今年最後の歌会は湘南歌会。
というか、最近、湘南歌会しか出られないでいる。
ホームグラウンドにしていた横浜歌会は、
毎月第一日曜でアーチェリーの射会とぶつかる。
射場が営業していた頃は参加費を払って出るお客さんだったので気には留めなかったが、
自分達でクラブを立ち上げて運営するようになると、結構さぼりにくいものがある。
しかも、来年からは第一日曜が射場の山の整備、第二日曜が射会ということになった。
射場の整備はコースの草刈りをしたり山の木を伐ったりの重労働なのだが、
なぜか皆さぼらずに射会の日より早く来て作業をしていたりする。
ますますもって、さぼれない。さぼろうものなら、
「あいつは俺達が汗水たらして草刈りしている時に歌会やってるのか」
と言われるだろう(^^;
第一日曜に雨が降って山の整備が中止にならない限り、横浜歌会は難しくなってしまった。
以前は出ていた東京歌会や東京平日歌会も、仕事が忙しくてやはり出られないでいる。
ということで、当分、湘南歌会しか出られないのであろう。
それはそれとして、気になった歌。
例によって誌面発表前なのでここには出せないが、
シベリアを晩年のとある日とある場所で食べぬ、
そんな歌意の歌。
言うまでもなくシベリアはお菓子のシベリアである。
この歌の批評が難しかった。
「晩年」というのは一般的には故人に使う言葉である。
30代で死ねば30代が晩年だし、70代で死ねば70代が晩年である。
すると、故人を詠っているのか?
しかし、結句は「食べぬ」と完了形で、その前は「とある日とある場所」。
もし一緒に食べていたのなら「とある日とある場所」はおかしいわけで、
批評が難しかった。
いろいろ活発な意見が出たのだが、
そのなかで面白いと思ったのは、
「死後の世界から生前の自分を振り返って詠んでいる、そんな感じがする」
…なるほど、そういう視点からの歌か…。
そう考えるとちょっと面白い歌で、こういう表現もあるのかと思ったのだが、
やはり、どうなのだろう「とある日とある場所」が問題なのではなかろうか、
西行の有名な歌がある。
願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ
この歌は死後から生前の自分を詠んでいるわけではないが、
あるいは詠っているとき、西行には桜の下で死んでいる自分の姿が思い浮かんでいた
かもしれない。「花の下にて」「望月のころ」と情景の浮かぶ言葉があるので、
読者は歌の世界に入れるわけである。
で、「とある日とある場所」の歌は、
着想は面白いのだが、読者が情景を思い浮かべるのが難しい。
物語で「昔昔あるところに」という導入があるが、
物語の場合、その後のストーリーで読者は物語の世界に入れるのである。
「とある日とある場所」だけで読者が詩の世界に入るのは難しいのではなかろうか。
そういう気がする。
もちろん、この歌はまだ完成していない歌である。
着想は面白いのであり、作者が完成させた歌を読んでみたいと思う。
先月の湘南歌会は知識に頼った批評が多くて残念だったのだが、
今年最後の湘南歌会は、他にも良い歌が多く批評も活発で楽しかった。
来年からはハンデが減って入賞も難しくなるのだろう(^^;;
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