2025年05月

乗鞍岳

乗鞍岳に行ってきた。

積雪期は若い頃にスキーを担いで頂上まで行き、滑り降りてきたことがある。

日本の山が一番きれいな残雪期。最後の残雪を追っかけて行ってきた。

家を早朝4時に出て4時間半で乗鞍スカイラインのほおのき平バスターミナルに着く。

そこから畳平へ。855分のバスに間に合った。

最初、天気がイマイチだったが、登るにつれて段々天気が良くなり、

車窓から穂高のあたりが見えるようになってきた。

畳平は子供達が小さい頃に連れて登りに来て以来で久しぶりである。

確かあちらの方が登山道だったなという程度の感じで歩き始める。

肩の小屋への道は途中から残雪に埋まっていて、ハイキングらしい人たちは

そこで諦めていた。我々は残雪の斜面をそのまま進み、肩の小屋から頂上へ向かう。

もう5月も中旬過ぎなので残雪も少なくなってきているが、それでも残雪の照り返しで

サングラスをしていないと目が眩しい。

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  ほおの木平のバスターミナル
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 畳平を振り返る
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 肩の小屋への道は途中から残雪
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 肩の小屋
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 頂上へ残雪の斜面を登る

頂上に近づいたあたりでカエルが鳴くような声が聞こえた。

「カエルか?」と言って振り向いたら後ろにいた登山者が「雷鳥です」と教えてくれた。

3000mの残雪の山にカエルがいるわけはないので、アホな奴だと思っただろう(^^;

畳平から1時間35分で頂上着。

鳥居をくぐり乗鞍神社で手を合わせ、周囲の山々を眺める。

頂上直下のドラゴンアイくずれのような池の向こうには白山が見える。

ぐるりと見まわすと雪の多い笠ヶ岳、その隣に穂高の吊り尾根。

南の方にあるのは御岳である。

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 頂上はすぐそこ。雷鳥の鳴き声が聞こえたのはこの辺り
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 頂上
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 ドラゴンアイくずれのような池と遠く向こうに白山
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 笠ヶ岳と右に穂高の吊り尾根

明日からは天気が悪そうで、ちょうどいいタイミングで登ることが出来た。

しばらく3000mの風景を楽しんでから下山。

その日は平湯温泉で泊まり、

翌日、岐阜城に立ち寄り、

ミズキ、ニセアカシア、トチノキ、朴の木の咲く5月の森を眺めながら横浜に帰った。

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  山の上に見えるのが岐阜城

 

階段教室

NHK短歌を読んでいたら河野裕子の歌があった。

 

  木いちごの緑葉照れる木造の階段教室に初めて逢ひき

                         『桜森』

 

河野裕子が生涯の親友となる人との大学での出会いを回想している歌だが、

読んでいてふと思った。

河野裕子の回想の場所は階段教室の中あるいは外?  どっちだ?

「階段教室に初めて逢ひき」という表現からは階段教室のなかで出会っているシーンを

思い浮かべるわけだが、

「木造の階段教室」という表現からは木造の階段教室の講義棟を外から見ている

感じがある。

「木いちごの緑葉」はどこから見ているのか?

木いちごはそんなに背が高くなる木ではない、せいぜい12mか。

階段教室の内側を回想しているなら教室の窓から木いちごを見下ろしているのだろう。

建物の外側にいるなら、建物の脇に植わっている木いちごを見ているわけである。

「木造の」とわざわざ言っているところからすると、

河野裕子は木造の階段教室の講義棟を外から見て詠っているような気がする。

建物のほとりには木いちごの緑の葉が日に照っている。

そしてその回想は、建物の外から階段教室のなかへとめぐっていく。

人がなにかを回想するとき、ただひとつのシーンだけを思い出すのではない。

映画のタイタニックの一番最後のシーンのように回想は自由に駆け巡るのである。

ほとりに木いちごの茂る建物の外から、そして階段教室のなかへ、

河野裕子の回想を少し追っかけてみた。

 




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    アーチェリーの射場に植えた木苺(ラズベリー)
 植えて2年ほどだが、そんなに大きくならない。


射場キャンプ

GW後半はアーチェリーの射場でのキャンプ。
ここ数年、GW前半は残雪の山に行き、後半は射場でキャンプをして
バーベキューとアーチェリーを楽しむという感じで過ごしている。
毎月第一日曜が射場の山の整備の日で、コースの壊れた的や階段を直したり、
木を伐ったりしているのだが、今の季節は草刈りである。
何班かに分かれ担当の場所を決めて草刈り機で草を刈る。
コースの途中にはエビネやキンランが咲いていたり、出てきたばかりのヤマユリが
あるのだが、絶滅危惧種のキンランも雑草も区別がつかない連中が草刈り機を
振り回して草を刈るので切ってしまわないか心配である。

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     エビネ
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 絶滅危惧種のキンラン

1時間ほどで終わらせ、昼はバーベキュー。
肉を焼き、射場で採ったタケノコを天婦羅にし、ダンボールで作った燻製器で燻製を
作ったりして楽しむ。泊まりなのでアルコールもOK。
バーベキューを楽しんだあとはコースに入ってアーチェリー。
ひと汗流したら飲んでいないメンバーの運転で近くの日帰り温泉でひとっ風呂浴び、
戻ってきたあとは暮れてゆく射場でのんびりする。
他愛無い話などしながら酒を飲み、夕食後はそれぞれのテントへ。

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 山の作業が終わり、バーベキューの支度
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 いろいろと焼く
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 射場で採ったタケノコの天婦羅
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 ダンボールで作った燻製器
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 こんなふうに出来る
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 テントを張る
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 食って飲んだらアーチェリー

翌朝はウグイスの鳴き声で目が覚めた。
鳴き始めた頃はケキョケキョと下手くそに鳴いていたが、
ホーホケキョと綺麗に鳴いていた。
ダンボールの燻製器で昨日作っておいたベーコンと卵でベーコンエッグを作り、
飯盒で炊いたご飯で朝食。なかなか美味い。
幸い天気が良いので午前中にテントを乾かしたりして片づけを済ませてから、
コースを一回りした。キャンプ疲れで前日よりちょっと点数出なかったかな(^^;
毎年こんなふうに季節を楽しめるのが嬉しい。
さて、GWが終わったら仕事である。5月は法人の3月決算の申告で忙しいのだ。

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 自家製のベーコンで朝食のベーコンエッグ
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 45m射ち下ろし

山本長官機の翼

GW前半で日光白根山に行きそのあと越後湯沢の温泉に泊まったが、

三国峠を越えて帰る前に一日、新潟県内を少し観光した。

そのとき立ち寄ったひとつが長岡の山本五十六記念館。

太平洋戦争のときの連合艦隊司令長官だった山本五十六は長岡の出身である。

山本五十六は前線視察中の昭和184月、ブーケンビル島で撃墜されて戦死して

いるが、その時に搭乗していた一式陸攻の左の翼がパプア政府の協力でジャングルから

回収され、日本に戻ってきてここに展示されている。

それを見た時、正直驚いた。

「なんだ! この薄い翼

山本長官機の左翼の破断した表面の鋼材は、

破断部分を手で持って力任せに引っ張ればめくれそうな気がするくらい薄かった。

「一発で翼を貫通するな

そう思った。

しかもその翼の内側は燃料タンクである。

アメリカ軍から機銃の一斉射で火を噴くワンショットライターと綽名をつけられる程に

防御力が弱かったらしいが、

その翼の鋼材の薄さを目の当たりにすると暗澹とした気分になった。

「こんな兵器で戦わされたのか

実際に戦う兵隊はたまったもんじゃない。

戦争後期に、航続距離を減らしてでも防御力をあげてくれという前線からの要望で

一式陸攻は改造され落ちにくくなるわけだが、山本長官が搭乗していた一式陸攻は、

最初の量産型、つまり防御力無視で作られた機体である。

こんな飛行機しか作れなかったのなら戦争はするべきではなかった。

一式陸攻を作ったのは三菱だが、三菱の責任ではあるまい。

海軍の性能要求を満たすためにこういう飛行機になったのである。

性能のために防御力は無視した。

しかし、それでは訓練に時間も金もかかる搭乗員を失うことになり継戦能力を

失うはずだが、一式陸攻を発注した海軍のお偉いさん達にはその辺があまり

分からなかったのであろう。

別に戦前だけの話ではない。

学校の勉強は出来るが社会に出たら役に立たないという人間は結構いるもので、

民間だとそういう人間は出世しないことで排除されるのだが、

役人の世界はそういう排除機能が働ない。

結果、役人の世界ではリーダー的地位にふさわしくない人間がそういう地位につく

ことがあるということは、戦前も戦後も変わってはいないのである。

戦後の日本のエリートが就職先に大蔵省・通産省を目指したように、

戦前の日本のエリートは陸軍・海軍・内務省を目指したのである。

明治以降の日本はエリートの養成に失敗して国を滅ぼしたんだろうな

イギリスやアメリカのエリート養成の仕方をもう一回謙虚に学んだ方が

いいのかもしれない。

GWのさなか、山本長官機の破断した翼を見てそんなことを考えたのである。


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  山本長官機の左の翼、館内は撮影禁止。
 この写真は山本五十六記念館のパンフレットの写真である。

 

名胡桃

越後湯沢からは三国峠を越えて帰った。
関越トンネルを通って帰るのが一番早いわけだが、
春の三国峠越えの道は残雪と桜と新緑が綺麗だ。
群馬側に入るとハナモモと林檎も沢山咲いている。
いつからか春は好んでこの道を通って関東に帰るようになった。
今回も三国峠を越えて帰ってきたわけだが、
途中にある名胡桃城に立ち寄ってきた。
どう見ても道路沿いのイタリアンかなにかの店にしか見えない建物が
名胡桃城の案内所である。
城の由来については諸説あるらしいが確実なのは信州の真田が上野に進出した
ときに作った城ということである。
なかに入るといろいろな展示があるのだが、そのなかに馬場あき子の歌があった。

 名胡桃城址われは本丸の草にゐて草の時間の深さに酔へり

 三の丸二の丸越えてはるかなる本丸までを夏草の城

 人間の時間植物の時間と争ひし城址つくづくと青空はみる

 ほろびたる名胡桃城址の四百年青バッタ赤バッタ飛ぶ野となれり

今は草に覆われている名胡桃城。
その城址ではるかな時の流れを思うわけで、
芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」ともちょっと違う感じがする。
「青バッタ赤バッタ」とか、馬場あき子の目はかなり細かいところにも向けられている。
この城址で馬場あき子はこういう歌を詠ったのかと思いながら歩いた。

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    名胡桃城の案内所
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 馬場あき子の歌があった
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 案内所から名胡桃城址に入る

一番奥、本郭の奥がささ郭である。
ささ郭に立つとこの城がよく分かる。
本郭がむき出しにならないようにささ郭を作ったとか、脱出口として作ったとかの
話があるが、たぶん違う。
利根川の河岸段丘に作られた名胡桃城。
ささ郭に立つと沼田盆地が一望に出来る。
沼田城も当たり前に見えてその辺での軍勢の動きも容易に把握できただろう。
名胡桃城は守るために作られた城ではない。
沼田を攻めるための拠点として作られた城である。
真田はそのためにこの城を作った。ささ郭に立てばそれがよくわかる。
春の青空と新緑の沼田盆地を見ていると、そういう歴史も文字通り遥けく思えてくる。
ところどころに咲いている八重桜やツツジが綺麗だ。
思いがけないところで馬場あき子の歌と出会って帰ってきた。

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 ささ郭から望む沼田盆地

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