時代の危機に声をあげよとさはされど茂吉のようになりたくはなし
先月の結社誌に出した歌。
この歌を歌会に出したとき、
「齋藤茂吉のように批判されたくないので、政治の話には口出ししたくないと思っている」
というふうに読む人がいて、ま、読者それぞれに読んでもらって構わないのだが、
作者としてはもう少し深いところを読み取って欲しいなという気はしたのである(^^
齋藤茂吉は戦争協力ということで、戦後だいぶ批判された人である。
本人にしてみれば、「あの時代はみんなそうだっただろう」という気持ちがたぶんあったと
思うわけだが、彼が時代の雰囲気に呑まれていたのも事実だろう。
で、戦後の歌人はそういうことを知っているので同じ過ちを繰り返さない、
短歌の世界ではそう思っている人が多いのではなかろうか。
しかし、そうではない気がする。
参議院選挙が終わった。
与党の圧勝、改憲に必要な三分の二を確保。
新聞にはそういう見出しが出ている。
昨年、安保法制に反対して若者が動き出し、多くの学者や文化人も加わった。
安保法制に反対しているのが国民の声だと言っていた。
彼等の行動が政治に新しい大きなうねりをもたらすだろうと言っていた。
それで、どうして選挙でこういう結果が出るのか?
短歌の世界でも動きがあった。
時代の危機にどう向き合うか、歌人達が集まりシンポジウムも開かれた。
私もそういうシンポジウムのひとつに参加したが、
そこで感じた懸念については、以前このブログにも書いた。
昨年の安保法制に反対する活動にこの国のサイレントマジョリティーが同意しなかったのは、
反対する人達の活動に危うさを感じたからではないのか?
主張に現実味がなかったし、
その手法は民主主義を口にしていたがファシストの手法と同じものだった。
昨年の反安保法制の活動はイメージ戦略に頼ったものだったわけだが、
そのなかで陶酔していたのではないのか?
あれが陶酔でなく本当に中身のあるものだったのなら、
今回の選挙はもう少し違う結果になっていたのではないのか?
短歌の世界での話も同じである。
戦後の歌人は茂吉の失敗を知識として知っているわけだが、
陶酔のなかではそんな知識は消えてしまう。
昨年来、短歌の世界にあった幾つかの動きには、
時代の雰囲気に呑まれたものなどなかったと、
本当に言い切れるだろうか?
右か左かは茂吉の失敗の本質には関係ない。
時代の雰囲気に呑まれ、茂吉と同じ失敗をしようとしていなかったか?
我々歌詠みもその辺をゆっくり考えてみて損はない気がする。



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