日本海の水平線に子が一人立っている透明な海が足首浸し
花山周子「塔1月号」
不思議な歌である。
歌の情景を考えたとき、
ひとつは実景として、作者が対象を見ている角度の関係で、渚か堤防の上か、そういう
ところに立っている子供が水平線に立っているように見える、
そういう読みであろう。
あるいは実景としては読まず、
水平線に子供の幻が立っている、そういう読みもある気がする。
いずれの読みが正しいのか正直言って分からない。
「子が一人立っている」という客観的な表現からは、
その「子」が作者の子ではないようにも思える。
で、「透明な海が足首浸し」。
この「透明な海」というのはほんものの海だろうか?
そう考えると、やはり水平線に立つ幻の子供なのか?
あるいは、この部分がこの歌を抽象的な歌にしているのであって、
それはむしろ作者の意図かもしれない。
実景として渚に立つ子の姿から、
あるいは作者は幻の子供を想起させるように作ったのかもしれない。
正直言ってこの歌を読みきれないでいるのである。
音は6,7,5,10,10のようだが、
6,7,5,5,8,7のようでもある。
この破調はそれほど気にはならない。
意味は読み取れないのだが、
明るい広い海の情景が浮かんでくる。
読み切れないが、気にかかる。
気にかかりながら、なにか気持ちのいい情景の広がりを感じる。
歌は読めなくてもいいと思っているし、
歌は読むよりも感じ取るものだと思っている。
もちろん、それは読む努力を尽くしたうえでの話ではある。
先週に続いて、ちょっと走りたくなって伊豆へ。
伊豆はスカイラインとか走って楽しい道が多い。
天城越えの道のコーナーを攻めながら、
頭の中には石川さゆりの天城越えがオートリバースで聞こえている。
寝乱れて隠れ宿
九十九折り浄蓮の滝
舞い上がり揺れ落ちる
肩の向こうにあなた...
伊豆は既に桜の季節。
河津桜が咲き始めていた。