道草

ルーブル美術館展

久しぶりに東京へ歌会に出かける。

例によって午前中は東京の下町歩きをしてそれから歌会に行くつもりで家を出たら、

「暑っ!  なにこの暑さ...

今回は三ノ輪から旧吉原のあたりを歩き浅草に出ようと思っていたのだが、

この暑さ、速攻で日和った。

確か上野でルーブル美術館展をしているはず。

クーラーの効いているところに変更。こんな暑い日に下町歩きなんてとんでもない(^^;

上野で降りて東京都美術館へ行こうとしたら、公園の中程でケーナの音が聞こえてくる。

見ると民族衣装を着た三人組の演奏。

上野公園では、登録された幾つかのグループが決められた場所決められた時間で大道芸を

したり路上演奏をしたりしている。

歌会の前の道草でルーブル美術館展へ、そのまた道草でしばしアンデスの歌に耳を傾ける。

IMG_0094
 上野公園

アンデスのフォロクローレ、ちょっと不思議で地球の反対側の音楽なのに、

なぜかすっきり入ってくる。郷愁のようなものさえ感じるのは、同じモンゴロイドの音感と

いうのかリズムというのか、そんなものがあるんだろうか。

太陽の娘、エル・コンドル・パソ、4曲ほど聞いて、

彼らの前に置いてあるスーツケースに千円入れて美術館へ。

ちなみに彼ら、受け取ったチラシによれば、関東を中心に演奏活動をしている

マルカマシスというグループ。日本で知り合ったメンバーで結成したらしい。


IMG_0095
  マルカマシス  検索してみたらホームページがあった。
  3人のうちの2人がケチュア族、1人がアイマラ族とのこと

で、道草に道草を重ねたので、ルーブル美術館展すっかり遅くなってしまった。

入るといきなり出てくるのがギリシアの壺。

そう言えば昔、歴史か美術の教科書にこういう壺の絵あったよな、という感じの壺が

目の前にある。赤と黒で裸の戦士らしきが描かれているような壺。この辺の造形はなかなか。さらに進んでいくと、ロゼッタストーン。

「えっ!? ロゼッタストーン来てるの! あれは大英博物館じゃないの?

と驚いて見るとレプリカだった。

考えてみればロゼッタストーンはナポレオンの遠征軍が発見したもの。

その後、ナポレオン戦争の結果イギリスに移ったが、

フランスもそのまま渡すのも悔しいからレプリカを取っておいたのだろう。

エジプト、ギリシア、ローマの彫刻もなかなか。

地中海世界をテーマにした展示だったが、
総じて言うとギリシア・ローマ時代の展示には
いいものがある。
それ以降はまあまあという感じ。

いかんせん、道草に道草を重ねてフォロクローレとか聞いていたので時間がなく、

おまけに夏休みのゆえか結構人も多くて、
人の間をすり抜けるように展示を見て出てきて
しまった。
もっとゆっくり時間をかけて見にいくといい展覧会である。
923日まで東京都美術館でやっている。

美術館を出てあいかわらず暑い日差しのなか歌会に向かった。




 

予科練平和記念館

短歌結社の全国大会、今年は茨城の土浦。

全国大会は一泊二日の日程だが、例によって初日の一般公開のみの参加。

全国大会の歌会は人数多すぎて言いたいことが言えず欲求不満になる。

過去2回出てつくづくそう思ったので、

それ以降は今回のように一般公開のみの参加にしている。

大会の前に、いつもの通り道草を食う。
今回は土浦からほど近い予科練平和記念館。

霞ヶ浦海軍航空隊が昭和14年、土浦海軍航空隊となり、それまで横須賀海軍航空隊にあった

飛行予科練習生が土浦に移転した。

予科練とは航空兵力増強の必要から海軍が創設した学校で、

厳しい選抜を潜り抜けた生徒達が学んだ。

競争率は数十倍であったらしい。

「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に碇」。

懐メロの番組で大人の歌手が歌うのを聞くと士官学校くらいの青年を思い浮かべてしまうが、

実際の彼等の年齢は現代の中学3年から高校2年、青年というよりまだ少年である。

土浦駅の西口からバスに乗り霞ヶ浦のほとりの阿見という町に行くのだが、

バスターミナルに行っても、ろくに路線の案内も出ておらず分かりにくい。

仕方なくバスの運転手に聞いてやっと分かった。

他にも運転手に行き先告げてどのバスに乗ったらいいか聞いている人が何人もいたから、

利用客への案内という点で土浦のバス会社の認識にはそもそも問題がある。

21世紀、世界が大航海時代ならぬ大観光時代を迎え、

観光がこの国のこれからの重要産業になろうというときに、

利用客に分かりやすく案内するという当たり前のことが出来ない運行事業者というのは、

一度つぶれて認識を改めてもらった方がいい。

阿見は土浦からバスで20分かからないくらいのところ。

市街地を離れ霞ヶ浦を囲む平坦な田園風景のなかにある。

バス停からしばらく行くと暑い日差しのなかに平和記念館はあった。

IMG_0124
  予科練平和記念館

  
冷房が効いた館内は幾つかの部屋に分かれ、

予科練習生の試験選抜の様子や訓練の様子、日々の生活の資料、彼等の残した手紙などが

展示されている。彼等の書き残したものを読むとこれが10代の少年かと思うほど、

しっかりとした上手な字を書いている。

予科練は学費がいらず逆に給料が出るので、貧しくて進学できない子弟がかなり応募した

らしい。たまの休みに基地外の指定食堂で食事をするのが彼等の楽しみであったらしいが、

「明日の休みは1円持って、大福を食べ饅頭を食べ汁粉を食べて・・・」というような

手紙があった。甘いものばかり、やはりまだ少年なのだ。

展示の後半には戦争末期、予科練の少年達がその中心になった神風特別攻撃隊や回天など

の特攻兵器の資料とその映像がある。

本土決戦に備えてもろもろの特攻兵器が開発され、

本来、大空を飛ぶことを夢見ていた少年達は、

人間魚雷に乗ったり、爆薬付きのモーターボートの操縦訓練に励んだりした。

特攻機が敵艦に突入するとき、彼等は基地にモールス信号を発信し続けた。

そのモールス信号が途絶えたときが、

敵艦に突入したかあるいは撃墜されたときである。

特攻の映像の最後はそのモールス信号の音が流れ、そして途絶えた。

通信基地で彼等のモールス信号を聞いていた通信兵もまた、どういう思いでその通信音を

聞いていたのだろう。

昭和20年6月10日、阿見の町は大規模な空襲を受け、予科練の基地も大きな損害を受

ける。退避した防空壕に直撃弾を受け、多くの少年達が死んだ。二か月後、戦争は終わる。

平和を知るためには戦争を知らなければならない。

彼等少年達の記録は後世に残されなければならないはずで、

あまり知られていない平和記念館だが、一度訪ねてみる価値はある。

冷房の効いた館内から暑い外に出てバスで土浦に戻る。

1時から全国大会なのだが、ちょっとゆっくり見過ぎた。遅刻しそうである。



IMG_0126
   平和記念館の敷地に展示されている回天。
  ただし実物ではない。「僕たちの戦争」というドラマで撮影のために使われた実物大の模型。
  撮影終了後、記念館に寄付されて展示されている。
 

草津

ぶらりと草津へドライブ。

早朝、横浜を出、環八を抜けて関越道、途中から上信道へ入り軽井沢。

朝の軽井沢、道路の横のゴルフ場ではもうプレーしている人達がいて、

やはり優雅な別荘地という気がする。

そういうのを見ると、年を取ったら別荘暮らしもいいかなと束の間思うわけだが、

やはり、バガボンドではないが、あっちこっちさすらっている方が好きな人間には

不向きかもしれない。たぶん同じところにずっといると飽きる(^^;

軽井沢は素通りするつもりだったが、なぜかショッピングプラザに入って買い物したり、

テラスでソフトクリーム入りのかき氷を食べたりして、しばし、まったりしてしまった。

北軽井沢を抜けて浅間山の麓を走り草津へ。

とりあえず草津白根山に行ってみる。

確か子供のときに親に連れられて行ったきりで、記憶が曖昧だが、山頂の下の駐車場へ

の道を走っていると、草津白根山って大きな山だったんだなという気がしてくる。

広やかな山の斜面につけられた道路を登ってゆく感じで、

途中、斜面から湯気が出て硫黄の匂いが立ち込めたりしている。

やはり火山である。

既に紅葉が始まりかけていて、なかなか綺麗。

駐車場が混んでいるかと心配していたが、並ぶほどではなくスムーズに入れた。

ここから湯釜の見える山頂へは歩いて10分くらい。

子供のときの記憶と違うなと思いつつ登っていくと向こうに火口湖の湯釜が見えた。

ちょうど雲が流れてきて一分もしないうちに消えてしまう。

もう少し遅く着いたら湯釜は見えなかった。

子供のときに見た湯釜は、白い火口壁に囲まれた明るい緑色の鮮やかな印象があった

のだが、今日見えた湯釜はそのときのものとまるで違った。

たぶん見ている方向が違う。

子供のときは、もっと全体を見渡すような感じで火口湖が見えた。

子供のときに登った道はあるいは崩れたかなにかで登れなくなったのだろうか?

下に降りて駐車場の向こうのレストハウスの方に行ってみると、

そこから火口の方に登ってゆく道があり、通行止めになっていた。

硫化水素が発生しているので入らないでくださいというようなことが書いてある。

なるほど、子供のときはこちらから登ったのだ。

それにしても、ついこの前までの暑さが嘘のように涼しい。

IMG_0141
  草津白根山 湯釜
IMG_0142
  りんどう

しばらく休んだあと草津温泉へ。

道がよく分からず温泉街の入り口の公営の駐車場を素通りしてしまったのだが、

運よく湯畑の近くの民間の駐車場が空いていたので余計に歩かずにすんだ。

ちょっと下町チックな温泉街を歩いて湯畑へ行く。

湯畑は巨大な源泉である。

丸く囲まれたなかから温泉が湧きだし、並べられた何本かの木の樋を通ってそれが

流れてゆく。周囲は観光客で一杯。社会人になりたての頃、友人達とスキーをしにきて、

この湯畑の近くのホテルに泊まったのだが、そのときと付近の様子はそんなに変わって

ない気がした。道をはさんで熱の湯というのがあり、そこから草津の湯もみ唄が聞こえて

くる。草津温泉の紹介の写真などで出てくる白濁した温泉に木の板を突っ込んで湯をもむ、あれである。近くには共同湯もあるので、ひとっ風呂浴びてゆくことが出来る。

IMG_0144
  湯畑
IMG_0145
  湯畑 木の樋から流れ落ちる源泉

しばらくゆっくりして、また下町チックな温泉街を歩いて駐車場に戻る。

途中、濡れせんべいを買って歩きながら食ったり、温泉饅頭だのテキトーに土産を

買って帰る。帰りはちょっと寄り道をして上信道ではなく関越道の渋川に抜けて横浜へ。

まっすぐ帰るならやはり来た道を引き返して上信道に乗った方が早いのかな?


ユトリロ展

高島屋でユトリロ展をやっているので見に行く。

同時にやっているイタリアンフェアの会場を抜けてユトリロ展の入り口に行くのだが、

このイタリアンフェアがかなり混んでいた。

ワインだのチーズだのラザニアだの、いろいろ売っている向こうでは通訳付きでイタリア

料理の実演などもしていて結構繁昌している。

人だかりを抜けてユトリロ展。

モーリス・ユトリロ。

白を基調としてパリの街角を描いた画家。

その生涯は破滅的である。

初期のユトリロの絵は、人気のない通り沿いに家々の白い壁がつらなっているような、

そういう作品が多い。本来なら行き交っているであろう人の姿はなく、通りの向こうに

ひとりかふたり小さな人影が立っていたりするのだが、それはまるで無人の街にあらわれ

た亡霊のようである。色彩は建物の白い漆喰の色が基調で、

そういう彼の絵からは孤独感や哀愁が伝わってくる。

実際、彼は孤独だった。

父は分からず、母には相手にされず祖母に育てられた。

祖母は毎日夕方にワインを嗜んでいたらしく、まだ子供のユトリロにもワインを飲ませた。

そうやって育てられたユトリロは10代の終わりには既にアルコール依存症になっていた。

精神的にも患い、治療の一環として勧められた絵が、彼の才能を開花させる。

育児放棄をした母親だがユトリロの絵が売れるようになると、

再婚相手と二人でユトリロの絵を売った金を自分達だけで使ってしまう。

しかもこの母親の再婚相手はユトリロの友人である。

こんな母親を持ったら子供がおかしくならない方がおかしい。

初期のユトリロの絵の孤独感や哀愁は彼の精神世界のあらわれであろう。

やがてユトリロの内面はさらに破綻してゆく。

一日8リットルのワインを飲むという生活で、アルコール中毒、泥酔しての奇行、

警察への収監、精神病院への送致。

そんなことを繰り返しながら、しかしなおユトリロは絵を描き続ける。

そして売れたお金は母と再婚相手、さらには妻が勝手に使う。ユトリロが手にするのは
だけ。しまいには殆ど監禁状態に置かれ、絵はがきを渡されて、それで絵を描くことを
強要されたらしい。

そういう状況下で書かれたゆえか、後期の彼の絵からは初期の絵にあった孤独感や哀愁が

消える。色が多くなり、絵のなかの人の数も以前よりは多くなる。しかし、構図はパター

ン化し、初期の作品の自己模倣が見てとれる。

絵はがきを渡されて描かされたというが、後期の絵は確かに絵はがき的な絵に変わる。

会場にはその後記の作品も結構多く展示されているのだが、

見るべきものは少ない。

会場を歩きながらそういう彼の作品の変遷を辿っていくと、

彼の精神の破綻が見えてくるような感じがして、ちょっと重苦しくなる。

「もし、パリから離れ二度と戻ってこれないとしたら、どういう思い出を持っていきたい?」

と彼は人から尋ねられ「漆喰のかけら」と答えたそうである。

子供のとき、母に相手にされずひとりで漆喰のかけらで遊んでいたという。
彼は絵を描いて幸せだったのだろうか?
放棄され裏切られ、それでもなぜ彼は母を女神のように慕ったのだろう?
ひととおり見て会場を出、にぎやかなイタリアンフェアを通り抜け買い物をして帰った。


 
IMG_0453
  夕日

安国論寺 妙法寺

久しぶりの湘南歌会、歌会は午後からなので午前中は鎌倉を歩く。

鎌倉駅から若宮大路を観光客の行く鶴岡八幡とは反対の海の方に行き、

JRの線が道路を横切る手前を左に折れる。

そのまましばらく歩いてゆけば安国論寺の表示が出てくる。

鎌倉でもこの辺りは観光客の少ないところ。

安国論寺も訪れる人の少ない小さな寺である。

立正安国論を説いた日蓮が活動の根拠にしていたという辺りに建てられたのが

安国論寺と隣の妙法寺。、

歩いて100mぐらいのところにある寺なので、昔はひとつの寺域だったのかもしれぬ。

鎌倉のこの辺りはあまり歩いたことがなかったのだが、

久しぶりの湘南歌会のついでに梅の花が綺麗だというので訪ねてみた。

日蓮が時の幕府に立正安国論を建白したのは1260年。

その数年前、インドネシアのロンボク島で世界史的な大噴火が起きている。

成層圏まで届いた火山灰は世界各地に異常気象をもたらし、

ロンドンではこの時期に符号する大量の人骨埋葬地が発見されている。

日本でも飢饉が起きた。

いつの時代どこの国でも飢えた農民達は土地を捨て都市に流入する。

日蓮が布教活動していた鎌倉にもそういう人々が大勢いたはずである。

宋を圧迫するモンゴルの情報も貿易を通して市井の人々にももたらされただろう。

社会不安のなかで人々はなにかに頼る。

法華経を信じれば異常気象がおさまるわけもないわけだが、

遥か南の巨大噴火とその気象への影響など人々は知らないわけで、

日蓮の周囲には支持者が集まった。

しかしそれは不安定な社会状況のなかで危険な存在とも見られるわけで、

既存の宗教や権力からの激しい排撃に遭う。

この安国論寺や隣りの妙法寺のあたりも襲撃されている。

その辺りを歩いてみる。

日蓮の時代は貧しい草庵があっただけなのかもしれないが、

その後、弟子によって寺が建てられた。

大きな寺ではない。

鎌倉らしい尾根に囲まれた浅い谷のなかの小さな寺である。

山門をくぐり本堂に向かうと、その左側に白い花を咲かせた割と大きな山茶花があり、

その隣には紅梅がわずかに綻んでいる。

楽しみにしていたのだが、まだ梅は早かったようだ。

本堂の右の方に日蓮が籠っていた岩窟のあとのお堂があるのだが、

見るべきものと言えばそのぐらいの小さな寺である。

IMG_0365
  安国論寺の山茶花
IMG_0366
  安国論寺のみほとけ

木の間を栗鼠が飛んでいった。

隣の妙法寺に行ってみる。

寺としてはこちらの方が大きい。

苔の石段が有名らしく、その写真を撮りにくる連中で迷惑しているのであろう、

三脚を持ち込んでの撮影は禁止と書かれている。

本堂の奥に再び山門がありその奥に苔むした石段があるという造りは、

下の本堂はあとから建てられたものということなのだろう。

上へ上へと上がってゆき振り向くと鎌倉の海が見える。

さらに登ると尾根の上に出て、護良親王の墓がある。

IMG_0368
  妙法寺 苔の石段
IMG_0369
  護良親王の墓と鎌倉の海

後醍醐天皇の皇子、護良親王。

鎌倉末期、建武新政の時代、戦う親王と言われた皇子で最後は鎌倉で幽閉され殺される。

ちなみに宮内庁指定の護良親王の墓が他にあるので、ここは本当の墓ではないらしい。

護良親王の子、日叡が日蓮を偲んで建てたのがこの妙法寺であり、

日叡はその寺の上の尾根、鎌倉の海が見えるあたりに無念のうちに死んだ父の墓を

作りたかったのであろう。

観光客もほとんど来ない。静かなところである。

尾根を下り寺の入り口に戻ると紅梅が咲いていた。入ったときには気付かなかった。

まだ僅かにしか咲いていないが綺麗である。

ここから細い道を通って、妙本寺、本覚寺を経て鎌倉駅に戻る。

ついでに八幡まで足を延ばし、境内で売っている焼きぎんなんを歌会の土産に買っていく。

ここの焼きぎんなんはなかなか美味い。

 IMG_0371
  妙法寺の梅

大阪 四天王寺

7年前、歌人の吉川宏志と大辻隆弘の間で起きたネットでの論争がきっかけになり、

「今、社会詠は」という題で短歌のシンポジウムが開かれたのだが、

昨年、そのときのコメンテーターのひとりである小高賢が亡くなったことを受け、

あらためて社会詠について語ろうと、再度のシンポジウムが開かれた。

7年前は京都だったが、今回は大阪。

マイルを交換すれば交通費もかからないので、ちょっと行ってみた。

ついでにシンポジウムの前に四天王寺へ道草。

どうも大阪は伊丹から市の中心に出るのに乗り換えが多くてよく分からん。

最終的に夕陽が丘というずいぶん昭和チックな名前の地下鉄の駅で降りたのだが、

地上に出ても案内もなにも出てないので仕方なくテキトーに歩いていると、

向こうに寺の伽藍らしきものが見えてきて、そちらに入ってみた。

ただ、どうも四天王寺の裏口から入るみたいな感じだったみたいで、

金堂と五重塔を囲っている回廊をぐるりと回り込んで、あらためて正面へ。

四天王寺は聖徳太子の時代に建立された日本でも最も古い官寺のひとつ。

敷地を広くとったその雰囲気や伽藍の配置は奈良の寺に似ている。

ただ、何度も焼失しては再建されているゆえか、奈良の寺のような建物の古さは感じない。

金堂の壁画も新しく描かれたもので、古色蒼然とした仏教壁画を見慣れた向きには

ちょっと異質さはあるかもしれない。

あまり時間がなかったのでざっと見ることしか出来なかったが、

それほど観光客も多くはなく、落ち着いて歩ける寺である。

IMG_0616
 四天王寺
IMG_0613
 金堂と五重塔

難波の方に行かないといけないので西大門から外に出るとき、あれ?と思った。

参道の向こうに大きな鳥居がある。

なんで寺の参道にこんな大きな鳥居がある?

神仏習合が当たり前だった時代から、寺に鳥居があること自体は珍しくない。

ただそれは、寺の境内の隅に小さな神社なり社があり、そこに鳥居があるというパターン。

四天王寺は違う。

西側からの大きな参道、西大門の外に大きな鳥居がでんと鎮座している。

つまり、寺の主要構造のひとつとして存在している。

なんだこの鳥居は? としげしげと見上げる。

石の大鳥居で、案内板があり、昔、今よりも海が寺に近かった時代、この鳥居の向こうに

落ちる夕陽はとても美しく、人々は鳥居のこちら側から夕陽に手を合わせたのだそうな。

夕陽は西方浄土につながるということでそれに手を合わせるのは分かるのだが、

鳥居が立っている説明には全然なってない。

で、寺に入るときにもらった小さなパンフレットを見てみると、

四天王寺の鳥居は創建当時からあるらしく、

それを鎌倉時代に勅により石の鳥居に作り替えたのだそうな。

ということは、神仏習合以前、聖徳太子の時代からあったということで、

四天王寺の鳥居はのちの世の神仏習合の産物ではない。

帰ってから調べてみたら面白いものがあった。

九州、大宰府の近くの観世音寺。

ここの最初に建てられた観世音古寺の絵図があったが、見るとやはり門の外に鳥居がある。

kanzeon53
 観世音古寺の図面 一番下に鳥居がある 門の外に大鳥居 構造的には四天王寺と同じ

観世音古寺の創建は白鳳年間であるらしいから、四天王寺の創建の時代とは80年ぐらい

の年代差があるが、いずれにせよ両方とも飛鳥奈良の時代である。

つまり日本に仏教がもたらされた時代。

その時代、寺に鳥居を作ることは普通だったのだろうか?

あるいは、蘇我氏と物部氏が崇仏派と排仏派に分かれて戦ったといっても、

それは権力闘争の手段として仏教導入の是非が用いられただけのことで、

当時の日本人も現代の日本人と同じく宗教に対しては、

どうでもいいじゃんというのが本音だったのだろうか?

どうでもよかったから、神域の結界に作る鳥居を寺の境にも作ったのか?

あるいは神も仏も日本人の理解のなかでは本当のところたいした差はなく、

仏も「新しい神」くらいの認識だったんだろうか...。

うーん...。

ま、いいや、どうでもいいじゃん。

ああこう考えてるとシンポジウムに遅れる(^^;

四天王寺を出て西にまっすぐ歩いていくと、

道路の反対側に小さな神社が現れ、安居天満宮という標識があり、

そこに真田幸村戦死の地と書いてあった。

道路を挟んでこちら側には天王寺動物園があるが、そのあたりが昔の茶臼山。

大阪冬の陣では家康が本陣を置き、夏の陣では幸村が本陣を置いた場所である。

そういえば四天王寺の南には毛利勝永が陣を敷いてやはり家康の本陣を狙っていたはず。

戦国最後の戦いともいえるこの天王寺の合戦は兵力と火力が狭い地域で集中的に用いられ、

この辺りは凄まじい阿鼻叫喚が響いていたはずである。

IMG_0617
  安居天満宮

左に通天閣を見ながら先に進む。

どうも、ゆっくりしすぎたみたいで、1時半の開会に間に合わないかもしれない。

通天閣の下の通りでとりあえず昼食、目に入った焼肉屋に入る。

ここで店員さんに、難波のOCATに行くにはどう行けばいいか聞くと、

感じのいい店員さんで奥に行って聞いたりして地下鉄の乗り換えを説明してくれるのだが、

これから食事して電車で1時半までに行くのは厳しいとのこと。

ビールを飲んで食事をして勘定をすませ、

店員さんの言葉に従ってタクシーで難波へ。

店員さんの言った通り15分くらいで会場に着いて遅刻なし。

ちなみにここで食べたホルモン定食はなかなか美味しかった。

 140607_125155
  通天閣

アーカイブ