夏休み最終日、和倉温泉から帰る途中、七尾城に立ち寄った。
なんでも日本五大山城のひとつなんだそうで難攻不落を誇ったらしい。
車で走っていくとどんどん山に登っていく。
「随分、平野と離れてるな…」と思った。
結構登って本丸の下の駐車場に着く。
ボランティアのガイドがいて、いろいろ説明してくれる。
標高300mの城山に本丸があり、二の丸、三の丸、桜馬場、屋敷跡などが周囲に広がる。
地形を利用した山上の城郭である。
能登畠山氏が築城したらしいが、最初は砦くらいのもので、麓の七尾府中に守護館が
あったというから、有事の避難所くらいのものだったのだろう。
それがその後拡張され、守護館そのものも七尾城に移ったらしい。
ガイドさんの説明を聞きながら少し歩くと石垣が見えてきた。
森の中に数段の石垣があり、その向こうに本丸の石垣が見える。
この山の上にこれだけの石垣を巡らせた城、ガイドは難攻不落の城と言っていたが、
説明を聞きながら、攻める必要のない城だと思った。
これだけ麓の平野と離れていれば、城を囲んでおけば平野は支配できる。
囲んでいればいずれ飢える。飢えて城から出てくればその方が戦いやすいはずである。
説明してくれたガイドに礼を言って本丸に登る。
駐車場からはほんの5分くらいである。
本丸の石垣の端の階段を登ると広くなったところに出る。
昔はここに本丸があったのだろうが、今は石碑と小さな神社があるだけである。
石垣の上に立つと麓の七尾市街と能登湾、その向こうに能登島が見える。
上杉謙信がこの城を攻め落としたとき、ここからの景色を見てその絶景に感嘆したという。
本丸下の駐車場 ボランティアのガイドがいる
最初に見えてくる石垣
本丸の石垣
石垣の上からの眺め
1577年、上杉に攻められて七尾城は陥落する。
難攻不落の城だったが、囲まれて飢えた。麓の住民も含んだ多数の籠城者を抱え、
糞尿も処理できず、城内には糞尿が山となって溜まった。そして疫病が発生。
城主の畠山義隆もそれで死んだらしい。そして重臣の寝返りで落城した。
山城というのは、もともとは有事の避難所として作られたのだろう。
上杉が攻めたとき、麓の住民も城に入っていたというのは、避難所としての機能が
まだ残っていたのだろうか。
戦いがまだ大規模でなかった時代は、山城に立て籠もって戦えば、囲んだ方もそう
長くは戦えなかっただろう。軍隊の組織化がまだ未熟だった頃、兵糧は自前だし、
兵士は春は田植えをしなければならず秋は稲刈りをしなければならないのである。
長く陣取っていられない敵を山城で防ぎ、折を見て高いところから襲う戦い方は
有効だったはずだ。しかし、戦国後期、戦いが大規模になり、兵農分離が進むと、
大規模な軍隊が長期に戦うことが出来るようになった。
籠城戦は長期化し、援軍のあてがない限り山城での籠城は不利になった。
山城はその有効性を失い平城が主流になる。
上杉謙信が七尾城を攻めたときに詠んだという漢詩がある。
霜は軍営に満ち秋気清し
数行の過鴈 月三更
越山併せ得たり能州の景
さもあらばあれ家郷の遠征を憶ふは
さて、夏休みは終わりだ。これから530k走って横浜に帰る。
本丸跡に立つ石碑
本丸跡の神社