ひさしぶりに歌会に出席。
出席者6人の小さな歌会だった。
以前は毎月複数の歌会に出ていたが仕事が忙しくなったり他の用事が増えたりして、
去年は2回、今年は初めての歌会である。
題詠と自由詠のなかにそれぞれ報告の歌があった。
「入」の題詠の方、誌面発表前なのでここには出せないが、
風の強い春の彼岸の入り、燐の火もガスの火もつかなくて線香を置いてきた。
そんな歌意の歌。
読んでそのまま、こうなって、こうなって、こうなったと報告しているような歌であり、
読者に響いてくるものがない。
一方、自由詠の方の報告の歌は、
令和〇年〇月〇日午前1時となりの部屋からプレスリーの歌が聞こえてきた。
という歌意の歌。
この歌は事実だけを報告しているのだが、
それを読んだとき、ふふっ(^^;とする感じがある。
「大変だな…、そのあとどうなったんだろ?」みたいな。
両方とも報告している歌なのだが、
令和〇年云々の歌は事実だけを提示して、あとは読者に委ねている。
事実だけを提示することで、読者になにかを感じさせる、想起させる、あるいは考えさせる、
そういうことが出来るわけで、この歌はそういう点で成功しているのだろう。
一方、題詠の方の風が強くて火がつかなくて線香を置いてきた、という歌は、
読者に委ねるものはなく、すべて報告し説明している。
読者は報告を聞いて、はあ、そうですか、で終わってしまう。
もう少し読者に委ねる部分がないと歌はうまくいかないんじゃなかろうか。
ところで、「燐の火」ってなに?
たぶん「燐寸」(マッチ)の省略なんだろうがちょっと省略きついだろう。
歌会後の作者の弁でもやはり燐寸の省略だったのだが、
今の燐寸って燐寸の頭の燃える部分に「燐」は使ってないんじゃないのかな?
「燐」を使っていたのは昔の映画とかで靴底でこすると発火する燐寸じゃないのか?
つまり今の燐寸が燃えている火は「燐の火」ではない。
昔、「燐」を使っていたからマッチが「燐寸」になったわけだけど、
この省略はどうなんだろ。
墓場で「燐の火」というとついつい人魂を思い浮かべてしまうわけで、
いっそ、人魂もマッチもつかぬ風の火に線香を・・・とか作った方が歌が面白く
なりそうだが、科学的には人魂も燐が燃えているわけではないらしい。
ひさしぶりの歌会は和気藹々とした雰囲気で人が少ない分、一首一首をじっくり
批評できていい歌会だった。
去年は2回しか歌会に出られなかったが、
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。