GW前半で日光白根山に行きそのあと越後湯沢の温泉に泊まったが、

三国峠を越えて帰る前に一日、新潟県内を少し観光した。

そのとき立ち寄ったひとつが長岡の山本五十六記念館。

太平洋戦争のときの連合艦隊司令長官だった山本五十六は長岡の出身である。

山本五十六は前線視察中の昭和184月、ブーケンビル島で撃墜されて戦死して

いるが、その時に搭乗していた一式陸攻の左の翼がパプア政府の協力でジャングルから

回収され、日本に戻ってきてここに展示されている。

それを見た時、正直驚いた。

「なんだ! この薄い翼

山本長官機の左翼の破断した表面の鋼材は、

破断部分を手で持って力任せに引っ張ればめくれそうな気がするくらい薄かった。

「一発で翼を貫通するな

そう思った。

しかもその翼の内側は燃料タンクである。

アメリカ軍から機銃の一斉射で火を噴くワンショットライターと綽名をつけられる程に

防御力が弱かったらしいが、

その翼の鋼材の薄さを目の当たりにすると暗澹とした気分になった。

「こんな兵器で戦わされたのか

実際に戦う兵隊はたまったもんじゃない。

戦争後期に、航続距離を減らしてでも防御力をあげてくれという前線からの要望で

一式陸攻は改造され落ちにくくなるわけだが、山本長官が搭乗していた一式陸攻は、

最初の量産型、つまり防御力無視で作られた機体である。

こんな飛行機しか作れなかったのなら戦争はするべきではなかった。

一式陸攻を作ったのは三菱だが、三菱の責任ではあるまい。

海軍の性能要求を満たすためにこういう飛行機になったのである。

性能のために防御力は無視した。

しかし、それでは訓練に時間も金もかかる搭乗員を失うことになり継戦能力を

失うはずだが、一式陸攻を発注した海軍のお偉いさん達にはその辺があまり

分からなかったのであろう。

別に戦前だけの話ではない。

学校の勉強は出来るが社会に出たら役に立たないという人間は結構いるもので、

民間だとそういう人間は出世しないことで排除されるのだが、

役人の世界はそういう排除機能が働ない。

結果、役人の世界ではリーダー的地位にふさわしくない人間がそういう地位につく

ことがあるということは、戦前も戦後も変わってはいないのである。

戦後の日本のエリートが就職先に大蔵省・通産省を目指したように、

戦前の日本のエリートは陸軍・海軍・内務省を目指したのである。

明治以降の日本はエリートの養成に失敗して国を滅ぼしたんだろうな

イギリスやアメリカのエリート養成の仕方をもう一回謙虚に学んだ方が

いいのかもしれない。

GWのさなか、山本長官機の破断した翼を見てそんなことを考えたのである。


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  山本長官機の左の翼、館内は撮影禁止。
 この写真は山本五十六記念館のパンフレットの写真である。