死がそこに待つてゐるならもう少し茗荷の花も食べてよかつた
/河野裕子『蝉声』
NHK短歌の6月号を読んでいたら、河野裕子のこの歌への山崎聡子の批評が
出ていた。批評というか紹介ということなのかもしれないが、
どうもそれが物足りなかったので、ちょっと書いてみる。
まず、山崎聡子はこう書いている。
「茗荷といえば、あの濃厚な匂いの夏野菜を思い浮かべますが、その花は白く可憐で、
咲く前の蕾が食用にされます。美しい花を食べてしまうのは躊躇されますが、死が
近づいているのであれば、その美しい花弁ごと自分のものにしても良かったのかも
しれない。茗荷の花が咲き、夏の終わりが近づくなか、作者はそんな思いを抱いた
のでしょうか。茗荷の花「も」という助詞が後悔を数えているようにも読み取れ、
なんとも胸が締め付けられる一首です」
山崎聡子の批評を否定するつもりはなく、いい批評だと思う。
ただ、ちょっと物足りないと思ったのは、
死がそこに待っているなら茗荷の花も食べてよかった、と詠っているのは、
食べると物忘れがひどくなるという茗荷も、死がもうそこにやって来ているのなら、
忘れてしまうことなど気にしないで食べればよかった…。
そういう死を自覚した作者の諦めの気持ちと、
死を前にしてなお幾何かのユーモア、
そういうものがあるのではないだろうか、
というか、そういう作者の心情を読み取りたい気がするのである。
山崎聡子の批評は「茗荷の花」に着目したということかもしれないが、
どうも読んでいると、茗荷の花は普通は食べないものというような感じに読めてしまう。
実際には、茗荷は花が咲いてからも食べられて、茗荷本体と一緒に花を刻んて使ったり、
花を酢漬けにしたり、フツーに食べられるものである。
そういうことを知っていると、
美しい花を自分のものにしてしまえばよかったというのが、
ちょっと皮相な読みに思えてしまう。
『蝉声』には茗荷の花の歌がほかにもいくつかあり、
それをよむと河野裕子も茗荷の花を食べている。
もっと素朴に、もっと食べればよかった、忘れるなんて気にしないで、
と思っているのかもしれない。
その辺がちょっと物足りなかったので書いてみた次第である。
茗荷が取れるのはもうしばらくしてから、花はそのあとである。