ひさしぶりの横浜歌会。
例によって気になった歌。
誌面発表前なのでここには出せないが、
ひと気ない街道の・・・秋の深きに菊白く立つ、
そんな歌意の歌。
この歌の批評でほとんどの人が、家の建っていない街道を思い浮かべていた。
で、家の建っていない野のなかに続く街道で咲いているのは道端の野菊であろう、
「菊白く立つ」というと鉢植えで作られた大輪の菊のようで、違和感がある、
そんな感じの批評。
で、私は「この街道には家は建っていないんですか?」と質問したのだが、
家は建っていない、という答えがほとんど。
う~ん…。木曾街道の妻籠、馬籠とか、古い家並みが続く街道って日本には当たり前に
あって、そういう家並みの続く田舎の街道のひと気のない秋の一日、庭先や玄関先に
白や黄色の菊の鉢植えが置いてあるとかいうのはフツーにある風景である気がするのだが、
そういう読みの可能性は一言も触れられず、批評は終始「家の建っていない街道」だった。
「菊白く立つ」は確かに野菊のイメージではない、大輪の菊のイメージである。
そういう大輪の菊が立っているのは野に続く街道の道端ではあるまい。
そうやって読みを検証していったとき、古い家並みの続く街道のひと気のない秋の一日
というイメージは浮かばないだろうか?
と思いつつ批評を聞いていた。
実は、この歌、私の歌である。
で、歌会が終わってから吾が師匠、岡部史さんに聞いてみた。
「あの歌、家の建っていない街道という感じがしましたか?」
「そうねえ、『ひと気なき』で、もうそういう方向に行ったね」
なるほど…。確かに、街道には街と街の間の家並みのないところに続いている街道も
あるわけで、この表現で意図した方向に読めるだろうと期待し過ぎたかな…。
ま、参考にして推敲してみよう。
この歌については自分の歌だったので、批評に対する疑問についてそういう質問を
したわけだが、実は当日の歌会で、こういうことがあった。
絵のなかの女性の目が濡れている、描いているマネを見つめる瞳、
そんな歌意の歌で、
上句の強さの理由について意見を求められて私は、「いい女だったんじゃないの?」と答えた。
するとある出席者が「違うよ、モデルの方がマネを好きなんだよ」と言った。
それを聞いて、「ああ、この人の歌だな」と思ったのだが、
歌会では自分の歌について自解あるいは自分の欲する方向に読みを誘導するような
発言は控えるべきである。
歌会に歌を出すのは、自分の歌を第三者の目にさらし、その評価を聞くためである。
それを最初から、この歌はこういう歌ですと自解してしまったり、こういうふうに
読んでください的に誘導してしまっては、歌会に歌を出す意味がない。
くだんの歌についても、モデルの方がマネが好きで描かれながらマネをみつめている、と
表現したいのなら、もう少し推敲が必要だろう。
描くのは画家である。画家の方にモデルに対してなにがしかの気持ちがあれば、
それは絵にあらわれるだろうし、逆にそういう気持ちがなければモデルがいくら目を
うるうるさせても、画家はそうは描かないかもしれない。
その辺の批評を聞くためには、自解してしまっては意味がない。
自分の歌への批評についての疑問を質問する場合も、
誘導的な質問の仕方にならないよう気を付けるべきである。
ちょっとその辺が気になったのである。
歌会のあとは飲み会、さんまの塩焼きがあったので、それを塩抜きで作ってくれと
注文したらちゃんと作ってくれた。美味しかった。


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