2020年10月

仲間

山岳会の仲間が癌で死んだ。

しばらく前に癌を発症、一度は治ったのだが転移したらしい。

退院したというので家に見舞いに行ったら顔が変わっていた。

自宅療養に切り替え、そのあとホスピスに入るという。そういう退院だった。

話すのも辛そうな状態だったので、長くいると疲れるだろうと思い、30分くらいで帰った。

家を出てしばらく歩いて振り返ると彼が見送っていたので手を振った。

一週間後、奥さんから電話があった。

見舞いに行ったあと一週間で死んだ。

本人は見舞いに行ったとき「今年一杯だよ」と言っていた。

本人も周囲もここまで早く死ぬとは思っていなかった。

若い頃、一緒に登った山の仲間。

山岳会の集会のあとは横浜の野毛で飲み歩き終電を逃したことも何度もあった。

あの頃は随分バカなことをやっていた。

そのあとも何十年、付き合いを続けた。

そういう仲間が、遭難で死んだり、病気で倒れたり、

ひとりふたりと減っていく。

それはもう仕方ないのだろう。

しかし、物事には順番がある。

俺より若いのにせめて順番を守れ。


DSC_0765

  酒好きだったろう。三途の川の向こうで飲みな

歌会

ひさしぶりの湘南歌会、相変わらずコロナのために参加者が少なくて6人。

歌会のあとの飲み会でもちょっと話題になったのだが、

コロナのために歌会が開かれなくなり研鑽の場が少なくなって、

短歌の全体的なレベルは落ちていくのだろう。

短歌の世界を牽引する人達は変わらないのかもしれない。

しかし、短歌の裾野を支える人達は必ずしもそうではあるまい。

それはそれとして湘南歌会、例によって気になった歌。

誌面発表前なのでここには出せないが、

秋の日つよし、我が棺となる木はどこかの山に育ちていよう

そんな歌意の歌。

自分の棺となる木がどこかの森にある、という歌は先蹤があるわけで、

かなり工夫しないと二番煎じという感は免れないわけである。

この歌もそういう意味では二番煎じから抜けていない。

かろうじて初句の「秋の日つよし」が一首を引き立てているのだが、

それ以降の二番煎じ感をなくすためには、かなり苦しまないといけなそうである。

苦しんだ末に同じ着想に辿り着くということは当たり前にある気がするが、

既に先蹤がある以上、それを越えなければならない。

それは仕方ない。

で、そんなことを思いつつこの歌を読んでいて気になったのが、

「棺」と「柩」の違い。

漢字は違うが意味に違いがあるのかと思って調べてみたら、

「棺」というのは「棺」にまだ遺体が入っていない、つまり空の状態。

「柩」というのは「棺」に遺体が入った状態。

なんだそうだ。

この歌はどっちがいいんだろうか?

秋の日がつよい、どこかに私の棺となる木が育っているのたろう。

そういう気持ちを詠うとき、

思い浮かべるのは自分が横たわった柩なのではなかろうか。空の棺ではないのではないか?

ひとつひとつの言葉の吟味、

二番煎じを越えるためにはそういうことも大切なのではなかろうか、

そんな気がしたのである。


DSC_0767


シビックハッチバック

今年に入りなんの脈絡もなく若い頃の恋を思い出し、

憂さ晴らしに父親の車を引っ張り出して突っ走っていた自分を思い出した。

その頃から車を走らせるのは好きである。

そういう若い頃のように再び突っ走りたくなって、新しい車を買った。

まず、走りを楽しめる車でなければならぬ。

ゴーカートじゃあるまいし、車はマニュアルでなければいけない。

ただ走ればいいってもんじゃない、美しくなければいけない。

ゴールデンレトリバーのさくらが乗れなければならない、セダンではだめ。

以上の条件を満たしたのが、

ホンダの新型シビックハッチバック。

契約したのは2月で8月納車の予定だったのだが、

新型コロナでイギリスの工場が操業停止になり納車が10月にずれこんだ。

この車、日本車のくせに国内で生産していないのである。

やっと納車になった。

運転してみるとエンジンは静か、アクセル踏むと加速がなめらかで速い。

この車で箱根や伊豆のスカイライン突っ走ったら、さぞかし楽しいだろう。

車を受け取った翌日の日曜、早速、アーチェリーの射場に自慢しにいく。

たいして高い車でもないのだが、新車は新車である。自慢くらいしても罰は当たらない(^^;

射場の常連仲間、結構、車好きが多くて、車には一言二言ある連中が揃っている。

ボンネットあけてエンジン覗いたり、

「派手な車だな~」とか

「この車からジーパンの膝が擦り切れたおじさんが出てきたら似合わないよな~」とか、

「その歳でこのエアロパーツ付けるの?」とか

「そのうちどこかの峠で谷に突っ込んてるんじゃないの~」とか

早い話、ぼろくそ。

まあね、ある程度の歳になってスポーツカー的な車に乗るといろいろ言われるよね(^^;;

そんなことはどうでもいい。

若い頃のように走りたいのである。

と言っても、たぶん若い頃のようには走れない。

瞬発力も咄嗟の判断力も、たぶん若い頃とは違う。

それは分かっている。

しかし、男が少年の心を失ってどうする。

いつまでもそういうものを失わない男でいたい。

どうせしばらくは新型コロナで海外にも出られない。

ならば、新しい車で国内突っ走って楽しもうと思っている。

どんなときでも、人間、楽しむことを忘れちゃいかん。

ストレスに負けず働くコツである(^^


InkedDSC_0763_LI
  ナンバー1018はさくらの誕生日

InkedDSC_0764_LI
 後ろからのフォルムがいい

DSC_0762
 誕生日のさくら 12歳

月山から山寺・蔵王

月山から降りて寒河江温泉に泊り、翌日は山寺に立ち寄って横浜に帰る。

山寺は9世紀中頃に創建されたらしいが、

この辺りに大和の王権の支配が及んで一世紀くらい経った時期だろうか。

北には蝦夷の勢力があり秋田城が落ちた元慶の乱は山寺が建てられた後である。

平泉の毛越寺もやはり9世紀の創建。

山寺は清和天皇の勅命で建てられたという。

ちなみに山寺も毛越寺も天台宗の寺で、

天台宗をもたらしたのは国費留学生として遣唐使船に乗った最澄。

護国鎮護のため民心を掴むため、当時、宗教は必要だったのであろう。

そう考えると当時の辺境の地に天台宗の寺が建てられたのも理解できる。

ま、そういう話は話として山寺の階段である。

登っていて「長いな」としみじみ思う。

1100段くらいあるらしい。

四国の金毘羅さんの階段は登っていて、

「階段作りゃいいってもんじゃないだろう」と思うような階段だが、

そこまではいかないので、たぶん、それよりは短い階段なんだろう(^^;

松尾芭蕉が「閑かさや岩にしみいる蝉の声」と詠んだのは、たぶんこの階段の参道である。

ちなみに山寺の1100段の階段はひとつ登るとひとつ煩悩が消えるらしい。

登り終わって1100の煩悩が消えると人間からっぽになってしまいそうだが、

どうなのだろう?

煩悩があって愛があり文学が生まれ芸術が生まれる。

煩悩があるからこそ人間は人間らしい。

煩悩肯定派の人間としては疑問を抱くところではある。

登っていくと奥の院があり、その手前、左側に開山堂が見える。

奥の院の下には郵便ポストがあり、見ると、集配の時間が11時となっていた。

ふ~ん、どういう経緯があるのか知らんが日本郵便㈱、毎日ここまで集配しているのか?

寺の坊さんに下まで持ってきてもらえばいいだけの話じゃないの?

坊さんたちは毎日上り下りしているんだろうに。

毎日1100段を登りたい郵便局員がいたのかな?(^^;;

振り向くと開山堂がある。

開山堂のとなりが五大堂で、この五大堂からの眺めがいい。

それにしても五大堂の板塀に落書きがあるのはちょっと悲しい。


DSC_0737
  階段から振り向けば開山堂

DSC_0738
  1100段登ったところにある郵便ポスト、集配は午前11時

DSC_0739
  奥の院
DSC_0740
  奥の院をお参りしてから開山堂

DSC_0745
  ひっそりとある仏

山寺を降りて千手院に行ってみる。

山寺の下の道路をもう少し奥に行ったところにあるのが千手院。

ここの裏山の垂水遺跡というところに、山寺開山の円仁が修行宿として使ったと

いわれている岩窟があり、大正時代までここで修行している山伏がいたらしい。

なんでも近頃はパワースポットといわれているとか。


DSC_0750
  千手院 コスモスの手前はJRの線路

DSC_0751
  電車が走ってきたら撮り鉄が喜びそうなスポット

DSC_0752
  垂水遺跡 この奥にも岩窟がある

千手院から戻り参道の店で土産を買い、蔵王を越えて帰る。

早く帰るなら高速に入ればいいだけの話だが、

せっかくなので蔵王の紅葉を見て帰ろうとエコーラインを走る。

ただ、残念ながら雨が降ってきて、蔵王の山形側はそれでも時折、雨とガスが切れて

鮮やかな紅葉が広がったのだが、お釜のあたりから宮城側は雨が強くなり回りは白いガス。

そんな天気だったのでお釜にも立ち寄らずそのまま走りぬけてしまい、紅葉の写真はない。

代わりに、葛原妙子の短歌をひとつ

 

みちのくの岩座(くら)王なる蔵王よ(めしい)りて吹雪きつ

                       /葛原妙子

 

葛原妙子は吹雪の蔵王を「岩座(くら)(めしい)」と表現した。

確かに蔵王には老いた王のイメージがある。

シェイクスピアのリア王を思わせる幻視の女王ならではの歌である。

山形側から宮城側に降り、東北道に入って横浜に帰った。   

月山

Gotoトラベルを使って月山に行ってきた。

出羽三山のひとつ月山、豪雪のため冬はスキー場を開くことが出来ず、

他のスキー場が閉まる4月になってから営業を開始するというスキー場。

夏スキーのメッカで7月末まで滑れる。

そんなスキー場なのでホントにスキーが好きな連中が集まるわけで、

昔、月山の山スキーで行ったときは、

「このスキー場でいま滑っている連中のなかで俺が一番ヘタなんじゃないか?」と思った。

ま、スキーオタクの集まるところだと思えば間違いない(^^;

台風が近づいていて天気は悪い。されど寒河江温泉の宿泊も取ってあるので出発。

早朝4時半、横浜を出て東北道・山形道と走り、月山まで500k

10時ちょい過ぎに着いた。

案の定、ガスで周囲は白く車の外に出ると肌寒い。

スキー場の駐車場には結構、車が停まっていて、

「こんな天気のときに山に登りにくる物好きがいるんだな」と感心した(^^;;

リフトに乗ってスキー場の上に行き、そこから歩き始める。

尾根の側面の登山道、回りは白いガスだがその下に草紅葉が広がっている。

足元の木道の間にはたまにリンドウが咲いている。

いい天気ならさぞかし良い眺めだろう。

DSC_0713
  スキー場のリフト
DSC_0714
  リフトを降りてスキー場の上、回りは白いガス
DSC_0723
  登山道を歩く

上から降りてくる登山者とたまにすれ違うのだが、そのうちの老夫婦に聞いてみたら、

「頂上には行ってません。牛首から上の稜線の道は風が強くて行けませんでした」

下の方の道は尾根の側面を歩くような道なので風がまだ弱いのだろう。

牛首から上は吹きっさらしで風が強くなる。

ま、確かにこの天気、無理して頂上に行くような天気ではない。

山にあまり慣れていない娘と二人なので、結局、牛首の下、スキー場から頂上までの

半分のところにある標識のところで今回の登山は終わりとする。

ここまで40分だった。

持ってきたおにぎりを食べて下山。

DSC_0724
  歩いても歩いても白いガス 
DSC_0728
  牛首下の標識、ここで登山終了

考えてみたら月山にはあまり縁がないみたいである。

以前、山スキーで来たときは天気が良くて雪の斜面をシールでるんるんと登っていた

のだが、上から女の人が降りてきて、主人が熱中症で倒れた、下山するのを手伝って

ほしいと言われ、放っておくわけにも行かず、その旦那さんをサポートして下った。

初夏の日差しの強い日だったので、

雪の上で熱中症になったのか、あるいは疲労で動けなくなったのだろう。

これで2回、月山は途中から降りている。

ま、百名山オタクみたいに頂上にこだわる登り方はしていないので、

別にどうでもいいのである。

下山後は寒河江温泉、体の温まるなかなかいい温泉だった。

 

福島歌会 場外編

メールボックスを開けたら福島歌会のメールが入ってきた。

10月の福島歌会、開催するのならいつもの飯坂温泉に泊りがてら参加するのだがと

問い合わせたのだが、コロナの問題で生の歌会ではなくメール歌会になった。

で、メールでの歌会はいろいろやりにくいところがあるので参加は見送ったのだが、

なぜか、歌会のメールが入ってきた。

おそらく、歌会に流すべきメールを間違えて福島歌会の案内のメールに流してしまった

のだろう。場外に一発飛ばしてしまったというところか。

せっかく場外に飛んできたので読んでみた。

例によって誌面発表前なのでここには出せないが、

澄んだ空の心はあるか、その朝、原爆を投下した若者よ、

そんな歌意の歌があった。

まず初句二句がどうなのだろう。

「澄んだ空の心」ということで、あるいは作者は良心とか人間らしい心とか、

そういうことを伝えたかったのかもしれないが、

やはり表現としてこなれていない気はする。

しかし、それはそれとして私が気になったのは、

なにかこう、一首が人間の真実の姿というか、そういうものを浮かび上がらせていない、

そんな気がした。

この詠草の結句は「若者よ」である。

ならば、原爆投下にかかわった者がその後それをどう思ったかということではなく、

原爆を投下したそのとき、そのときに思いを馳せて詠っているのであろう。

表現上は原爆投下から何年かしてその若者と向かい合っている、あるいは写真で

若者を見ている、ように読めなくはないが、いずれにしろ、

「あなたにはその時、良心がありましたか」あるいは、

「あなたはその時、澄んだ空に何を思ったのでしょう」

そういうことだろうか。

悲惨な結果をもたらした原爆。

その投下にかかわった若者は、そのことをどう思っただろうか。

ただ、どうなんだろう

戦争という非日常のなか、

日本人の多くが「鬼畜米英」に染まっていたように、

アメリカの若者の多くも「憎むべきジャップ」だったのではないのか?

国とジャーナリズムが一体となった戦意高揚と、戦争の只中にあって見た同胞の犠牲。

そのなかで日本人もアメリカ人も同じだったのではなかろうか。

原爆の悲惨に目を向け、それにかかわったことに苦しんだとして、

それは戦争が終わり、物事を冷静に振り返ることが出来るようになってからの

話ではないのか?

日本がもし原爆を先に完成させ、それをアメリカに落としていたら、

その原爆搭載機の搭乗員達は、祖国のために任務を達成したことを誇りにしただろう。

戦争のさなかにあっては、当然のように任務を果たしたのではないのか?

それが人間の一面ではないのか?

もちろん、なかには苦しんだ搭乗員もいたかもしれない。

しかし、「これが戦争だ」「仕方ない」と自分に言い聞かせたのではあるまいか。

実際、広島と長崎に原爆を落としたアメリカの搭乗員達の反応はそれに近いものが

あったらしいし、エノラ・ゲイの機長は戦後、苦しんだのかもしれないが、

最後まで謝罪することはなかった。

原爆投下にかかわった苦しみは、あとからやってきたのではないのか。

やがて若者のもとにやってくる苦しみ。

その苦しみを背負って生きることになった若者もいたのかもしれない。

しかし、この歌はそういうところには届いていない。

観念的に「原爆を落としたことをどう思ったのだろう」と投げかけているようで、

もっと深いところにあるだろう人間の真の姿には届かない。

そんな気がした。


DSC_0711
 射場の白い彼岸花

アーカイブ