に人の心に響くものである必要はない。
なにかしら吐き出さないではいられないものを抱えたとき、
人はそれを表出するのである。そして表出することで人は救われる。
文学も絵画も音楽もすべてそういうものである。
その表出が自己完結の形のものであれ表出することでその人が救われるなら、
とやかく言うことはないわけで、そういう短歌があっても別に構わないのだが、
しかし、極端に言えば、そういう自己完結の歌であるなら読者を必要としないわけである。
共通項を持った人の間では響いてくるのかもしれないが、
そうでない人にはどうなのだろう。
読者を必要としない文芸というのは長く支持されるのだろうか。
そんな気がする。
歌会の出席者は19人、38首の歌を4時間で批評して歌会は終わった。
そのあと久しぶりに歌仲間と軽く飲んで帰った。
やはり歌会に出ていないと鈍る。
今回も、他の人の批評を聞いて、ああ、この歌はこういう歌だったのかと気付く
ことがあり、読む力落ちてるよなと思った。
来年はせめてふた月に一回は歌会に出られるようにしたいと思っている。
歌会風景










