2022年04月

歌会 桜の歌2

湘南の歌会、桜の歌の続き。

心にとどめている桜の短歌をいくつか

 

さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生れて

 山中智恵子

確かに桜の花を見上げると「泡立つ」ように見える。

しかし、山中のこの歌のために桜を「泡立つ」と詠ってももはや二番煎じに

しかならなくなってしまった。そういう罪深い歌である。

 

  さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり 

馬場あき子

再生と死、幾春のさくら、老いゆく身。水流の音は己の中の命の音だろうか。

 

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ 

永井陽子

難しい歌である。あまり意味を追求しなくていいのかもしれないが、

固定した観念のようなものを否定する若々しさを感じる。

心地よいリズムに惹きつけられる歌である。

この歌は「はなびら」としか言っていないが、私は桜の花びらと解釈している。

 

  ほれぼれと桜吹雪の中をゆくさみしき修羅の一人となりて

                            岡野弘彦

桜吹雪という言葉はなかなか短歌で使えない。

その使いにくい言葉を持ってきて「さみしき修羅の一人となりて」という下句で

一首を支えている。ほれぼれとする歌である。

 

  ただ一度生まれ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき

                            島田修二

ベラフォンテの「さくらさくら」の歌声。ただ一度生まれきた人生。

生きる者の悲しみ、しかしそこには静かな喜びも感じられる。

 

  生き死にの境もいつか美しからむ津波到達ラインの桜

                            関野裕之

名歌に並べてついでに自分の歌を一首(^^;

三陸の津波の時、津波到達ラインまで逃げられた者は行き、逃げられなかった者は死んだ。
その生き死にのラインに沿って桜が植えられた。
いつかその津波到達ラインの桜は美しく
咲くのだろう、そう思って詠んだ。

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  かつて人であったものが輪廻の末に桜の木になったような。
 桜の森を歩いているとそんな気がすることがある。  

歌会 桜の歌

新型コロナのため湘南歌会もしばらくメールで歌会をやっていたが、

久しぶりに対面での歌会が開かれた。

集まったのは8人といささか少なめ。

新型コロナ前は常連だった人の何人かは欠席。

対面での歌会が開かれないのが常態化し、人間、常態化するとそれに慣れるもので、

こういうことがきっかけで短歌から離れていく人も出てくるかもしれぬ。

新型コロナは短歌の世界も変えるのだろう。

それはそれとして、いつものように気になった歌。

春ということで桜の歌がいくつかあった。

例によって誌面発表前なのでここには出せないが、ひとつは、

昏い流れにほつほつと桜の花びらが浮かび流れゆく午後、

そういう歌意の歌。

こういうのもあった、

物狂いしているように咲いていた桜が森に消える、

そんな歌意の歌。

桜の歌は難しい。

取り上げた2首は決して悪い歌ではない。

しかし、この国に春になると咲き満ちる桜は万葉の時代から歌い継がれてきた。

ありとあらゆる類歌がある。

桜には死のイメージがある。

華やかさと裏腹の昏さがある。

桜の樹の下には屍体が埋まってゐる、と書いたのは梶井基次郎だった。

「これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。

桜が死のイメージを纏うようになったのはいつからなのだろう。

命が消える冬が終わり桜が咲く。

桜は再生の象徴である。

再生は死とともにある。

死があり再生があり、再生があり死がある。

桜は再生とともに死を孕んでいる。

日本人はそこに桜の美を見出してきた。

死、再生、昏さ、狂おしさ、

それは桜がもともと纏っているもので、

それをそのまま歌っても桜の歌は成功しない。

歌会に出されていた桜の歌は、決して悪い歌ではないが、

あまたある類歌の域を出ていない。

桜を歌うには自らが狂おしくなるまで歌と格闘しないといい歌は詠めない気がする。

私自身があまり桜の歌を詠めない理由である。

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  歌会当日の午前中に歩いた鎌倉の英勝寺の白藤。
 まだ咲き始めだった。


うん? 差額は還付済み?

年の中途で亡くなった人の申告はその人の相続人がする。それが準確定申告。

一度申告したが、申告の内容が違っていた場合にするのが、修正申告あるいは更正の請求。

簡単に言えば税額が増える場合が修正申告、減る場合は更正の請求である。

去年、準確定申告の更正の請求を依頼された。

普通のサラリーマンの被相続人で、ごく普通の準確定申告だった。

今年になってその人の家族から封書が届いた。

あけてみると、給与計算の代行会社から家族あてに送られてきた書類が入っていた。

被相続人の勤めていた会社では給与計算代行会社に給与の計算をアウトソーシングして

いたわけだが、つまりその会社が年末調整を間違えたらしい。

拠出型企業年金を社会保険料に含めずに年末調整してしまったということで、

年末調整の再計算をした源泉徴収票が入っていた。

既に申告している場合は更正の請求をしてください、ということで、その場合の

問い合わせ先も書いてある。

一緒に入っていた家族からの手紙には、「勤めていた会社に連絡したら、亡くなった人に

は年末調整の還付はできないので自分で更正の請求をしてください」と言われたとあった。

ひと通り読んで、入っていた源泉徴収票を見て違和感を覚えた。

源泉徴収票に記載されている源泉徴収税額は年末調整の再計算がされたあとの金額である。

つまり、送られてきた源泉徴収票を見る限りは、年末調整の再計算の差額はすでに本人に

還付されていることになる。

還付していないのなら、還付前の税額を記載し年末調整未済の形で作らなければならない。

その給与計算代行の会社のHPを調べると北海道に本社のある上場している会社。

電話してみた。

送られてきた書類について聞きたいと電話で言うと、

電話の向こうの声が途端にキンキン声に変った。

「お客様!  お勤めの会社を通してください!  お勤めの会社以外からの問い合わせには応じません!

なんか、凄いなと思った。

言ってること分からなくはないんだけど、年末調整間違えて更正の請求をしてくれと

手紙よこしといてその問い合わせ先も書いてあるのに、この対応?

あるいはクレームの電話多いのか?

そのあと家族に電話してそのことを伝えると、「やっぱり対応悪かったですか」と言っていた。

家族が電話してもそういう感じだったのかな?

一応、問い合わせ先のアドレスに、再計算の還付前の源泉徴収税額を記載した源泉徴収票を

発行して欲しい旨メールしたが、あの電話の応対からして対応してくれないかなと思った。

案の定、なしのつぶてだった。

一番悪いのは、被相続人の勤め先である。

亡くなっている人に還付できないというのなら、差額を還付していない形の源泉徴収票を

交付しなければならないのに、給与計算代行会社に丸投げでなにもしない。

給与計算代行会社も悪い。

わざわざ家族に手紙で説明してくるぐらいだから、会社が還付しないのは分かっているの

だろう。それなら差額を還付していない源泉徴収票を作って送ればいいのに、

フツーに年末調整して差額は還付済みと読める源泉徴収票を送ってきた。

仕方ないので、その給与計算代行会社が送ってきた手紙等をコピーして

参考資料として添付して更正の請求をした。

ついでに、差額が既に還付されている形の源泉徴収票なので、

もし、更正の請求を棄却する場合は、

亡くなった人の家族に差額を還付せず源泉徴収義務を果たしていない被相続人の勤め先と

年末調整もまともに出来ない給与計算代行会社をしっかり指導して欲しいと書き添えた。

税理士長くやっていてこういうケースは初めてである。


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   こぶしの若葉 

横浜の水芭蕉

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横浜のとある自然公園に自生している水芭蕉。大きな葉の下に白い花がある。

最初に気付いたのは20年以上前。

子供を連れて公園を歩いていて、公園の隅の湿地に生えている葉の大きな草が

目にとまった。

「あれは水芭蕉か…?

花が終わっている時期だったし、まさか横浜に水芭蕉が咲いているとは思って

いなかったので、葉だけ見ても確信は持てなかった。

気になって翌年行ってみたら水芭蕉の花が咲いていた。

正直驚いた。

横浜に、それも家から歩いていけるところに水芭蕉が自生しているとは思わなかった。

自然公園の隅の湿地で当時は流れに沿って古い柵だけがあった。

手入れされている様子はなく、

自然に生えているものか、あるいは植えられたとしたら、かなり前に植えられて

その後放置されていた、そのいずれかなのだろう。

水芭蕉の分布を調べてみると南限は兵庫県の日本海側であるらしい。

飛び飛びに自生地があるらしいので、つまり昔はもっと広い範囲に分布していたはず。

あるいは昔、横浜の谷戸の水辺には水芭蕉が咲いていたのだろうか。

その横浜の水芭蕉の最後の生き残り?

かなり以前に植えられてそのまま放置されたのか、最後の生き残りなのか分からない

のだが、最後の生き残りと考えた方が楽しいのでそう思うことにした(^^

その自然公園には子供が小さいときよく連れて行った。

その後はゴールデンレトリバーのさくらを連れて歩きに行ったりしたのだが、

さくらが年とってあまり散歩できなくなり、ここ数年行ってなかった。

先日、数年ぶりに桜を見に行き、水芭蕉の咲いている湿地を訪ねた。

花が終わりかけていたが水芭蕉は咲いていた。

しかも株が増えている。

ひと株だったのが五株になっていた。

なにやら嬉しかった。

この水芭蕉のことは人に話さなかった。

横浜の水芭蕉の最後の生き残り、横浜で唯一自生している水芭蕉、

他の人はあまり知らないだろうが自分は知っている、

それって子供っぽい優越感だった(^^;

株が増えたのでもう気付いて知っている人は結構いるのだろう。

踏み荒らされたり盗掘されたりしないで、これからも咲き続けて欲しい。


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  株が増えていた
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 桜はちょうど満開

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