2021年12月

伊豆

一年間の仕事を終えて、さくっと伊豆に走りに行く。

昼過ぎから出かけて箱根ターンパイクを走って伊豆長岡温泉。

まずはのんびり温泉に入る。

今年はともかく忙しかった。

通常の仕事に加えて新型コロナに伴うもろもろ。

せっせと働いたら、せっせと遊ぶ。いい仕事をしたければいい遊びをする。

それがモットーなのだが、コロナのためにあまり出掛けることも出来ず、

その辺はちょっと残念な一年だった。海外もここ2年ほど出掛けていない。

ま、それは仕方ない。それにしても温泉から見える富士が綺麗だ。

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  伊豆長岡温泉からの富士山

翌日、浄蓮の滝まで走る。 ホントはもっと走りたいのだが、

帰ったら帰ったでやることが沢山あるので、あまり走り回ってもいられない。

伊豆の道は走っていて楽しい。

山のなかのコーナーの続く道を突っ走っているときは頭の中に

石川さゆりの「天城越え」がオートリバースで聞こえている。

寝乱れて 隠れ宿
九十九折り 浄蓮の滝
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・

くらくら燃える 火をくぐり
あなたと越えたい 天城越え

「恨んでも恨んでも」という歌詞もあったな、

自分で歌ってるとたまにそれが「悔やんでも悔やんでも」になる。

悔やむことの多い人生生きてきたからね(^^;

人生に悔いがないなんて言えるのはひとにぎりの立派な人だけだよ。

そんなことが頭に過ぎりつつ天城の道のコーナーに突っ込んでいくオヤジって、

あるいはあぶないオヤジかもしれん(^^;;

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  浄蓮の滝 伊豆の踊子像
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  浄蓮の滝 下までは行かず上からパチリ

浄蓮の滝でアーチェリーの射場仲間から頼まれていた土産の生ワサビを買い。

走ってきた道を戻り沼津へ。

沼津港の市場で正月用の買い物をして横浜に戻った。

市場は正月の買い物客が多くてかなり混んでいた。

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  城山 あの岩壁でクライミングしたのも30年以上昔の話
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  沼津港の市場
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  昼食は生しらすと桜海老の二色丼
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  沼津港
 

今年一年お世話になった皆様ありがとうございます。

来年もよろしくお願いいたします。

それでは良い年をお迎えください。

歌会

今年最後の歌会は湘南歌会。

というか、最近、湘南歌会しか出られないでいる。

ホームグラウンドにしていた横浜歌会は、

毎月第一日曜でアーチェリーの射会とぶつかる。

射場が営業していた頃は参加費を払って出るお客さんだったので気には留めなかったが、

自分達でクラブを立ち上げて運営するようになると、結構さぼりにくいものがある。

しかも、来年からは第一日曜が射場の山の整備、第二日曜が射会ということになった。

射場の整備はコースの草刈りをしたり山の木を伐ったりの重労働なのだが、

なぜか皆さぼらずに射会の日より早く来て作業をしていたりする。

ますますもって、さぼれない。さぼろうものなら、

「あいつは俺達が汗水たらして草刈りしている時に歌会やってるのか」

と言われるだろう(^^;

第一日曜に雨が降って山の整備が中止にならない限り、横浜歌会は難しくなってしまった。

以前は出ていた東京歌会や東京平日歌会も、仕事が忙しくてやはり出られないでいる。

ということで、当分、湘南歌会しか出られないのであろう。

それはそれとして、気になった歌。

例によって誌面発表前なのでここには出せないが、

シベリアを晩年のとある日とある場所で食べぬ、

そんな歌意の歌。

言うまでもなくシベリアはお菓子のシベリアである。

この歌の批評が難しかった。

「晩年」というのは一般的には故人に使う言葉である。

30代で死ねば30代が晩年だし、70代で死ねば70代が晩年である。

すると、故人を詠っているのか?

しかし、結句は「食べぬ」と完了形で、その前は「とある日とある場所」。

もし一緒に食べていたのなら「とある日とある場所」はおかしいわけで、

批評が難しかった。

いろいろ活発な意見が出たのだが、

そのなかで面白いと思ったのは、

「死後の世界から生前の自分を振り返って詠んでいる、そんな感じがする」

なるほど、そういう視点からの歌か

そう考えるとちょっと面白い歌で、こういう表現もあるのかと思ったのだが、

やはり、どうなのだろう「とある日とある場所」が問題なのではなかろうか、

西行の有名な歌がある。

  願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ

この歌は死後から生前の自分を詠んでいるわけではないが、

あるいは詠っているとき、西行には桜の下で死んでいる自分の姿が思い浮かんでいた

かもしれない。「花の下にて」「望月のころ」と情景の浮かぶ言葉があるので、

読者は歌の世界に入れるわけである。

で、「とある日とある場所」の歌は、

着想は面白いのだが、読者が情景を思い浮かべるのが難しい。

物語で「昔昔あるところに」という導入があるが、

物語の場合、その後のストーリーで読者は物語の世界に入れるのである。

「とある日とある場所」だけで読者が詩の世界に入るのは難しいのではなかろうか。

そういう気がする。

もちろん、この歌はまだ完成していない歌である。

着想は面白いのであり、作者が完成させた歌を読んでみたいと思う。

先月の湘南歌会は知識に頼った批評が多くて残念だったのだが、

今年最後の湘南歌会は、他にも良い歌が多く批評も活発で楽しかった。

来年もいい歌会ができるといい。


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  今年のアーチェリーの成績、ハンデのおかげで8回入賞、優勝は1回。
 来年からはハンデが減って入賞も難しくなるのだろう(^^;;
 

餅つき

アーチェリーの射場、年末恒例のお餅つき。

射場が昨年で営業を終了し、立ち上げたクラブで射場を運営しているのだが、

毎年やっていたお餅つき、クラブで今年もやろうということになった。

前の日から買い出しをして支度。

当日は射場に運んだ蒸し器でもち米を蒸し、臼で搗く。

ちなみに自分が射場に着いたときにはひと通りの準備が終わっていた。

重い蒸し器と臼を射場に運び上げた皆さんお疲れ様です(^^

囲炉裏に火をおこし、射場の畑から採ってきた大根などを入れて雑煮の用意。

一方では、餡子、黄粉、大根おろしを用意して餅が搗きあがるのを待つ。

家族や友人を連れてきている人もいて30人くらい集まったのかな?

搗きあがるのを待っている間にさくっとコースを回ってきたら、

既にひと臼めが搗きあがっていてみんな美味しそうに食べている。

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  さくっとコースを回る
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 餅つき

続いてふた臼め、こちらは雑煮で食べる。

スーパーで売っている餅と違って搗きたての餅はやわらかくて美味しい。

ここの搗きたての餅を食べてしまうとスーバーの切り餅は食べる気なくなる。

雑煮に入っている射場の畑の大根も美味い。

最近、葉っぱのついた大根はあまり売っていないが、

葉っぱを刻んで油で炒めるといい酒のつまみなのだ。

餅つきを子供達にも楽しんでもらい、

最後に搗いた餅は射場のオーナー家族用ののし餅にする。

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  囲炉裏で雑煮を作る
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  子供達の餅つき
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  最後に搗いた餅はのし餅にする
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  射場の畑の大根

そのあと、囲炉裏で焼き芋を焼いたりして、楽しく一日を過ごした。

廃業することになったアーチェリーの射場を、

立ち上げたクラブで侃々諤々やりながら今年1年運営してきた。

冬は竹林の整備で竹を何十本も切り、

春から夏は草刈り機を振り回して草を刈り、

先日は立ち枯れした白樫と欅の大木をチェンソーで切り倒した。

素人がよくやるよまったく(^^;

ま、一年やってこれた。どうにか今後もやっていけるだろう。

来年もこんな感じで楽しめたらいいと思っている。

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  餅つきをしている上にはムクロジの黄色い実

総会

短歌結社が一般社団法人になり、

20年在籍ということで今年から社員になった。

で、社員総会の案内が届いたのだが、

新型コロナのため、いつも総会とセットで開く短歌シンポジウムは中止、

総会だけの開催。

う~ん、申し訳ないけどそれじゃパスだな…(^^;

決算の承認と定款変更の特別決議があるらしいけど、それだけのために出かけてゆくのは、

義務感を持っている人か、暇な人だけだよね(^^;;

短歌シンポジウムがあるのなら、それを聞きに行こうと思ってたんだけど、

義務感ないし、さりとて暇でもないし、

委任状で出席させて頂きます(^^;;;

税理士会の支部も例会の出席率向上には腐心していて、

必ず研修会をセットにしたりしている。

結社もそういう工夫をして総会への出席率向上を目指しているのかもしれないけど、

いかんせん新型コロナである。

ここしばらく出席者が少ないのは仕方ないんだろうね。

総会の関係者の皆様、御苦労様です。

来年、短歌シンポジウムが開催できるようになったら出席させて頂きます。


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  仕事で埼玉へ行き、帰りに所沢の航空公園に立ち寄った。
 徳川大尉が日本で初めて飛んだ飛行機 アンリ・ファルマン号
 

電子帳簿保存法

昔と違って、メールで注文書や契約書、領収書などをやり取りしたり、

仕事に必要なものをネットで購入したりすることがフツーになった今日この頃であるが、

電子帳簿保存法が改正され、令和411日から、そういう電子取引については

取引情報のデータでの保管が義務づけられた。

もともと、帳簿や請求書・領収書などの資料は一定の期間保管することが義務づけられて

いたわけだが、電子取引については紙ではなくデータでの保管に変ったわけである。

しかし、これが結構大変で、

今後、紙での保管は認めない、要件を満たした形でデータ保管していなければ

青色申告を取り消すとか、

国はかなり強硬なことを言っていた。

さすがに無理だと思ったのか、

11月に入って、「青色申告の取り消しまではしない」と言い出し、

さらに先日、2年間の猶予がいきなり新聞に発表された。

報道では、中小企業の現実を考えていないと書かれていたが、

その通りだろうな

中小企業で関係するのは帳簿等の電子保存よりも電子取引のデータ保存だと思うが、

それだけでも負担は大きい。

データ保存の仕組みを作り、バックアップは二重三重に考えなければならない。

なにしろ、保管してあったデータがなんらかの理由で飛んでしまえば、

理由に係りなく保管義務違反で青色申告取り消しになるのだろう。

外部のクラウドサービスを利用するにしてもバックアップは必要になる。

タイムスタンプはどうするのか?

その月々の負担は会社によっては結構大きいだろう。

仕方ないから、事務処理規定を作って対応する、そういう方向で考える会社は

多いのではないか?

とかなんとかいう以前に、

お父ちゃんとお母ちゃんでやっているような小さな会社は、

そういうことがそもそも出来ないところもある。データをPDFにして保存?  PDFってなに?

そういう中小零細企業の現実を無視して制度を設計していることに問題がある気がする。

そんな小さな会社はどうでもいい、

なんて思うのなら考え違いである。

日本の大企業を支えているのは下請けの中小企業である。

今回に限ったことではなく、国の制度設計には、現実が見えていないのか? 

思うことが多々ある。

官僚に言わせれば、現実に問題があるからそれを変えるために制度を変える、と

いうことなのだろうが、現実を無視すればどうしても無理はあるわけで、

有無を言わせぬ社会保険の強制適用、電子帳簿保存法、消費税インボイス。

いろいろな制度設計で底辺なり弱者なりが切り捨てられていると感じる。

人の世というのは、弱者が逃げ込めるところを残しておくべきなのだ。

以前、仙台の七夕を見に行ったとき、露店が禁止されていることに違和感を覚えた。

フーテンの寅さんはテキヤだった。

テキヤとして生きる道がなかったら、

フーテンの寅さんはヤクザになるしかなかったのである。

どんな人にも生きる道を残しておく、逃げ込めるところを残しておく、

秀才はえてしてそういうことを知らない。

実施直前での電子帳簿保存法の適用2年間猶予に、そういう失敗を感じる。

最近、世の中が窮屈になった気がする。

底辺なり弱者なりを切り捨てる社会に私はあまり同意することは出来ない。


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  先月、さくっと走りに行った那須 殺生石
 

 

 

 

 

歌会その2

先日の歌会でもうひとつ気になったこと。

単線の駅に続く砂利道・・・という歌について、

「砂利道が気になる。今,日本に砂利道なんてない。山の中だってみんな舗装されてる」

という批評があった。

えっ!?  と思った。

日本に砂利道はないと言われても、私は横浜市内に砂利道があるのを知っているし、

山には未舗装の林道が延々と続いていることも知っている。

で、調べてみた。

2017年の簡易舗装も含めた都道府県別の道路舗装率、

全国             82.02%

トップは佐賀           96.68%

東京                    89.4%

下位にきて北海道         66.05%

2017年の最下位は岩手県   63.04%

簡易舗装も含めての舗装率なので、それ以外の道路は砂利道か土道である。

日本に砂利道はたくさんありそうである。

それを「日本に砂利道はない」と批評されてもね

当日の歌会では他にもこんなことがあった。

生垣にカラスウリがなっている・・・という歌について、

「カラスウリは低い生垣にはならない、もっと高いところになる、おかしい」

そう言われても、私は公園の低い植え込みにカラスウリの白い花が咲いているのを

見たことがある。

植物は芽を出すところを選べないのである。

たまたま低い植え込みしかないところに芽を出したカラスウリはそこで花を咲かせ、

赤い実をつけるのであろう。

さらに言えば私は、膝の高さくらいのところに咲いているノウゼンカズラを見たこと

がある。やはり近くに高い木のないところに芽を出してしまったのだろう。

低木にからまり地を這うように花を咲かせていた。

もしそれを歌に詠んだら、

「ノウゼンカズラは高い木にからまって咲く、この歌はおかしい」

と言われるのだろうか?

いずれの批評も、自分は見たことがない、だからおかしい、という内容である。

見たことがないからリアリティーを感じられないのかもしれないが、

短歌におけるリアリティーは表現の問題ではないのか?

表現がリアリティーを確保できるか支えられるかが問題であって、

題材のリアリティーではないのではないか。

と言う以前に、リアルにあるものを知らずに「私は見たことがないからおかしい」と

言われても、それは批評にならない。

これは今回の歌会に限ったことではない。

他の歌会でも結構あることで、ちょっと気になっている。

短歌は詩である。

詩の世界で、その内容を自分の狭い見聞を基準にして判定しても、

意味はないと思うわけである。


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  先日の鎌倉の紅葉

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