2021年04月

草刈り

クラブで運営するようになったアーチェリーの射場。

山の草刈りをしないといけないということで草刈り機を購入した。

2サイクルエンジンの草刈り機、一台3万円ちょい、それを2台購入。

早速、試運転してみた。

2サイクルエンジンはガソリンにエンジンオイルを入れた混合油を使う、

ということすら知らない素人ばかりなので、

使い慣れた人にいちいち説明してもらい、エンジン始動。

肩から吊るして使っていると案外軽い。

始めてだと、地面からどれくらいの高さで使えばいいのか分からず。

高すぎるとあまり草が刈れないし低くしすぎると土を巻き上げてしまう。

土だけならいいのだが小石を飛ばすと危ないので、その辺は要注意。

でも、要領をつかめば十分使いこなせそうな感じである。

これから月に一度の射場整備の日に、この草刈り機でせっせとコースの草刈りである。

ただ、ひとつ問題が発生した。

射場の山にはいろいろな花が咲いている。

絶滅危惧種の金蘭を切ってしまったら、

金蘭を愛してやまない射場の元会長の怒号が飛びそうだし(^^;

ヤマユリも切らないでくれという。

そう言われてもヤマユリって、花の咲いていない小さいうちは他の雑草と区別つかない。

鳴子百合は割と沢山あって、これは小さいうちからなんとなく分かるのだが

そういえば、試運転で草を刈ったあたりには蛍袋があった。

もう芽を出していた蛍袋を切ってしまったんじゃなかろうか。

コースの途中に黄色い花の群落があって、ニガナと教えてもらったけど、

花びらが多いから、ニガナじゃなくてジシバリじゃないかな。

ジシバリは雑草だけど、群れて咲いていると綺麗である。

やはり花は切りたくないな

でも、そういう花の区別がつくような連中じゃないんだよな…(^^;;

新品の草刈り機買って、新しいおもちゃ手に入れたみたいに喜んでいる。

そういう連中に草刈り機持たせたら、山を丸刈りにしてしまうんじゃなかろうか

さて、どうしたらいいのだろう。


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  購入した草刈り機
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  これはしばらく前、常連のひとりが射場に張ったティピー。
 今頃、ティピー持ってる人なんて滅多にいない。こういう変人ばかりだ(^^;;;

防人の見返り峠

結社誌の4月号をぱらぱら捲っていたら、この歌が目に止まった。

 

「防人の見返り峠」ゆ眺むれば秩父の峰の遠く霞めり

                       / 石川 巌

 

防人の見返り峠とは多摩丘陵にある峠である。

万葉の時代、多摩丘陵は「多摩のよこやま」と呼ばれていた。

万葉集にこういう歌がある。

 

  赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ

                        / 宇遅部黒女

 

赤駒を放牧しているので、すぐには捕まえられない。防人にいく夫に

多摩の横山を歩いて行かせることになるのか

そんな歌意の歌である。

多摩のよこやま、こと多摩丘陵には古代の道が通っていて、

武蔵の国府に集合した防人達は、そのあと多摩川を渡り多摩のよこやまを越えて

相模の国へ入り、足柄の峠を越えて西に向かった。

多摩のよこやまを越えればもう故郷は見えなくなる。

防人達はそこの峠で故郷を振り返ったのであろう。

ちなみに本来の地名は「防人の見返り峠」ではなく「防人見返りの峠」である。

一首、好感の持てる歌で、それゆえに目に止まったのだが、

幾つか問題はありそうな気がする。

「防人の見返り峠」の「」は必要だろうか?

地名であればことさら「」でくくる必要はない気がする。

それと、格助詞の「ゆ」。

古語の「ゆ」は現代短歌でもたまに使われるが、

使い方は難しい気がする。

試しに自分の歌集で調べてみたら一度も使っていなかった。

別に使っていけないわけではなく一首のなかでうまく使われればいいわけだが、

「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ・・・」という流れる感じがいまひとつない。

それと「眺むれば」。

あるいは二度と帰れないかもしれない故郷を振り返ったであろう防人に思いを馳せて

詠っているのである。「眺むれば」と言わなくても峠から防人の見た風景を眺めて

いるのは分かる。違う言葉が入れられるのではなかろうか。

歌はぶったたいてぶったたいて作る。

ぶったたいて凹むところがあったら、

それはまだ推敲が足らないのである。

一首、好感の持てる歌だし、

離婚して男手ひとつで子供達を育てているときに読んだ防人の歌に心打たれて、

それ以来、短歌の世界に足を踏み入れた人間としては、

さらにこの歌をぶったたいていい歌にして欲しいと思うのである。


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  アーチェリーの射場の金蘭 絶滅危惧種

 

射会

4月のアーチェリーの射会。

この季節は射場にタケノコが出て、参加者は射会のあとのタケノコ掘りを楽しみに

しながらゲームをする。

コースを回っていて黄色い花が目に入った。

ヤマブキ。

えっ!?  もうヤマブキが咲いてる? 

丹沢あたりに行くと林道に結構咲いていたりするが、4月中頃から5月あたり

だったような気がする。まだ4月の第一週である。

そういえば石楠花ももう満開だし、間違いなく花が咲くのが早くなっている。

おまけに、コースの途中でカエルの鳴き声を聞いた。

4月の第一週でカエルの鳴き声というのは早い。

地球温暖化は身の回りで確実に進んでいるのだろう。

今年も大きな台風が来るのかな

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    ヤマブキ
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  シャクナゲ

午前中にファーストを回り、昼飯を食べてから午後、セカンドを回る。

合計得点で成績を競うわけだが、

ハンデに助けられて2位入賞。

これで1月から4か月連続で入賞しているのだが、

そのおかげでハンデも順調に減っていくので、

来月以降は入賞は難しくなるんだろう。

ちなみに、今年に入って成績がいいのはプランジャーを交換したからである。

どうも、思うように射てないなと思っていたが、

プランジャーが壊れていたのだった。

本人は自分の射ち方に問題があるのだろうと、いろいろやってみたのだが、

やればやるほど、とつぼにはまる感じで低迷していた。

で、年末、射場の営業が終わるということで、在庫整理で定価の3割で売っていた

プランジャーを買って替えてみたら当たるようになった。

もっと早くプランジャーが壊れていることに気付けという話である(^^;

射会のあとはタケノコ掘り。

先週は小さいのしか採れなかったが、一週間経ってだいぶタケノコが大きくなった。

何本か見付けたが鶏冠の緑のものはパスして鶏冠の黄色いのだけを3本採った。

タケノコは鶏冠の黄色いのが美味い。

鶏冠の黄色いタケノコのそれも採れたては、あく抜きしなくても食べられる。

この日採ったタケノコのうちの一本はその晩、あく抜きしないで生のままスライスして

肉と炒めて酒のつまみにして食べたが美味かった。

そんなふうに季節を楽しんでいる。

射場は既に新緑、春まっ盛りである。

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  この日の収穫は2位の賞品の商品券3000円とタケノコ3本

そういえば...歌会

先日の歌会のブログで、「綺麗に詠って、上手ですねと褒めてもらいたいのか」と

いうようなことを書いた。

で、思い出した。

もう十年くらい前の話だが、横浜歌会で、歌会の最初に詠草を回して配っているとき、

隣りの人が詠草を投げてよこした。

その人は歌会に参加するようになって新しい人で、まだ数回目の参加だったと思う。

「乱暴な人だな・・・」と思っただけで、そのまま歌会をやっていたのだが、

その人はその後しばらくして歌会に出てこなくなった。

別に気にもとめていなかったが、

だいぶ経ってから歌会のあとの二次会で話していたら、その人は歌会の幹事役の人に

手紙を出したそうである。

「私はびっくりしました。人の歌をけなすような人が歌会にいるなんて・・・」

というようなことが書いてあったとか。

「人の歌をけなすような人」というのは、どうやら私のことらしい。

私は思わず噴き出した(^^;

その人にとって、歌会とはそれぞれの歌を鑑賞して感想を言い合うところだったのだろう。

その感想というのも、決して悪くは言わない、そういう感想を言い合うことなのかな。

ま、それはそれで仕方ない。

そういう人にはそういう人にふさわしい歌会がある。

実際、お互いの歌を褒め合うような歌会もあるらしいから、

そういう人はそういう歌会に行けばいい。

短歌の表現を問い、それを突き詰めるために意見を戦わせる、

そういう歌会にそういう人は出てこなくていい。

むしろ迷惑である。

短歌を始めて、歌を詠む人にはいろいろな人がいるのだなと、

つくづく思った。

尊敬するべき人も敬愛する人も当然いるのだが、

一方、歌を詠む人は結構、フツーに俗っぽい人達なのだなということもよく分かった(^^;;

ま、俗っぽいから悩みや苦しみがあって、それを吐き出すために短歌という表現を選択し

たのが歌詠みさん達なんだろうから、むしろ俗っぽいのは当たり前かもしれぬ。

私も当然、その俗っぽい歌詠みのひとり。

しかし、歌会で褒めてもらいたいと思う程、俗っぽくはない(^^;;;


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  花桃

歌会

湘南歌会、ひさしぶりの生歌会である。出席者は7名。

やはり緊急事態宣言は終わっても高齢者を中心に出席を躊躇う人は多いから仕方ない。

で、気になった歌というより、今回は自分が選歌した歌について。

湘南歌会や横浜歌会は選歌をする。

配られた詠草から3首くらいを選び、批評のときは選んだ人から批評していく。

その次に選ばなかった人達が批評をするわけだが、当然、選ばなかった理由を言う

ことになる。で、選んだ側と選ばなかった側でバトルになれば歌会は盛り上がる

わけである(^^;

さて、選んだ歌だが、例によって誌面発表前なのでここには出せない。

若者を殴る警棒を持った手が家族を抱く  時間は続く

そんな歌意の歌である。

結句の前には一字スペースが空いている。

一読、ミャンマーの状況が浮かんだ。

ミャンマーの国軍は民主化を求める国民を弾圧し、自国民に銃を向けている。

しかし、その兵士達にも家族がいて、家に帰ればやさしい父親なのであろう。

小池光の歌、

 

ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せに行つたであらう

 

を思い出す。

ユダヤ人を虐殺した収容所の看守、仕事が終わり家に帰ればやさしい夫であり父で

あっただろう。それは異常なことではなく、人間のむしろありのままの姿なのでは

なかろうか。スワンの白さが、ガス室の無残さと、そういう人間の営みを際立たせる。

で、歌会の歌だが、

小池光の歌を思い出させるわけだが、模倣の域を出ていないし、

一首として読んでも瑕が多く、未完成な歌である。

結句に至っては作者の自己満足的な表現でしかなかろう。

ではなぜ採ったのか?

こういう題材、表現に挑戦しようという作者の意志に一票入れた。

その日の歌会の詠草にあった他の綺麗な歌。

春雷が走って白く浮き上がるとか、夕暮れを白く桜が降りしきるとか、

路地のゆうぐれがどうしたとか、

この百年、数えきれないくらいに詠われてきたことをあいも変わらず詠って、

それを歌会に出してどうするのか?

綺麗に詠って、いい歌ですねと褒めてもらいたいのか?

歌会で褒めてもらっても意味はないのである。

自分の表現を試すために歌会に歌を出すのであろう。

自分の歌の表現がどう受け取られるのか、通じるのか通じないのか、

どう読まれるのか、それを試すために歌会に出す。

褒めてもらってもしょうがない、歌会はぼろくそに言われてなんぼである。

くだんの歌の作者も未完成な歌を推敲していい歌にして欲しい。

そう思って一票入れた。

歌会のあとはひさしぶりに二次会でしばし飲んで帰った。

歌の話をしながら酒を飲むのは楽しい。

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  歌会風景

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