2021年08月

コチ釣り

顧問先に招待して頂いて釣りに行ってきた。

狙うのはコチ。

朝、八景島の近くの金沢漁港から出航。

参加者8人で仕立船。

今までアジやアマダイは釣ったことあるが、コチは釣ったことがない。

なんでも高級魚なんだそうで、

高級魚ってことはそう簡単に釣れないんだろうな、と思った。

簡単にいくらでも釣れれば高級魚にはならないだろう。

ポイントに着いて釣り糸を垂らす。エサは才巻海老。

されど当たりなし。

誰も釣れないので場所を変えるがやはり当たりなし。

空には八月の太陽、ぎんぎらぎんである。

なんでも真夏に釣るコチは照りゴチといって美味しいんだそうだ。

美味しいのはいいのだが一向に釣れぬ。

八景島の近くとか、あちこち場所を変えて釣る。

ひたすら日に照らされている感じ(^^;

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   金沢漁港の目の前は八景島
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  場所を変える。向こうに見えるのは横須賀の軍港、護衛艦が右側に停泊してる

大学のヨット部だろうか、船体に大学名が書かれたヨットがたくさんいる。

夏合宿かあるいは競技でもしているのだろうか。

いずれにしろ青春してるんたろう。

「青春とはこの一瞬にある。この一瞬を生きることにある」

ロレンツォ・ディ・メディチだったろうか。

他人の青春はどうでもいいのだが、やはり釣れぬ(^^;;

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  釣れないとヒマである。向こうのヨットを眺める
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  綺麗なヨットだった

そんなことをしているうちに1人に当たりが来た。

結局、この日、コチを釣ったのはその人だけ。

あともう1人、当たりがきたが釣りあげたらサメだった。

他の6人はボウズ。

今まで釣りに行ってボウズというのはなかった。初めてである。

コチは縁がなかったのかな(^^

コチは釣れなかったが、いろいろと忙しくて夏休みのなかった8月、ひさしぶりの

休養が出来て楽しかった。

誘って頂いてありがとうございました(^^


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  これがコチ。平たい魚である。

射会

アーチェリーの射会、今月は雨で2週順延してようやく開催。

新型コロナのためかいつもより参加者は少なくて15人。

暑さは峠を越したようだが、なんともいえない湿気がある。

週末の雨のために2週間アーチェリーが出来なかったので、

みんな、いまいち成績が伸びない。

ま、射っていなけりゃしょうがないよね(^^;

ファーストは不本意な点数で終わり、

昼食&2週間振りの和気藹々とした他愛ない話のあとでセカンドを回る。

風が出てきて少し気分がいい。

体が慣れてきてようやくなんとか射てるようになり、

セカンドはそれなりに点を稼げた。

弓手と引き手のバランス、

それとリリース。

そういう基本的なところが出来ていないと射った矢は勝手なところに飛んでいくわけで、

セカンドはそれに気を付けながら回った(^^;;

なんとか人並みの点を射って、

この日の射会は2位入賞。

言うまでもなくハンデに助けられての入賞である(^^;;;

成績はどうでもいい。

それはそれとして、いい年をした大人達がくだらない話をしながら

今日は何点射てたとかいいながらアーチェリーを楽しめるのがいい。

こういうことをしていられる大人達は鬱病とかあまりかからない気がする(^^


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  15m小的 6,5,5 これくらい当たると気分はいい(^^

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  コースの下の練習場30m
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  2位入賞、久しぶり(^^

ザンビア

知り合いからザンビアに誘われた。

その知り合いは太平洋戦争の戦跡を訪ねて慰霊をしている人で、

私も誘われて一緒にガダルカナルとインパールに行ったことがある。

なんでもFacebookを通じて、インパール作戦について調べている人達との

交流が広がり、そのなかでザンビアの戦争博物館の人と知り合い、

是非、来てほしいと言われたらしい。

第二次大戦でイギリスはアフリカの植民地からも兵士を集め戦線に送っている。

ザンビア、独立前はローデシアだが、ローデシアからも北ローデシア連隊や

アフリカライフル連隊などがインパールに送られ日本軍と戦った。

日本軍が戦った英印軍は、イギリス兵、インド兵、グルカ兵、アフリカの黒人兵など、

まさに多民族軍だったのである。

というわけで、ザンビアの戦争博物館にはインパールで戦ったときの展示なども

あるらしいのだ。

で、その知り合い、アフリカは行ったことがないらしく、

辺境の旅に慣れているだろうということで、私を誘ってきたわけである。

アフリカといっても戦争博物館があるくらいだから、それなりの都市だろう。

別に辺境を彷徨わなければ辿り着けないところでもない気はするが(^^;

そういえばキリマンジャロに行って以来、アフリカには行っていない。

あのときはケニアから一日がかりでサバンナを車で越えてタンザニアに入った。

走っても走っても広大なサバンナで、遥かにキリンの群れが見えた。

今ではキリマンジャロ国際空港が出来て、そんなふうにサバンナを越えていかなくても、

キリマンジャロには行けるらしい。

キリマンジャロから降りてきたとき現地の登山ガイドが言っていた。

「アフリカにまた来てくれ、アフリカの水を飲んだ者はアフリカに帰ってくるんだ」

彼の言葉が印象深かった。

しかし、今はパンデミックの真っ最中である。

途上国にワクチンがゆきわたるのはまだ先だろう。

実際行けるのは3年後あるいは5年後?

まだ先の話である。

アフリカの水を飲んだ者はアフリカに帰る。

まだ先の話とは思いつつ、もう一度、アフリカに行ってもいいなと思っている。


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  ザンビア ビクトリアフォールズ  フリー写真より
 どうせ行くなら、この辺りにも行ってみたいものである。 

 

荏柄天神

所用あって鎌倉、ついでに近くの荏柄天神に立ち寄ってきた。

荏柄天神は京都の北野天満宮、九州の大宰府天満宮とともに日本三大天神といわれて

いるとか、いわれていたとか。

つまり、北野天満宮と太宰府天満宮には異論がなくても、

三番目はあちこちの天神さんが吾こそは日本三大天神と、言っているらしい(^^;

そういうことで、その辺はどうでもいいのだが、

大きさからいったら確かに他のふたつと比べたらかなり小さいかな

鎌倉は狭いところだから、鎌倉の神社仏閣は奈良や京都のそれと比べればみな小さい。

もともとは関東の武装開拓農民が自分達の素朴な信仰のために作った神社仏閣であり、

国家鎮護のために作られた奈良や京都の大寺と比べれば小さいのは当たり前である。

荏柄天神、創建は平安の昔であるらしい。

12世紀の日本は温暖期が終わり冷涼期に入った。

12世紀に入ると飢饉の記録が増える。

荏柄天神が創建されたのはその時代であり、

あるいは天変地異のなかで菅原道真の祟りを恐れたのだろうか。

ヨーロッパにおける中世の温暖期というのは東アジアには必ずしもなかったらしく、

大規模なエルニーニョなどもあったのだろうか、

温暖だった平安時代もその後期は気温が低下していったらしい。

この冷涼期が古代の伝統を継ぐ京都の王権を衰退させ、

この列島の主権は武装開拓農民から生まれた武士に移る。

この国の新しい主になった武士達はしかし質素な暮らしをする。

鎌倉を歩いているとそういう質素さを感じる。

鳥居のように交差しているビャクシンの古木をくぐると向こうに石段がある。

石段を登れば本殿。


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 2本のビャクシンが交差して鳥居のようになっている。向こうに石段が見える
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 石段を登れば山門の向こうに本殿


鎌倉時代に建てられた鶴岡八幡の若宮を江戸時代に移築した本殿で、

鎌倉でも鎌倉時代の建物がそのまま残っているのは珍しいらしい。

国の重要文化財。

ここの境内には梅が多い。鎌倉で一番早く咲くという紅梅もあり、

梅の咲く時期は綺麗である。

もう少し早くくると梅干しを作っている。

山門の右には大きな銀杏の木があり、

鶴岡八幡の大銀杏が倒れてからは鎌倉で一番の大銀杏であるらしい。

そう広くもない境内、正面が本殿、本殿の左に社務所、その向こうに絵筆塚がある。

絵筆塚というのは、なんでも著名な漫画家達が使った絵筆の供養に作ったらしい。


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 本殿
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 ちと角度を変えて
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  絵筆塚

背後が山になっているは鎌倉の神社仏閣ではフツーなのだが、

やはりそれが自然の懐にある落ち着いた雰囲気をもたらしている。

この落ち着いた雰囲気が好きなのである。

自分のなかでは、やはり小さな御霊神社とともにこの荏柄天神が鎌倉で好きな神社である。

本殿で手を合わせ、しばらく蝉の声を聞いて市街に戻る。

鎌倉の市街も平日は人が少なくて、このくらい少ない方が歩いていて気分はいい。 

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