短歌

歌会

スケジュールがなんとか空いたので東京の平日歌会へ行ってきた。

忙しくて歌会に出られなくなって久しい。

ちなみに6月に横浜歌会に出たのが2年ぶりの歌会出席で、今年は今回で2回目の歌会。

多いときは月に3回歌会に出ていたことを考えれば天地雲泥の差である。

ちなみに以前は、平日歌会に出るときは午前中に東京の街歩きをしたり

博物館や美術館を訪ねたりしていた。

そうやって常に新しいものをインプットしていないとアウトプットが細る気がする。

忙しいと歌会に出られないだけでなく、そういうことも出来なくなるのである。

今回は両国のすみだ北斎美術館に午前中行ってきた。

葛飾北斎が生まれたあたり? に作られた小さな美術館で、

今は「北斎が紡ぐ平安のみやび」という企画展をやっている。

海外での浮世絵人気のゆえだろうか、日本人より海外の人の方が多かった。

子供の頃から浮世絵が好きで、小学生の頃、当時の永谷園のお茶漬けの袋におまけで

入っていた富嶽三十六景や東海道五十三次の小さな浮世絵のカードを集めていた変な

ガキだったので、ひさしぶりに北斎の絵が見られて楽しかった。

そのあと昼食を食べ回向院の前を通り墨田川を渡って歌会の会場に行く。


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  すみだ北斎美術館

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  歌会の前、両国の定食屋で昼食。
 歌会の前に禊のビールを飲んで戦闘モードに切り替えてから歌会に行く。

当日の出席者は10人と少なく、こじんまりとした歌会だった。

以前の平日歌会は30人くらいの出席者がいて選者も出ていたのだが、

新型コロナでリアルの歌会が出来なくなり、

それを機に歌会に出なくなった人もいるようで、すっかり出席者が減ったらしい。

選者があまり出席できなくなったというのも大きいのかもしれないが、

いずれにしろ、新型コロナは短歌の世界にもなにがしかの影響を及ぼしたのだろう。

で、例によって気になった歌。

誌面発表前なのでここには出せないが、

公園の墓標の前に凹みがある 墓の前に額づいたシューベルトの額

というような歌意の歌。

というような歌意というか、意味の分かりにくい歌である。

この歌、詠草の第一番でいきなり批評を指名されたのだが、まず、情景が分かりにくい。

公園の墓標というのは、霊園のようなところか?

墓標の前に凹みがあるって?  普通そんなところに凹みあるの?

額ずいたシューベルトの額とは?

読みとしてはシューベルトが額ずいているんだろう。

しかし、それと凹みがどう関係あるの?

シューベルトが額ずいたから額の形に墓標の前が凹んでいる?

ありえるの?  そういうこと…?

作者にはわかっているいろいろなことがこのままでは伝わらないのではないか、

という批評をしながら気づいた。

当日の歌会に出席していたK氏の歌だなと。

分かるわけないよ、K氏の歌なら…(^^;

変わった歌を詠む人で、なんというか、独自の仮想空間を表現しようとしているのかな

と思うわけだが、それすら違うのかもしれない。

虚構の世界を詠った歌人と言えば寺山修司である。

寺山修司は虚構のなかに人間の真実を浮かび上がらせようとした。

そういう表現を追い求めた寺山が短歌から演劇の世界に軸足を移したのは、

ある意味必然だった。

しかし、K氏の場合は違う気がする。

虚構の世界そのものを描きたい?

しかし、そうだとすればそれは難しいのである。

人間ではなく虚構の世界そのものを描くとすれば、

その歌はかなりの部分でその世界なり情景の説明にならざるをえないわけである。

それを一首の歌として成功させるのはかなり難しい。

そもそも現実との接点が一首のなかになければ読者には伝わりにくいだろう。

もしK氏が望む表現を短歌で成功させるとしたら、

それは一首の歌としてではなく、

短歌と散文の組み合わせ、

そういう歌物語のようなものでないと難しいのではなかろうか?

そんなことを思いながら他の人たちの批評を聞いていた。

ちなみにくだんの歌、歌会後の作者の話によると、

オーストリアのベートーヴェンの墓の隣にシューベルトの墓があって、

シューベルトが生前、ベートーヴェンの墓に額ずいてシューベルトの特徴のある

額の形に土が凹んでいるのを想像してみたとか...。

読めるわけないよな...(^^;;

 

10人と出席者の少ない歌会だったので予定の時間より早く終わったが、

ひさしぶりの歌会は楽しかった。

東京の平日歌会は以前は並んでいる順番に批評が指名されていたが、

今回は批評の順番はランダムの指名だった。

並んでいる順番での批評だと、なかには自分の当てられる歌だけを読んで、

その批評を考えている人がいたりして歌会としては良くない。

ランダムに指名されて瞬発的に批評を問われる方が力はつくはずである。

平日歌会少しはましになったんだなと思いながら批評を聞いていたなどと書くと、

また嫌われてしまうんだろうな…(^^;;;


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  歌会風景

岡部史歌集『海の琥珀』

あと少し飛べば百万年前の空 かのメデューサに魅入られた身は

                           / 『海の琥珀』岡部史

 

岡部史の歌集『海の琥珀』のなかの一首。

この一首だけではわかりにくいかもしれない。この歌のある一連の最初の歌は、

 

凍てつく夜プロシアの沖に流れ着き琥珀はうすく潮の息吐く

 

北海沿岸に打ち寄せる琥珀は古代のバルト海沿岸に繁茂していた針葉樹の樹液が

固化したものである。

そのなかには虫が閉じ込められていることがある。

樹液に捉えられて動けなくなった虫は数万年の時を経て虫入りの琥珀になった。

あと少し飛べば百万年前の空を飛んだはず。

しかしその虫は樹液に捉えられた。

目の合ったものを石に変えるというギリシア神話のメデューサ。

そのメデューサに魅入られたように虫は琥珀になった。

この歌が琥珀の歌の一連のなかの一首ということを知らなくても、

なにがしかの鑑賞はできる気がする。

ちなみに、この『海の琥珀』の一連を読んだとき思い出したのは、

しばらく前に読んだバリー・カンリフの『ギリシャ人ピュテアスの大航海』。

2300年前、ブリテン島がローマ帝国に組み入れられるより数百年前、

琥珀のもたらされる北の海を旅したギリシャ人の物語である。

ローマ帝国による支配がまだ成立していない地域だったが、

野蛮がすべてを支配していたわけではない。

交易ルートが存在し、その交易をなりわいとする人たちが既に存在していた。

ピュテアスはその交易ルートを使って未知の北の世界を旅した。

未知の世界を旅した冒険者。

その遥かな北の世界から琥珀はもたらされた。

その世界を詠った歌に出会ったのは新鮮な驚きだった。


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   射場の彼岸花が咲いた
 

 

歌会

ひさしぶりに歌会に出席。

毎月第一日曜が歌会だったのだが、

アーチェリーの射場を自分達で運営するようになって第一日曜は射場整備の日になった。

木を伐ったり草刈りしたりコースの的や階段を修理したり、

春夏秋冬、月に一度、山仕事にいそしんでいる。

そんなわけで歌会に出にくくなったのだが、今回は天気予報が雨だったので、

雨なら射場整備が中止ということで横浜歌会へ。

ちなみに、調べてみたら最後に歌会に出たのが2年前の7月の湘南歌会だった。

実に2年ぶりの歌会である(^^;


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 歌会前の昼食は会場近くのライブ喫茶イマジン。たまにライブやるらしい。
 とりあえずは禊のビールを飲んで戦闘モードに切り替えて歌会に行く。


で、気になった歌というか、気になったこと。

例によって誌面発表前なのでここに出せないのだが、

カラスが雨のなか小枝を運んでいる、子が待つケータイ基地局の上に。

そんな歌意の歌。

前評者は好意的な批評をしていた。

で、次に指名された私は

「前の人は好意的だったけど、私には作ったような歌に思える」と発言した。

歌会はそのまま進行していったが、ちょっと後悔した。

作ったような歌に思える、というのは表現のリアリティーに問題があるという

ことである。そうであるなら一首の表現のどこにその問題があるのか、

それを指摘するのが批評であるはずで、

「作ったような歌に思える」だけでは感想に過ぎないのである。

今まで自分自身、歌会でそういう批評を何度か聞いて、

「それ感想だろ、表現のどこがそうなんだよ」と不満を覚えたものである。

2年ぶりに出席した歌会で自分がそれをやってしまった。

後悔してちょっとそのあと考えてみた。

まず、情景としては、雨のなかカラスが小枝を巣に運んでいるわけである。

その巣はケータイ基地局の上にあり、そこには雛がいる。

「子の待つ」がいけないのではなかろうか?

雨のなか子のために巣の補修であろうか小枝を運ぶ親ガラス。

絵に描いたように健気な親ガラスである。

そのいかにもの健気さに作った感が出てしまう気がする。

あるいは実景そのままなのかもしれないが、実景をそのまま詠っても、

ほんとにそういうことあったの? と思われることはあるわけで、

表現のリアリティーをどう確保するかは実景か否かとは別問題である。

さらに言えば、巣作りではなく既に雛が生まれているときに小枝を運ぶ?

巣の補修をしているのか? とか、

高いところにあるカラスの巣に雛がいるのをこの作者知っているのか? とか、

余計なことを考えてしまう。

雛が生まれてから巣の補修をすることはあるのかもしれず、

高いビルやマンションからカラスの巣を見下ろすこともできるのかもしれない。

しかし、そういうことを考えさせてしまうこと自体が、

一首のスムースな鑑賞を妨げている気がする。

歌会を終わってから作者に聞いてみた。

ケータイ基地局の上の巣にカラスが雨のなか小枝を運んでいたのは実景だそうである。

雛がいたのかどうかは分からないとのこと。

ま、実際に雛がいたかどうかは関係ない。表現の問題なのだから。

他にも気になった歌があって書こうと思っていたのだが、

長くなるのでやめとく。

いずれにしろ2年ぶりの歌会は刺激になって良かった。

印象としては、横浜歌会、おとなしくなっちゃったかな

もっと発言したかったのだが、今回の出席者は18人。

これくらいの人数になると歌会の進行としてはギリギリで、

実際、司会の人は時間に間に合わせるために当人の歌は批評なしで終わりにしていた。

そういうことが分かっているので指名されない限り、あまり発言しないようにしている。

なにしろ、歌会に来ると言いたい放題言って毒を撒き散らすとか言われているらしいので、

これでも遠慮しているのである(^^;;


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 歌会風景
 

誇りもち

誇りもち勤めし教育現場なりブラック企業と断じて男孫は

                        / 一色さくら

 

一色さくらの歌集『二本』のなかの歌。

作者は37年、教職にあった人。

確かに、学校現場の過重労働は並大抵のものではないようで、

働く場所としての学校がブラック企業と同じだというのは、

今では結構知られていることではある。

結構知られてはいても、孫にダイレクトに言われると複雑なものはあるだろう。

集中にはこういう歌もある。

 

三十年前女性校長の登用は始まったばかり繋げなくては

 

現在は女性の校長や教頭はいくらでもいるのだろうが、

女性の登用が始まったばかりの時代、

働く女性のひとりとして、次の世代にバトンを渡したいという思いは

強くあったのだろう。

歌としては作者の思いが出過ぎている気はするが、

人はみなそれぞれの時代を生きているわけで、

短歌はそういう人の記録あるいは記憶、でもある。

短歌にすることでその人の人生は記録され記憶される。


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  鎌倉八幡の蘇ったイチョウ。石段の上から

捨てたほうの

捨てたほうの人生の続き思いつつ大きな鯵を背開きにする

                         / 王生令子

 

王生令子の第一歌集『夕暮れの瞼』のなかの一首。

たいていの人に、あの時、ああしていればということがあるだろう。

違う人生があったかもしれない、

そういう思いを抱く時がある。

鯵を背開きにするのはアジフライでも作っているのだろうか。

鯵を捌きながら、ふと、あの時のことを思う。

あの時、違う選択をしていたら、違う人生、違う愛、違う家族があったかもしれない。

そんなことを思いながら、今の家族のために鯵を背開きにしている。

今の幸せが決して平面ではなく、

たいていの人はその奥にいろいろなものを抱えている。

当たり前といえば当たり前のことなのだが、そんなことを思う。

歌集には詠い放つような歌が並ぶ。

そのせいか、歌集を読み続けたとき結句の単調さを感じなくもない。

試しに、無作為に開いたページの歌の結句を並べてみると、

 うちわを持って

 毛布をかぶる

 ごはんを作る

 ああ、腹が立つ

 名前をなくす

 男になりたい

詠い放ち、一首の余韻とかはあまり気にしていないような感じがする。

それを吐き出さなければ己が苦しい、吐き出すことで己が救われる。

それが表現の本質であるわけだが、一方、その吐き出したものをさらに詩として

昇華することで短歌は生まれるのではないかとも思うわけで。

歌集を読んで、その昇華は充分だったのか?

あるいはこれが作者のスタイルということでいいのだろうか?

作者の力は感じつつ、その辺はちょっと気になった。

それはそれとしてこの歌集、出版は202111月である。

歌集を頂いてから2年、忙しさにかまけて机に積んだままだった(^^;

遅ればせながら頂いた歌集を順番に読んでいるということで、

作者の方、許してくださいませ(^^;;


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  アーチェリーの射場、左の幾又にも分かれた桜の老木の折れた枝の処分。
  上の枝に引っ掛かったままぶら下がっていて、人が下にいるときに落ちてくれば
  大変なことになるので、なんとか工夫して引き摺り下ろして処分した。
  山を管理して射場を維持するのは大仕事である。

  

全国大会

短歌結社の全国大会、今年は福岡。

2日間の日程で開かれるのだが、いつもの通り初日の一般公開のプログラムだけ参加する。

2日目は会員限定で歌会などが開かれるのだが、歌会としては参加者が多すぎて

不完全燃焼になるのは目に見えているので参加しない。

会場は福岡国際会議場。

最初のプログラムは「推し歌合」。

歌合わせというのは大抵は自分達の歌を相手方の歌と競い合わせて批評し優劣を判定する

のだが、「推し歌合」というのは、どうやら、自分の歌ではなく自分の推したい歌を出して

歌合わせをするらしい。

で、対戦1回目の歌がこれ

 

 赤組  妻も母もわがなしえざる生なして阿蘇の高菜を食みをり今宵 /黒瀬珂攔

 

 白組  めちゃくちゃを止せば老人になりそうでときに食ふ夜半のとんこつラーメン

                                 /大松達知

いずれもいい歌である。

優劣つけがたく最初の会場での参加者全員での札上げでの判定は白よりやや赤が多かった。

ちなみに私は赤を上げた。その後の批評だが赤白それぞれ3人の出席者がいい批評を

するのだが、白組の女性陣2人があるいは酒をあまり飲まない人だろうか、ちょっと

酒飲みの気持ちがわかっていないなという批評が気になった。そのせいか、それぞれの

批評が終わったあとの最終の判定は圧倒的に赤。

歌合わせは歌の良し悪しだけでなく、出席者の批評がものを言う。いい批評があれば

そちらに流れるのである。そういう意味でもう少し相手方の歌へのツッコミがあっても

良かったと思うのだが、出席者全員紳士淑女で、そういうツッコミはちょっと少なかった。

自分のように、なにかあれば噛みついてやろう突っ込んでやろうと思っている人間には

ちょっと物足りない(^^;

歌合わせのあとは「短歌における口語と文語」というテーマでの対談とディスカッション。

口語、文語のそれぞれの特徴、それが歌にもたらす印象とか、日本語はモダリティーの

豊富な言語であるとか、吉川宏志と栗木京子の対談は面白かったし、

若い人たちのディスカッションも参加者全員話し上手で面白かった。

最近の若い人はものおじしないで話すからいい。

結社の会員数は1100人を越えているらしいが、新型コロナ以来、大会の参加者は

少ないような気がする。ZOOMで歌会が出来るようになったりもして、

新型コロナは結社と会員のつながりも多少変えたかもしれない。


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 歌合わせ 

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 吉川宏志と栗木京子の対談

初日のプログラム終了後、ひさしぶりに会った人たちとちょっと挨拶をして、

そのあとは夕食を食べに博多の屋台に出かける。

中州に屋台が多いらしいが観光客向けで高いという話なので渡辺通りへ。

博多の屋台の案内の本をコピーしたのがあったのだが、どうもその案内ほどには

屋台が出ていない。あるいは新型コロナで屋台も少なくなったのだろうか?

確かにソーシャルディスタンスで間隔あけて座ったら屋台は経営成立しないだろう。

少なくなったのかもしれない屋台はみな混んでいるのだが、

まだ時間が早かったので空いている
ところを見つけて座る。

博多の屋台は初めてだったが、

屋台の主と気軽に話が出来、隣の客との距離も近くて話しやすい。

その辺、屋台によって違うのだろうが、座った屋台が当たりだったかもしれない。

テキーラの置いてある屋台で、テキーラ3杯くらいおかわり、

いい気分で夜の博多の街を歩いてホテルに向かった。

明日は阿蘇山に登りにいく。


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 18時から営業という屋台が多いらしい。この時点では空いていたが、
 このあとはどこも客で一杯だった。

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 右側の屋台で飲んでいた
 

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