2023年02月

遺言信託の報酬は適正か?

しばらく前に受けた税務相談。

〇〇信託の遺言信託を利用していてご主人が亡くなった。

相続人は奥さんひとりで、夫婦ともに自分が亡くなったときは全財産を配偶者に

相続させるという遺言状を作っていた。

で、遺言信託により〇〇信託が遺言執行人になって相続の関係を仕切ったわけだが、

遺言状で配偶者が全財産を相続することになっているので特に問題もなく、

相続税の申告をし、不動産の相続登記をし、銀行関係の相続手続きをすれば

それで終わりである。

で、担当者がやってきて、銀行関係の相続手続きの報酬が100万です、と言ったそうだ。

奥さんは、その金額を聞いてびっくりしたわけである。

知り合いがやはりご主人が亡くなったあと、そういう銀行関係の手続きを全部自分で

やったという話を聞いていた奥さんは、「自分でやります」と言ったそうな。

そうすると、〇〇信託の担当者は、

「そういうふうに仰る方いらっしゃるんですが、結局できなくて頼んでくるんですよね~」

と言って帰ったらしい。

ちなみに、その100万の報酬に相続税の申告と不動産の相続登記の費用は入っていない。

それは税理士と司法書士がやるので別報酬。

そのケースの場合、実質的には被相続人の戸籍等の収集と銀行関係の相続手続き、

それだけである。

戸籍の収集はご主人もともと地元の人なので市役所に行けば終わり、

銀行は6行ほど、みんな横浜駅周辺に支店がある。それで100万。

奥さんは悔しくてなんとか自分でやろうとして相談に来たわけである。

面倒な手続きを人に頼むのは自然なことだし、それを引き受けて仕事にするのも

なんらおかしくはない。

ただ、報酬が適正か?

実際、行政書士がそういう戸籍の収集や銀行関係の相続手続きをやっているが、

どうなんだろ、このケースだと20万前後?、それくらいの報酬じゃなかろうか。

信託銀行などがやっている遺言信託の報酬はなかなかのものである。

遺産の総額の1%、最低報酬100万という案内を以前見たことがある。

最近は遺産の金額によって段階的に報酬の%を変えるところもあるらしいが、

いずれにしろかなり高額な報酬。

東京あたりで不動産の評価が高ければ、実際にする仕事は数件の銀行の相続手続き

だけであっても、数百万の報酬になるわけである。

で、引き受けた信託銀行が必ず遺言執行人に就任するのである。

遺言執行人が本当に必要になるのは、

遺言による認知とか、推定相続人の廃除とか、そういうケースである。

夫婦ふたりが互いに自分が死んだら相手に全財産を相続させるという遺言に

遺言執行人は必要なのか?

結局、相続人のために遺言執行人になるのではなく、

営利事業として都合よく仕事を進めるために信託銀行が遺言執行人に就任し、

相続を仕切り高額な報酬を請求する。

実際にする仕事とその報酬は見合っているか?

遺言信託をするのは高齢者である。

高齢者が食い物にされているようで、相談者が帰ったあとひさしぶりに気分が悪かった。

不相当に高額な報酬については行政がもっと指導するべきではないのか?

営利法人が遺言執行人に就任することの是非も検討されるべき問題ではないのだろうか?

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  アーチェリーの常連仲間が持ってきた啓翁桜、山形の冬桜。

 

大南風

飛びながら速度の落ちる鷺の二羽大南風(おおみなみ)空をゆすりたるらし

                          /万造寺ようこ

 

歌集『サンドマンの影』のなかの一首。

大南風(おおみなみ)とは夏の季節風、南から吹く風。

飛んでいる鷺が強い南風に押されて速度が落ちる。

南からの強い季節風が空を揺らしているようだ、という歌。

初夏の鎌倉あたりを歩いていると、見上げた空に鳶が飛んでいて、

風の強い日は、その鳶が風に押されて進めない、あるいは押し戻されるような

光景というのはあるもので、

風のかたまりが空を揺すっているようだという表現がいい。

大南風(おおみなみ)というのは俳句の夏の季語であるらしい。

俳句の季語を短歌に使うことは普通にあることだが、

少し気を付けて使うようにしている。

季語の持つ意味を一首のなかで有効に使えればいいのだろうが、

意味のある言葉を使うということは言葉に頼ることにもなりそうだし、

よくある季語をそのまま使えば安易になりそうな気もする。

しかし、この歌では充分に生きているのであろう。

それにしても日本人は風にもいろいろな名前を付けた。

東風、春疾風、白南風、黒南風、野分、木枯らし,,,

日本語というのは豊かな言葉である。


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  射場の梅が咲いた。2月の射会は3位入賞。3位入賞の賞品は2000円の商品券なのだが、
   子供が山分け。今まで賞品が自分の懐に入ったことはない(^^;
 

成年後見支援センター

税理士会の成年後見支援センター。

税理士会で立ち上げた成年後見関係の相談や支援をするところである。

成年後見制度がスタートしたときから、

この制度は税理士にとって重要になると思い、かかわってきた。

しかし、税理士会は重い腰をあげず、

結局、その分野の仕事に税理士は今もあまり参入できていない。

税理士会の上の方の顔は財務省の方を向いていて、仕事にならない租税教育には

一生懸命になっても、法務省の管轄の成年後見には冷淡だったわけである。

高齢者が増え、後見人の担い手がさらに必要になり、

ようやく最近、国も成年後見が税理士の仕事であることを認めるようになった。

今後、少しは流れが変わるかもしれない。というか、変わってほしい。

長くかかわってきたが、制度がスタートした頃、家裁から後見人に選任され

法定後見に携わることが出来たのはいい経験だった。

その後、忙しくてあまり会の成年後見の関係には顔を出せなくなったが、

今も数か月に一度、支援センターの相談員をやっている。

当番でまわってくるわけだが、実のところ、成年後見の相談は少なくて、

同じ日に別のブースでやっている相続税相談室の手伝いの方が多いのが実情ではある。

成年後見さんヒマみたいだから相続税相談室の方で電話取れない時はとってください、

ということである。

今日も結局、相続税相談室の手伝いの電話を何本か取って終わり。

10時から3時半まで座っていて交通費込みで13000円ほどの報酬。

報酬もセンターの予算の関係で少ない。

租税教育の講師の方が多いんじゃないのかな?

税理士会のなかでの優先順位を反映している(^^;

ま、仕方ない。

これからの若い税理士のために新しい業務の開拓が必要と思い取り組んできた。

ようやく周囲の環境が少しずつ変わってきている。

これからに期待したい。


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  対面での相談もできるが殆ど電話相談。
 そういえば、関係ない話だが、相談員の昼食にいつもちらし寿司を出してくれるのだが、
 具が以前より気持ち少なかった。お寿司屋さんも物価高で大変なんだろうな。

転生

マジックで書かれたる文字幼なくて転生ねがふ小さき短冊

                          / 尾崎知子

 

 

尾崎知子の第二歌集『三ツ石の沖』を読んでいて目にとまった歌。

情景としては幼い子供の書いた短冊が七夕の笹飾りにあるのだろう。

「うまれかわったら〇〇になりたい」とか、

普通の七夕の笹飾りかもしれないし、小児病棟のようなところの笹飾りかもしれない。

しかし、私はこの歌を読んだとき、以前、なにかの本で読んだ話を思い出した。

ナチスドイツの時代、ゲットーに閉じ込められたユダヤ人の記録で、

ゲットーのなかで子供達が友達を手押し車に乗せて押しながら遊んでいるのだが、

「次は僕が死人の役」とか他愛なく恐ろしい話をしているわけである。

ゲットーのなかで死んだ人を手押し車で運んでゆく日常があったわけで、

子供というのはどんな悲惨な状況下でも遊びの方法を発見するのだろう。

そして、「次に生まれてくるときはドイツ人の子供に生まれてきたい」という

話をしていたと。

その話を思い出した。

この歌を読んでなぜ、そういう不穏なものを思い出したのか、考えてみた。

たぶん、「幼なくて」と「転生」の間にアンバランスがあるのである。

幼い子供というと、せいぜい小学校低学年までとか、それくらいという気がする。

それに対し「転生」という言葉は宗教的あるいは哲学的な雰囲気のある言葉で、

幼い子供には似合わない言葉である。

幼い子供の「うまれかわったら〇〇になりたい」というのは素朴な願望であり、

宗教的・哲学的な転生とは違う。

そのアンバランスがたぶん、不穏なものを思い出させたのだと思う。

これ自体は表現の失敗ではない。

順当な言葉選びばかりしていたら、歌は綺麗におとなしく当たり前になるだけである。

あえて順当な言葉を選ばないというのは作歌の手法としては当然であり、

要は、そういう順当ではない言葉を選んで一首を成功させることが出来るかどうかである。

一読して不穏なものを思い出させたのは、そういう効果はあったということだろう。

それが作者の意図したところかどうかは分からないが(^^;

それはそれとして、「幼なくて」の送り仮名はこれでいいのだろうか?

「幼くて」のような気がするのだが、旧かなでは「な」がつく?

ま、文法で歌作るわけじゃないからね…(^^;;


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  アーチェリーの常連仲間に酒販会社に勤めている人がいて、
 立春の朝に搾ったという新酒を持ってきてくれた。
 冷やで飲むのが美味いらしい。日本名門酒会で扱っている。
 早速今夜飲んでみる。

 

冬の上高地

忙しくてブログを書けなかったが、

1月の末、上高地に行ってきた。

上高地のホテルは1115日で営業を終了し翌年の4月まで上高地は無人になる。

沢渡からのバスもなく管理のための車以外は入れない。

で、それでも上高地に入りたいという登山者は釜トンネルを歩いて抜けて入るわけである。

朝、釜トンネルに着く。

許可車両以外は入れないが人間は柵の左側から入ることが出来る。

1300mある釜トンネルを歩いて抜け、さらにその向こうの上高地トンネルを抜ける。


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 釜トンネル 
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 柵の左から入り釜トンネルをゆく

あいにく天気はいまいちで小雪が降っている。

梓川沿いの雪の積もった道路を歩いてしばらく行くと大正池ホテルがある。

ここも冬季休業で閉まっている。

ここから車道を離れて田代池の方に向かう。

無雪期は遊歩道があるのだが、すべて雪の下である。

それでもスノーシューの踏み跡がついているのでそれを辿ってゆく。

雪の田代湿原を抜け田代池へ雪のなかを歩く。

無雪期は田代池のあたりから穂高の吊尾根が見えるのだが、

今日は灰色の雲があるばかり。


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 トンネルを抜けるとこんな感じ
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 梓川沿いの車道を大正池へ
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 大正池ホテル ここから車道を外れる
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 田代池の雪原 夏ならば向こうに穂高の吊尾根が見える
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 雪の森を進む
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 梓川沿い

ここから梓川沿いに行けば田代橋に出る。

ここから先、梓川の左岸に踏み跡が続いているのだが、

あえて踏み跡のない右岸に行ってみる。

上高地温泉ホテルなどのホテルが並ぶ道だが、当然みな閉まっている。

雪のなかの閉まったホテルの並びを歩くのって、ちょっと不思議な感じがある。

廃墟を歩く感覚に似てるのかな。

その先にウェストン碑がある。それも半分雪に埋もれていた。

若い頃、上高地は穂高に向かう通過地点で、バスターミナルに着くとそのまますぐに

横尾に歩いていった。だからウェストン碑がどこにあるか知らなかった(^^;

なにかに夢中になっているときって、そういうふうに視野は狭いものである。

道は雪に埋まっている。見当をつけて途中からは梓川沿いを歩く。

向こうに河童橋が見えた。

見えたとき不思議なもので、上高地に来た、という感覚ではなかった。

上高地に帰ってきた、という感覚。

人には思い入れのある土地というのがあるだろう。

故郷もそうだろうし、若い頃通った土地というのもやはり思い入れがある。

私にとって上越の山と谷、そして穂高のあたりがそういう土地である。

だから、人のいない雪の河童橋を見たとき、帰ってきたと感じたのだろう。


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 田代橋から 向こうに閉鎖中のホテルが見える
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 ウェストン碑
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 梓川沿いを河童橋へ

河童橋を渡り、穂高の方を振り向く。灰色の空があるばかりだ。小雪だった雪は

むしろ強く降ってきた。

橋のたもとのベンチで手早く昼食をとり、釜トンネルへ引き返す。

ほんとは岳沢湿原の方へ行ってみたかったのだが、いかんせん雪が強くなってきた。

梓川左岸の踏み跡をたどり田代湿原、大正池へと戻る。

そこから再び車道を歩き、上高地トンネルと釜トンネルを抜け、娑婆に戻った。


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 雪の河童橋
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 河童橋の向こう、穂高は見えず
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 定宿の白樺荘も閉まっている
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 梓川の左岸を引き返す途中から河童橋を振り返る。モノクロの上高地。

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  上高地トンネルがぽっかり口を開けていた。
  このトンネルを抜け、その先の釜トンネルを抜ければ娑婆に帰れる。

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 翌日、天気が回復した中の湯から。明神の岩壁が見えている。穂高はその左の雲の中。
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 宿泊した中の湯、冬は四駆スタッドレスでないと行くのが厳しいかも。

 

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