捨てたほうの人生の続き思いつつ大きな鯵を背開きにする
/ 王生令子
王生令子の第一歌集『夕暮れの瞼』のなかの一首。
たいていの人に、あの時、ああしていれば…ということがあるだろう。
違う人生があったかもしれない、
そういう思いを抱く時がある。
鯵を背開きにするのはアジフライでも作っているのだろうか。
鯵を捌きながら、ふと、あの時のことを思う。
あの時、違う選択をしていたら、違う人生、違う愛、違う家族があったかもしれない。
そんなことを思いながら、今の家族のために鯵を背開きにしている。
今の幸せが決して平面ではなく、
たいていの人はその奥にいろいろなものを抱えている。
当たり前といえば当たり前のことなのだが、そんなことを思う。
歌集には詠い放つような歌が並ぶ。
そのせいか、歌集を読み続けたとき結句の単調さを感じなくもない。
試しに、無作為に開いたページの歌の結句を並べてみると、
うちわを持って
毛布をかぶる
ごはんを作る
ああ、腹が立つ
名前をなくす
男になりたい
詠い放ち、一首の余韻とかはあまり気にしていないような感じがする。
それを吐き出さなければ己が苦しい、吐き出すことで己が救われる。
それが表現の本質であるわけだが、一方、その吐き出したものをさらに詩として
昇華することで短歌は生まれるのではないかとも思うわけで。
歌集を読んで、その昇華は充分だったのか?
あるいはこれが作者のスタイルということでいいのだろうか?
作者の力は感じつつ、その辺はちょっと気になった。
それはそれとしてこの歌集、出版は2021年11月である。
歌集を頂いてから2年、忙しさにかまけて机に積んだままだった(^^;
遅ればせながら頂いた歌集を順番に読んでいるということで、
作者の方、許してくださいませ(^^;;
アーチェリーの射場、左の幾又にも分かれた桜の老木の折れた枝の処分。
上の枝に引っ掛かったままぶら下がっていて、人が下にいるときに落ちてくれば
大変なことになるので、なんとか工夫して引き摺り下ろして処分した。
山を管理して射場を維持するのは大仕事である。


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