松江での現代歌人集会の春季大会。
会員ではないが一般参加も出来るので講演を聞きに行った。

「あたらしきリアル」というテーマ。

現代の短歌で「リアル」がどう変容しているか。

世代の差とか断絶とかいろいろ理由はあるのだろうが、

従来の「リアル」では説明の出来ない歌が増えてきているわけで、

その辺を考えてみようというもの。

大辻隆弘の基調講演に続き吉川宏志の講演。

近代短歌は時間的空間的に定点を据えて詠われてきたとか、

「リアルの三原則」、身体性・不在性・他者性という二人の話は分かりやすく、

内容の濃いいい講演だった。

確かに近代短歌は理路整然と詠われているところがあって、

それが「古いリアル」だったわけである。

で、「古いリアル」を確認したところで「新しいリアル」の話になるわけだが、

松村正直、大森静佳、森井マスミ、楠誓英の若い4人によるパネルディスカッションは

ちょっと話がとっちらかった感があったかな?
途中から松村正直がかなりディスカッションをリードして話したのだが、

このままでは話がまとまらないと思ったのだろうか?(^^;

ちなみに松村正直って、瞬発的な思考力がある。思考していることを言語化する能力にも

長けている。話を聞いていてそう思った。

そのどちらも自分にはないもので、ちょっと憎らしくなるような男ではある(^^;;

それはそれとして、ディスカッションでいろいろ出てきた話のなかには、

「それはリアルについての話か?」というものも結構あった。

リアルの問題というより、表現が個の内側に向かっているのではないかとか、

そういうのも結構あった気がする。

近代短歌は理路整然としている。

しかし、現実の人間はそんなに理路整然としているわけではなく、

むしろその理路整然が嘘っぽくなってしまうということはあるだろう。

近代短歌は静止画的で、それに対し動画的な歌が出てきているという話もなるほどと

思った。子供のときから写真ではなく動画を当たり前に見てきた人間にとっては

動画的なものの方がリアルであるのかもしれない。

松村正直の「中心がひとつの円ではなくふたつ以上の中心がある楕円」という話も

確かにその通りなのだろう。

人間は何かを話しているとき、そのことだけを考えているのではない。

仕事の打ち合わせをしながら、今夜どこに飲みに行こうかと考えるようなことは

当たり前にするのであって、人間は一度にひとつのことしかしていないわけではない。

人間のそういう部分を31文字にしたような新しい歌もあるわけで、

そう解釈すると「古いリアル」からは読みにくい歌も理解できるということも分かる。

しかし、そういう人間の同時並行的思考は別に現代人の特性ではない。

昔から人間はそうなのであって、

西行も定家も、桜を見あげながら、こうやって見上げているとこの頃ちょっと首のあたり

が痛いなとか考えたかもしれない。しかし、西行も定家もそういう詠い方はしていない。

短歌の歴史のなかで、人間の意識は円ではなく楕円であるということは排除されてきた。

それはなぜかなと思うとき、

いたって単純に、楕円って詩になるのかな? とは思うわけである。

桜を見上げている歌は人の心を動かすかもしれないが、

桜を見上げながら、そういえば最近首のあたりが痛いなと言われても、

あまり感動しない気はする。

リアルは楕円かもしれないが、リアルをそのまま持ってきても人の心は動かない、

そういう気はするわけである。

身もふたもないって話はあるわけで、
この生き辛い現代の、身もふたもないところから
生まれてきたものが新しいリアルの
一面としてありそうな気はするが、
内向き、自閉、虚無、絶望、そういういろいろなものが
あるのは分かるとして、
短歌が作者を反映するものである以上、

実は、短歌そのものに自閉的な傾向があらわれているのではないか?

話を聞いているうちにそんな気もしてきたわけである。

もし、そうだとして、自閉的な短歌は文学として生き残れるのだろうか?

そんなことも思うわけだが、もちろん、それはたぶん、新しいリアルの一面の話でしかない。
いずれにしろ、パネルディスッカッションが終わって質疑応答の時間になったとき、

「古いリアルは分かりました。で、新しいリアルはどうなったんですか?

と聞きたくなる感じではあった(^^;;;

新しいリアルというより古いリアルを確認するような感じになってしまったのだが、

それはそれで内容の濃いディスッカッションだった。

それくらい難しいテーマだったということだろう。

 IMG_2993
    午前中に行った、ラフカディオ・ハーンが松江で住んだ家のハーンが使った机(レプリカ)。
 片方の目が見えなかったので、もう一方の目で近くから見るようにして原稿などを書くために
 普通より背の高い机になっている。