2025年07月

道はひとつではない

アーチェリーの射場、4番の15mの小的を射って、次の的へ歩いていくとき、

なにかいつもと風景が違うなと思った。

見慣れた森のなかの道を大きな木が横たわって塞いでいる。

この木は道の右側の斜面にかなり前から枯れたまま立っていた大木である。

上の方の枝は折れてなくなっていたが、それでも高さは10mくらいあっただろうか。

幹は大人ひとりではとても抱えきれないくらいの太さだった。

枯れたままコースの脇に立っているので、

いずれ倒れてきたら危険だということで伐り倒そうという話も出たが、

太すぎてプロが使うような大きなチェンソーでなければ伐れそうになく、

そのままになっていたのだが、

文字通り、ある日突然倒れていた。

根元のあたりを見てみると根が浅いところで折れている。

大木でしっかりしたように見えていたが、地面の下は根が腐って支えきれなく

なっていたのだろう。ぽっかりと空いた根元の穴の土はまだ湿っていたし、

倒れたときになぎ倒されたのだろうヤマユリはまだ白い花が開いたままだったので、

それこそ、数日前とかではなく昨夜とか、倒れてまだあまり時間は経っていないのでは

なかろうか。倒れたときはかなり大きな音がしただろう。

それにしても、コースを歩いているときに倒れてこなくて良かった。

コースを歩いているときにこの木が倒れてきて下敷きになっていたら即死だろう。

「とても伐り倒せないと思ってた大きな木が、地面の下の見えないところは弱くなって

てあっけなく倒れるんだ。まるで中小企業の倒産だな」

と言ったら、自分で会社を経営している常連仲間のS、なにやら苦笑いしていた。

心当たりでもあるんだろうか(^^;?


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さて、この大きな倒木どうしたらいいのだろう。

このまま道を塞いだままにしておくのは困る。女性の会員は乗り越えられないだろう。

人が通れるようにその部分だけでも切らなければならないが、切るのもかなり大変である。

切ったあとの木材は背負って運んで下の練習場で火を燃やすときに使うのだが、

それを運ぶのもことである。

大仕事だな、と話しながらコースを回って練習場にくだり、下にいた会長達長老に

事の次第を報告。長老達は早速現場を見に行った。

そのあと昼食を食べながら、

「どうやって切るんだ、大きなチェンソーでないと切れないぞ」

「斜めに切って、また斜めに切って、そういう感じで切っていけば〇×▽」

などと話していたら長老達が戻ってきた。

どうしますかと聞いたら、

「簡単だよ、あの木はそのままだ。迂回する道作ってそこを通ればいい。

あんな大きな木切れやしないよ。道を変えればいいんだ」

・・・・・・。なるほど(@@

道を塞いでいる倒木を切って道を再び通れるようにすることばかり考えていたが、

倒木はそのままにして道を迂回させればいい。

言われてみれば確かにそれが一番簡単である。

発想の転換というやつか。

さすが射場の長老達、無駄に歳は取っていない(^^;;

道はひとつではない。

進もうとした道が通れなければ別の道を探せばいいのである。



マッチ擦るつかのま海に霧ふかし

NHK短歌を読んでいたら、寺山修司の歌についての紹介があった。

 

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

                         /『空には本』昭和33

 

この歌について文章を書いている桑原優太郎は、塚本邦雄の次の賛辞を紹介し、

「寺山修司のデビューは・・・燦燦たる光に包まれた、戦後九年目の希望の象徴で

あった。老い朽ちようとする韻文定型詩は、まさしくこの寵児の青春の声によって、

一夜にして蘇った」。

しかし、その映像性についてはたぶんに作られたもので、

演出がほどこされたつくられたきらめきと記している。

で、表記の歌については、

「場面は、異国船が乗り付ける波止場、スクリーンには、主演の二枚目俳優が大写しに

なる。マッチを擦るのは、もちろん口にくわえた煙草に火をつけるため。炎によって、

霧にけぶる海がぼうと浮かび、そののち、無国籍を気取る主人公は、煙をくゆらせながら

捨てたはずの祖国を思う。もう、とびきりのハードボイルドである。こうした、詩歌作品と

しての演出に裏打ちされた映像性が、寺山修司の作品の大きな魅力といえるだろう」。

と評している。

確かに、寺山の歌は作られていて、その歌は映像的である。

それはしかし、寺山の歌の一面ではないのか。

ハードボイルドという印象になるのかもしれないが、

この歌が詠まれた昭和30年代前半、

寺山は戦争で父を失い、母は米軍基地で働いていた。

そういう背景から浮かびあがってくるこの歌は「とびきりのハードボイルド」という

ものだろうか。もっと陰影のあるものなのではないか。

もちろん、背景に引きずられすぎた読みも問題があることは分かっている。

そうだとしても、桑原のこの歌についての紹介は寺山の歌の既存の評価の一面だけを

伝えていて雑である。

寺山のこの時期の歌については俳句からの剽窃とか、いろいろ問題があるわけだが、

寺山が短歌の一時期を画したのは事実である。

その瑞々しい青春性も作り物として単純に否定されるものではないと思う。

雑誌の原稿の字数制限ということは分かるのだが、

もう少し深みのある文章を読みたいと思ったので書いてみた。

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  今日はアーチェリーの射会、45mの的を狙う常連仲間2人


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