書くつもりなのだが、確定申告に追われて進まない...。
ふりむきて喪主が指さす岩手山雪を被きて輝き増せり
斉藤雅也の第二歌集『くれはどり』。
北上に暮らす作者の春夏秋冬を詠んだ歌集である。
岩手山の大きな姿は北上の暮らしのなかで、あって当たり前の風景として
存在しているのであろう。そういう暮らしが思われる。
止められて電気料金借りにくる隣の人のてのひらの皺
返すあて返すすべなき隣人のうそを思へりみぞれ降る夜
皺くちやの諭吉を見つむ年の瀬に返しくれたる人にぎりゐし
またしても諭吉一枚借りにくる翁は眉に雪をのせつつ
田舎での暮らしはのどかなことばかりではない。
過疎、高齢化、日本の田舎は大抵そういう問題を抱えている。
あるいはこの諭吉は、作者と隣人の間を行ったりきたりしているのだろうか。
二日酔の父を見るたび飲むまいと思ひゐし酒のほのかな甘さ
子供からこういうふうに見られる父の立場が分かる人間としてはなんともいえない歌だが、
この歌の前に「翌朝に残りたるほど飲みし酒やめて六腑は朝をすがしむ」という歌があるか
ら、作者も一時はこの父とたいしてかわらなかったのかもしれぬ。
歌集名の『くれはどり』は集中この歌に出てくる。
雪の田に降りる白鳥くれはどりあやなきまでの白さと思ふ
最初、白鳥の別名かと思ったのだが、「あや」の枕詞の「くれはどり」なのであろう。
古代、呉から日本に織物を伝えたという、くれはとり、あやはとりの織女の伝説から
きた枕詞らしい。集中の一首の枕詞を歌集の題にしているわけだが、その辺の意図は
どういうものなのだろう。また、春夏秋冬で歌集をまとめることの難しさとか、
幾つかの課題はある気がするが、短歌が自分の時間に錘をつけるものであるならば、
この歌集は北上の風土のなかで暮らす作者の日々に錘をつけた歌集なのであろう。