湘南の歌会、桜の歌の続き。
心にとどめている桜の短歌をいくつか
さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生れて
山中智恵子
確かに桜の花を見上げると「泡立つ」ように見える。
しかし、山中のこの歌のために桜を「泡立つ」と詠ってももはや二番煎じに
しかならなくなってしまった。そういう罪深い歌である。
さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり
馬場あき子
再生と死、幾春のさくら、老いゆく身。水流の音は己の中の命の音だろうか。
あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ
永井陽子
難しい歌である。あまり意味を追求しなくていいのかもしれないが、
固定した観念のようなものを否定する若々しさを感じる。
心地よいリズムに惹きつけられる歌である。
この歌は「はなびら」としか言っていないが、私は桜の花びらと解釈している。
ほれぼれと桜吹雪の中をゆくさみしき修羅の一人となりて
岡野弘彦
桜吹雪という言葉はなかなか短歌で使えない。
その使いにくい言葉を持ってきて「さみしき修羅の一人となりて」という下句で
一首を支えている。ほれぼれとする歌である。
ただ一度生まれ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき
島田修二
ベラフォンテの「さくらさくら」の歌声。ただ一度生まれきた人生。
生きる者の悲しみ、しかしそこには静かな喜びも感じられる。
生き死にの境もいつか美しからむ津波到達ラインの桜
関野裕之
名歌に並べてついでに自分の歌を一首(^^;
三陸の津波の時、津波到達ラインまで逃げられた者は行き、逃げられなかった者は死んだ。
その生き死にのラインに沿って桜が植えられた。
いつかその津波到達ラインの桜は美しく咲くのだろう、そう思って詠んだ。
桜の森を歩いているとそんな気がすることがある。