ウズベキスタン・タジキスタン 5

サマルカンド4日目、夕方の列車でタシケントに戻る。

それまでどこに行くという予定もなく過ごす。

なんとなく歩いていると、交通規制がされていた。

なんだろうと思って見ていると、自転車競技をやっている。

競技用のウェアを着ているので体のラインがはっきりするわけで、

走ってくる選手を見ていて女性の選手がいることに気付いた。

ここサマルカンドから270k南に行けばアフガニスタンである。

女性の権利が否定されているアフガニスタンでは、

ああいう体のラインがはっきりするような服を着ることはできるのだろうか。

ウズベキスタンは世俗主義の国である。

あるいは宗教を否定したソ連時代の影響が大きいのかもしれないが、

街中でもあまりコーランは聞こえてこない。

270kといえば日本なら東京と名古屋の距離である。

日本に当てはめれば、東京に生まれた女性と名古屋に生まれた女性が、

その生まれた場所ゆえに全く違う環境で全く違う人生を生きることになるのである。

その不条理はなんなのだろう。

サマルカンドの街を疾走していく女性の選手を見ながら、そんなことを考えた。

そのあと、少し日の陰ったレギスタン広場に座り込んでぼんやりとマドラサを眺める。

サマルカンドでの過ごし方はこれが一番いい。

なにをするでもなく、有料エリアの外の広場の敷石の上に座って、

マドラサが三つ並んでいる風景をぼんやりと眺めていると、気持ちがいい。

思えば遠くへ来たもんだ、そんな気持ちになれる。


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  レギスタン広場、こんなふうに座ってぼっーとしているのが一番いい。

夕方、サマルカンドから列車でタシケントに移動してホテルに入る。

最終日、深夜の飛行機で帰国するので、それまでの時間ホテルに荷物を預けてタシケント

の街を歩く。暑いなか歩いたのでこれが結構きつかった。

そのあとタクシーで空港に行き帰国。

帰国前にタシケント国際空港で土産を買ったのだが、これが失敗だった。

なぜか空港の店の価格はみなユーロ表示。

その国の首都の国際空港である。普通なら自国通貨とドル表示とかしそうであるが、

ここはユーロ表示のみ。買い物するときはユーロをスムに換算するのだが、

土産を買ってから気付いた。どうもレートがおかしい。

銀行以外で両替するとかなりの両替手数料がとられるということか…?

20%くらいの両替手数料と考えると計算がほぼ合う。

高すぎだろ(^^;

ネットにはタシケント国際空港の土産屋が充実していてとてもいい、などと書かれて

いるが、土産は市中で買った方がいい。ただでさえ市中より高く、

しかも高い両替手数料がかかるらしい空港の土産屋で買わなくていい。

たいてい帰国する人は使わなかった現地通貨を空港の土産屋で使い切ろうとするわけで、

そういう観光客から両替手数料で稼ごうというわけか?

もうひとつ言えば、空港や駅のような公的なところに入っている店は怪しい。

空港タクシーはぼったくりだったし、お釣りをごまかすのもそういう公的なところに

入っている店だった。旧社会主義国の名残りかもしれない。

そんなこんなで楽しい、しかし気の抜けない、そんな中央アジアの旅を終えて日本に帰った。


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 タシケントのナヴォイ劇場。シベリア抑留の日本兵捕虜が建設にかかわった
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 ナヴォイ劇場の横の鈴懸の道 タシケントもサマルカンドも胡桃と鈴懸が多い
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 タシケントのティムール公園のティムール像 かってはスターリンの像があった
 

 

ウズベキスタン・タジキスタン3  サマルカンド

サマルカンド2日目。

今日はシャーヒ・ズィンダ廟へ行ってみる。

レギスタンからイスラム・カリモフ通りを歩いていくとアフラシャブの丘が見えてくる。

その突き当りを右に少しいけばシャーヒ・ズィンダ廟である。

昨日のぼったくりドライバーが「Very Far Very Far」と何度も言っていたが、

なにがVery Farだ、30分くらいで着いてしまった。

ちなみにアフラシャブの丘だがシャーヒ・ズィンダへ歩きながら丘を見上げると、

大部分が墓地になっている。アフラシャブの丘はチンギス・ハーンに滅ぼされるまでは

サマルカンドの旧都城があった場所らしいが、その後は葬送の場所になったのだろうか。

その丘の一角にあるシャーヒ・ズィンダ廟は、ティムールの一族やその将軍達が

葬られている墓所である。


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 向こうに見えるのがアフラシャブの丘
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 シャーヒ・ズィンダ廟の入り口

門を入ると階段がある。

天国への階段と呼ばれているらしく、登るときに階段の数を数えて帰りに数えて

数が一致すれば天国へ行けるそうだ。ぼけていなければ一致するはずである(^^;

階段を登り門をくぐると青いタイル張りの廟が道の両側に並ぶ。

青の都サマルカンドといわれるサマルカンドブルー。

道の真ん中でポーズを取って写真を撮って動こうとしない中国人の観光客が鬱陶しく、

彼女たちがいなくなったときを見計らって写真を撮る。

奥へ進んでゆくと青い廟や未完成で青いタイルを張っていない廟などいろいろあり、

一番奥は両側も突き当りも青いタイルの廟である。

なかを見られるところもあって入ってみるが、ここもやはり装飾が美しい。

通路の長椅子に座ってしばく眺める。観光客が途切れた時は静か。

シャーヒ・ズィンダ廟は青い死者の街である。

廟を出てウルグベク天文台に向かう。


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 天国への階段
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 シャーヒ・ズィンダ廟
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 廟の一番奥
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 中はこんなふうになっている

アフラシャブの丘に沿って北東へ歩くのだが、途中、断崖になっている丘の斜面に

幾つもの穴が開いているのに気が付いた。

モンゴル軍に破壊される前はサマルカンドの旧都城があった場所というが、

その遺構なのか?  あるいは古い時代の墓かもしれないと思った。

ウルグ・ベク天文台までは少し遠かったが、ここも歩いていける範囲。

入口にティムール朝の四代目の王であり同時に天文学者だったウルグ・ベクの銅像がある。

天文台の遺跡は地下に巨大な溝状のものが作られていて、向こう側に窓があるので、

大抵の人はその窓から星を観測したのかと思うかもしれないが、そうではなく、

ここには地下部分も含めて高さ40mの巨大な六分儀が設置されていたのである。

周囲にはそれを囲む建物があって、まさに天文台だった。

今残っているのは地下構造の部分だけである。

ウルグ・ベクはここで星を観察し一年の長さを現代との誤差1分という正確さで計算した。

しかし、ウルグ・ベクの死後すぐにこの天文台は保守的なイスラム教徒達に破壊される。

日本では室町時代、応仁の乱より前の話である。


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 アフラシォブの丘 わかりにくいかもしれないが幾つも穴が掘られている
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 ウルグ・ベクの像
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 ウルグ・ベク天文台。昔は巨大な六分儀とそれを囲む建物があったが、
 今は地下構造物を保護する建物があるだけ
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 残っている地下構造物、ここに巨大な六分儀があった

天文台を出てアフラシャブの丘を北から南に抜けるようにして戻る。

チンギス・ハンに破壊される前はサマルカンドの都城だったというアフラシャブの丘だが、

今は茶色い丘で途中にアフラシャブ博物館がある。

博物館に立ち寄り発掘された壁画などを見て市街に戻る。

途中のバザールで買い物と昼飯、ビールで乾いた喉を潤す。

その後ホテルでひと休みし、夕方、食事がてら出かけてライトアップの時間に合わせて

レギスタンの中に入る。中から見たライトアップも綺麗だった。


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 バザールでの昼飯、シャシリク
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 なかから見たレギスタンのライトアップ

ウズベキスタン・タジキスタン2  サマルカンド

タシケントから特急で2時間半くらいでサマルカンド。

シルクロードのほぼ真ん中、紀元前10世紀あたりからソグド人の交易都市として

歴史にあらわれる。その後繁栄を続けるがチンギス・ハンのモンゴル軍に徹底的に

破壊された。その後、そのモンゴルの血をひくティムールによって再建される。

タシケント駅では荷物検査とかいろいろあって面倒とネットには書いてあったので

早めに駅に行ったのだが、荷物検査も簡単で列車に乗るときも駅員はたいして切符の

確認していないみたいで、いたってスムーズだった。

時間通りに出発し、どこまでも広い茶色い平らな土地を延々と走ってゆく。

時々、地平線の向こうの空が茶色く見えるのは砂漠の砂嵐だろうか。

かつてこの茶色い平野を隊商が行き来していたのである。

サマルカンドが近づくあたりから地面に起伏が見えてくるが、

見える山はすべて禿山である。

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  こんな大地が延々と続く

サマルカンド駅に着き、タクシーを探すが、

例によって客引きのドライバーが、〇〇と〇〇を案内するとか言ってくる。

案内などいらないのである。レギスタン広場に行けばホテルまで歩いていけるから

それだけでいいのだが、かなりしつこい。

レギスタンに行くだけでいいと大きな声で言ったら「10ドル」だと言う。

かなり高いと思ったので「2ドル」と答えると、相手は「8ドル」と言ってきた。

それだけならまだしも、案内するからどうのこうのといつまでもしつこい。

いい加減頭にきて「もういい、うるせんだよ!」と日本語で怒鳴って歩き始めるが

追っかけてくる。すったもんだの末にレギスタン広場まで4ドル。

もっとも最後まで5ドルと言い張ってはいたが(^^:

つまり、ぼったくりタクシーも怒鳴りつければ4ドルくらいでレギスタンまで行く。

ちなみにこれを読んで、同じことやって失敗した人がいても責任はとらない(^^;;


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  サマルカンド駅
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  ちなみにこれがタシケント-サマルカンド間の特急アフラシャブ号
 これは帰りのタシケント駅で撮ったもの。ちなみに駅や空港は撮影禁止。
 でもみんな撮ってたよな...。

とりあえず昼飯を食べてからレギスタン広場に入る。

広場の向こうに三つのマドラサが建っていて、

有料で入るところとの境に柵があり、その前まで金を払わなくても入れる。

とりあえず広場の一角に座り込んでレギスタンを眺める。

えらく遠いところまで来たなそんな気がした。

実際はアフリカとか南米とかもっと遠いところにも行っているのだが、

中央アジアは初めてだったのでそんなふうに感じたのだろうか。

そのあと、入場料を払ってなかに入り、美しいイスラム建築を眺める。

かつてマドラサ(イスラムの神学校)だった建物も内側に入ると小さな部屋の

ひとつひとつが土産物屋になっている。たまに「コンニチワ」と日本語で

話しかけてくる店員もいる。ひととおり眺めて広場から歩いてゆけるところにある

ホテルにチェックインし、しばらく休憩してからグル・アミール廟に行く。


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 レギスタン広場
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 イスラムらしいタイルの装飾に覆われている。
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 ウルグ・ベク・マドラサの内側
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 ウルグ・ヘク・マドラサの内側を反対方向から

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  ティラ・コリ・マドラサの入り口
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 すべての区画が土産物屋になっているわけではなく、祈りの場もある。

グル・アミール。チンギス・ハンによって破壊されたサマルカンドを再建し、

既に滅びていたモンゴル帝国の西半分を再統一したティムールの墓がここにある。

霊廟のなかに入ると石の棺のようなものがいくつも並んでいる。

そのなかにひとつだけ黒いものがあるのだが、それがティムールの墓標で、

実際に埋葬されているのはその地下3mあたりらしい。

周囲の壁はイスラムらしい装飾に覆われていて綺麗である。

ティムールは明への遠征の途中で病死してここに葬られた。

彼がモンゴル帝国の再統一を夢見ていたのかどうかは知らないが、

明の永楽帝はティムールの帝国と戦わずに済んだ。運が良かったのかもしれない。

夕方、風に吹かれてレギスタン広場に座ってボッーとしていたら、

日が暮れてからライトアップが始まった。

暗闇に浮かび上がったマドラサは次々と色が変わり綺麗だ。

終わるまでボッーと座っていた。


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 グル・アミール廟の入り口
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 グル・アミール廟
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 霊廟のなか。中央の黒い墓標の下にティムールの墓がある。
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 装飾が美しい
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 レギスタン広場のライトアップ
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ウズベキスタン・タジキスタン

少し遅い夏休みでウズベキスタンとタジキスタンに行ってきた。

シルクロードの真ん中サマルカンドのあたりがウズベキスタンである。

成田から仁川で乗り換えてウズベキスタンの首都タシケント。

仁川からは7時間半で思ったより近い。

タシケントに着いたのは夜8時過ぎ。

両替をして空港タクシーでホテルに向かう。

ちなみに空港からそれほど遠くないタシケント中央駅近くのホテルまでで

空港タクシーは168000スム。

ネットでは空港タクシーが一番簡単とか安心とか書いてあるので、

たいして疑いもなく使ったが、あとで市内のタクシー料金がなんとなく分かってくると、

この空港タクシー、結構ぼったくりである。

ちなみに、我々がタシケントから帰国するときのホテルから空港へのタクシー代は

33000スムだった。

しかも空港タクシー、カウンターで釣り2000スム誤魔化した。

すぐに気付いたが日本円で24円くらいで、少額の釣りはこんなふうに省略するのかなと

思ったので何も言わなかったが、市内の民間の店では釣りはちゃんと支払っていた。

空港タクシーは価格交渉しなくていいから簡単かもしれないが、

あまり使わない方がいいかもしれない。どうりで我々が行ったとき、

他の人達は殆ど空港タクシーのカウンターの前を素通りしていた。

たぶん一番いいのは配車アプリのタクシー、その次にホテルの送迎サービスだろう。


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  成田から出発
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 仁川での乗り継ぎ時間5時間。飲んでるしかない。

ホテルに着いてチェックインしようとすると、

フロントでパソコン画面を調べていたホテルマン、「No Booking

!?  「マジ!?」思わず日本語で聞いてしまった。

Booking.comから取ったはずだが、ホテルマンが言うにはBooking.comからの予約が

入っていないと。時間は既に夜の10時である。

唖然としつつジタバタしてもしょうがないので、付近のホテルを幾つか聞いてタクシー

を呼んでもらう。幸い向かった一軒目で部屋が空いていてその日の宿を確保できた。

これも後日談があり、日本に帰国してからメールを調べてみると、

宿泊当日の午後1時過ぎにそのホテルから「オーバーブッキングしていました。

申し訳ありません宿泊はキャンセルします」というメールが入っていた。

こちらは既に飛行機に乗っている時間である。

タシケントのManor Hotel やってくれるよ。

ホテルの側のオーバーブッキングである。

それが分かっていれば、空いているホテルを探させてタクシー代も払わせて当然だろうが、

フロントの説明は「Booking.comからの予約が入っていない」だった。

この件については今現在、Booking.comとの間でやり取りをしている。

なにはともあれ宿を確保してウズベキスタンの最初の夜を無事に過ごした。

なにやら前途多難を感じつつ、翌朝、タシケント中央駅から特急列車でサマルカンドへ。

長くなるので続きはあとで。


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 タシケント駅での朝食、これでひとり440円くらい。

金継ぎ依頼 北陸2

金継ぎを頼んでそのあとは金沢へ。
金沢城の桜は場所によって違ったが五分咲きくらい?
二回ほど来たことがあるのでさくっと桜を眺めて七尾に向かう。
家族から、金沢に行くなら普段使いの器を買ってきてくれと頼まれていて、
同じ買うなら地震で影響受けたところで買った方が少しでも応援になるかと、
七尾に向かったのである。

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 金沢城の桜

金沢あたりは地震の影響はなさそうだが七尾あたりからは地震の影響があるみたいで、
立ち寄った漆器店も仮店舗での営業だった。
輪島塗と山中塗、九谷焼などが置いてあったが、
気に入ったのは山中塗。
どうも優雅な輪島塗より木の地を生かした山中塗の方が自分の好みには合っている。
ということで、山中塗の汁椀と九谷のマグカップを購入。
ちなみに息子は輪島塗のぐい呑みを買っていた。

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 普段使いに買った山中塗の汁椀 木の木目が生かされていて気に入った。

そのあとは富山の氷見へ。
氷見の温泉に泊まり、夕飯は氷見の美味しい寿司を食おうというわけで、
ネットで調べた「すしやの城光」にホテルから歩いて行く。
海岸沿いの道を歩いていくのだが、ブルーシートのかかった家が結構目に付く。
「危険」と書かれた張り紙のされた家もあり、壊れた家を取り壊したらしい更地もある。
地震の影響がかなりあるようだ。

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 ホテルの窓からの氷見の街並み。
 ここから見える範囲では地震の影響は見えないが、
 北の海岸沿いの道を歩いていくとブルーシートで覆われた家が目に付くようになる。

寒い中20分ほど歩いて城光に着く。
カウンターに座り、刺身をつまみに酒を飲み暖まってから寿司を頼む。
醤油を使わずに食べる寿司でなかなか美味しい。握りも小さすぎず大きすぎず程よい。
寿司を食べながら大将から氷見の町のことも聞く。
やはり地震の影響でこのあとも取り壊す家が増えるそうで、人も減るだろうということ。
復興はまだ遠いようである。三陸の地震との違い、なんなんだろう。

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 すしやの城光
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 飲みながら食べているので、なんの寿司だったか忘れた。
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 これもなんの寿司だったか忘れた。美味しかったことだけは覚えてる(^^;

美味しい寿司を食べ、タクシーを呼んでもらってホテルに戻り、
温泉で暖まってゆっくりと寝る。
翌日は日本海沿いに親知らずを通り新潟に入り、上杉謙信の居城・春日山城を訪ね、
まだ雪深い妙高の横を抜け、3日間の北陸の旅を終えて関東に戻った。

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    上杉謙信の居城 春日山城 名前のとおり山城。
 しかし、城域は麓の方にかなり広く広がっていて下の方に柵や堀がある。
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 春日山城から見た越後の山と平野

金継ぎ依頼 北陸

やってしまった…。
息子が就職して初めてもらった給料で買ってくれたバカラのロックグラス。
酔って割ってしまった…。
なんというアホな親爺だ…。

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     やってしまった...。

破片は揃っているので金継ぎで直せないかとネットで調べてみた。
陶器の金継ぎはたくさん出てくるのだが、ガラスの金継ぎは少ない。
それと趣味の延長で金継ぎ教室みたいなのをやっているようなところもありそうだ。
そのなかで目にとまったのが加賀の山中温泉の金継ぎ工房・八木。
とりあえず割れたグラスの写真をラインで送って問い合わせしてみると、
修理できるとの返事があった。
金継ぎ、プラチナ継ぎ、銀継ぎの見積もりも出してもらい頼むことにした。
郵送してくださいとのことだったのだが、
割れてピラー状になった部分が送るときに雑に扱われると粉々になりそうな気がする。
破片があれば金継ぎできるんだろうが粉々になってしまっては難しいんじゃなかろうか?
で、持っていくことにした。
場所が山中温泉なのだから温泉に泊まりがてら行けばいい。
息子にそう言ったら、「その金で新しいのを買った方が安いんじゃないの?」
とえらく健全なことを言う。
息子よ、人生は健全なばかりでは面白くないのだ(^^;
ということで3月の仕事が終わったところで出かけた。
横浜から加賀の山中温泉まで530k。
東名から名神、北陸道と走って福井、ここで一乗谷に立ち寄る。
戦国の時代、越前を支配した朝倉氏の拠点として栄えた一乗谷。
京都から戦乱を逃れた貴族や僧侶もやってきて北陸の小京都と呼ばれたが、
織田信長に滅ぼされ一乗谷は灰燼に帰した。
その後、田畑となり遺跡は土に埋もれていたが、
現在は発掘されて国の特別史跡に指定されている。
一乗谷川の両側に広がる遺跡はまだ春浅く小雨がやんだあとでちょっと寒々しい感じ。
街並みが復元されているエリアを歩いたあと川を渡り高いところから遺跡を見下ろして
みる。結構ひろい範囲に街並みが広がっていたのだろうが今は田園風景である。

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  一乗谷遺跡の街並みが復元されているエリア
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  川を渡って復元エリアを眺める
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  この辺に朝倉氏の館があった
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  堀と向こうに見えるのが唐門

一乗谷から山中温泉へ、源泉かけ流しの湯でのんびりして一泊。
翌朝、金継ぎ工房を訪ねる。
ホテルから車でほんの数分、電話番号をカーナビに入れて行ってみるが普通の住宅が
あるだけで分からない。よく見るとそのうちの一件の玄関に「ぬしや」という看板があり、建物の一角が作業場になっているようだった。玄関のチャイムを鳴らして場所を確認し、
割れたロックグラスを預ける。修理の依頼が多いらしく3か月くらいかかるということ。
修理が終わったら連絡をもらって代金の振り込み後に郵送してもらう。
3か月後を楽しみにしてそのあとは金沢に向かった。

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 「ぬしや」あるいは金継ぎ工房「八木」
 お父さんが山中塗の塗り、息子さんが金継ぎをやっているらしい。
 大きな看板が出ているわけではないので初めて行くとわかりにくい。
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