2019年10月

プチ湯治

若い頃の山での無理がたたったのか腰痛持ちである。

というか、正確には腰痛持ちだった。

フィールドアーチェリーをするようになり、

週に一回、アーチェリーコースの山を歩くようになって、腰痛が消えた。

すっかり腰痛のことも忘れていたのだが、

先日、ペルーから帰って登山靴を中腰で洗っていて、腰にビーンと来た。

幸い、軽いギックリ腰でしばらくリハビリして治ったのだが、

そのあと、右足が痛むようになった。

腰痛のあとで神経痛が出ることがあるらしく、どうもそれらしい。

とりあえずストレッチを毎日していたのだが、

先日の大雨の日、かなり痛くなった。

治るどころか悪くなっているのか?  と危機感を抱いて、そのとき、湯治を思いついた。

とりあえず仕事が忙しいので長くは行けない。

一泊でも温泉に行って温まってくれば少しは楽になるか、と思ったのである。

アーチェリーの射場で常連仲間にその話をしたら、

「湯治って一週間ぐらい行かないと効果ないんじゃない?  一泊で意味あんの?

と言われたが、溺れる者は藁をもつかみ、腰が痛い者はお湯をもつかむのである(^^;

座って長く車を運転していると痛くなってくるので近場の温泉で、

温泉療法ということで源泉かけ流しにこだわって探してみた。

箱根はこの前の台風で温泉の配管が壊れ、温泉が使えなくなっているところが

かなりあるらしい。熱海は割と源泉かけ流しが少なかった。

で、条件を満たしたのが湯河原。

熱海の手前、神奈川県の西の端っこの温泉である。

新幹線で熱海に行けるようになってから電車の客は熱海にとられ、

温泉街としては寂れているのではあるまいか。

昼まで仕事をして、午後から車で行く。

東名、小田原厚木と高速を乗り継ぎ、横浜から1時間半で湯河原。

観光に来たわけではないので、ホテルにチェックイン後はひたすら温泉。

今月末までの短歌結社の原稿があるので、持ち込んだPCで原稿を書いては

温泉に入るということを夜12時あたりまで繰り返す。

翌朝も2回温泉に入り、9時半にチェックアウト。

本人的にはなにやら体も気持ちも楽な気分である。

途中、土産を買っても11時過ぎには横浜に着いて、昼から再び仕事。


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  泊まったのは湯河原の温泉街の奥の方
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  川沿いのところどころにこういう温泉の源泉がある。
 昔は河原のあちこちから温泉が出ていて、それが湯河原の地名のもとになったのだろう。
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  伊豆の海

で、効果の方だが、

毎日続けているストレッチが効いているのか、温泉が効いたのかは分からないが、

足の痛みの方はかなり楽、というか、普段はあまり痛みを感じなくなっている。

そのうちまた痛みが出てくるかもしれないので、

近いうちに一泊ではなくもう少し日にちをとって湯治したいと思うのだが、

いかんせん仕事がなかなかそれを許してくれそうにない。

当分、今回のようなプチ湯治しか行けないかな…(^^

『インディアスの破壊についての簡潔な報告』からの一連

バルトロメ・デ・ラス・カサス。1484年に生まれ1566年に死んだスペインの聖職者。

父親がコロンブスの第二次航海にくわわり、本人も18歳で新大陸に渡った。

エスパニョーラ島でのインディオ討滅にも加わっている。

その後、コンキスタドールの一員としてインディオの分配を受け、

農園を経営したりしたのちスペインに戻り聖職者になる。

聖職者になったのちのラス・カサスは、

スペインによる新大陸のインディオ収奪の告発者になる。

いわゆる「新大陸の発見」とその後の新大陸へのヨーロッパからの移住は、

新大陸の先住民のホロコーストと同時進行だった。

人類の歴史上これほどまでに大規模におこなわれたホロコーストはなかった。

新大陸のそれと比べれば、

ヒトラーのユダヤ人虐殺さえ子供じみたものと思えるほどのものである。

ラス・カサスはそれを告発した。

それは、スペイン王室での論争となり、

やがて、国際法の夜明けにつながっていくわけだが、

日本ではあまり知られていない。

ラス・カサスの著作が彼の思想に染まっていてプロパガンダ的な部分があるのも確かで、

スペイン人によるアメリカ先住民の壊滅についてもその数字は誇張されている。

コロンブス以降のアメリカ先住民の劇的な人口減は、征服者たちによる虐殺と奴隷化は

もちろんあったが、一番大きな理由は先住民が免疫を持たなかった天然痘など、

旧大陸から持ち込まれた疫病である。

そういう部分はあるにせよ、

彼の属した時代のなかで彼は自分のなしえることをしようとした、

それは考えるべきなのだろう。

で、彼の著作『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んで触発された歌を

短歌結社の毎月の詠草として4ヵ月ほど続けて出したのだが、評価は低かった。

自分で詠んでいて思ったのだが、叙事は短歌では難しい、

一首で伝えられるようなものならまだしも、

それを越えるならばどうしても事柄を説明しなければならず、

この「説明」というのが短歌には不向きなのである。

それを認識しながら4ヵ月、そういう歌を出した。

結社での評価どうのこうのではなく、自分で表現したかったからである。

で、4ヵ月間のその歌をここに出してみる。

叙事の難しさは詠んでいて感じていたことで理解できるところだが、

選者が落とした歌のなかには「この歌を落とすかい?」というのも幾つかあって、

こうやって並べてみると面白いかもしれない。

死者の声に耳を傾け、それを伝えたい。

それは短歌を始めた理由のひとつで、

短歌では叙事が難しいということは、

では、どうしたら死者の声を伝えられるのかという宿題を突き付けられたようで、

重く苦しんでいるのである。

本当に表現したかったのは死者の声を伝えること。

実は、時間がないから短歌をやっているだけではないのか?

そういうおのれへの疑念も消えないわけである。

それはそれとして、

面白いので試しに結社誌で採られた歌には〇、採られなかった歌には×をつけてみた。

ちなみに一連のなかに幾つかある残酷な歌は、結社誌ではみな落とされている。

ことさらに詠ったように選者はとらえたのかもしれないが、

その残酷な表現は殆ど『インディアスの破壊についての簡潔な報告』のなかの表現に

従っている。ことさら残酷趣味で詠ったものではない。

世の中も世界も歌詠みが思っているより残酷に満ちているのである。

 

 

  〇 明けてゆく森の中から立ち上がる巨人のごとし高き梢は

  〇 青年の夢とこれから見るものとラス・カサス朝の桟橋に立つ

  〇 何事もなかったような青空を鸚鵡の群れは飛んでゆきたり

  × 「インデペンデンス・デイ」の既視感は島に現れたコロンブスの船

  〇 幾つもの王国があり平原は緑なりけりインディオの島

  × 十二使徒に捧げるために吊るされてインディオ達のあまた火炙り

  × 遠景にインディオの国滅ぼされ女王アナカオナ吊るされにけり

  × 足や腕首が散らばり日が暮れてスペイン人は行ってしまいぬ

  〇 黄金の国とよばれしジパングが彼等の憧れであったということ

  × 9条の具体のような人達を絶滅させてエスパニョーラ

  〇 違和感のように真っ赤な花が立つスラムの脇を通り抜けたり

  〇 かく赤くダリアの花のひらくときモクテスマ王の深き悲しみ

  〇 滅ぼされし都市のひとつに数えられテノチティトランの絵図は鮮やか

  × 「信仰を教えるためにインディオの分配を神は許したまいき」

  × インディオの分配を受け農園を拓きしひとり若きラス・カサスも

  〇 夕暮れの露店に並ぶ骸骨のキャラクターどれも目は虚ろなり

  〇 コルテスの「悲しい夜」 否、メキシコの美しい夜月はのぼりぬ

  × 吊るされるインディオの王に改宗を勧めるほどの度胸があれば

  × 「天国にキリスト教徒が行くのなら私は天国に行きたくはない」

  〇 不都合は忘れてしまう明るさにメキシコの空どこまでも青

  〇 人間を駆除するためにやってきた白い神なりビラコチャという

  〇 インカの王縊られし朝おごそかに神父は神の愛を語りき

  × 虐殺の村に佇むラス・カサスそれから歩む遥かなる道

  × 怒りすら風化してゆく時の量(かさ)サクサイワマンの石は冷たし

  × コンドルはかなたの峰に還りゆき果てとは青の領するところ

  〇 石段に吾を振り向く少年の瞳は黒しクスコの夕べ

  〇 石段の下から夕闇やってきてクスコの街は日暮れてゆきぬ

  × クリスティナとウーゴを知らぬ若者のグラスを置いて聞く「花祭り」

  × インカの兵斃れただろう石段にヒールの音はさえざえ響く

  〇 燭明にあまたなる死を書き記すラス・カサスその影の揺らめき

  〇 滅ぼされし国と民との列なりに新大陸は撓んだ大地

  〇 インディオの坑夫たらふく呑み込んでポトシの山は銀を吐き出す

  × 猟犬の餌にするためインディオを連れて領主の狩りの隊列

  × 人間のタガが外れる容易さに新大陸もアウシュヴィッツも

  〇 簡潔な報告としてインディオのあまたなる死は伝えられにき

  〇 「キリスト教徒の良心の覚醒」論争ははるかスペインの地に

  〇 執筆と論争に暮れしラス・カサスついにインディアスに還らず

  × 救いとはいかなるものか褐色の聖母はミサの高きところに

  × インディアスその壊滅を種として国際法の夜明け遥けし

  〇 メスティソの村の外れに高く立つあれはヌマスギたぶんヌマスギ

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  メキシコシティー アステカ最後の王クアウテモクの像 

台風

台風19号、関東から東北を突き抜けて行った。

風の方は15号のときと同じくらいだったが、

水害の方はそれ以上で、復興するまで日にちがかかりそうだ。

1日置いて祝日の月曜、通っているアーチェリーの射場に常連仲間が集まった。

とりあえず山に入ってみると、まず目についたのは風に強い竹が傾いていること。

射場からコースに入り最初の的、35mの打ち上げなのだが、

行ってみると何か違和感がある。

いつも見ている風景と微妙に違い、回りの竹が右から左に少し傾いているのである。

風や雪に強い竹が傾くほどの風が吹いたのだろう。

そのさきに登ってゆくとなにやら明るい。

枝や葉が風で落とされて森が明るくなっている。

2番目の的の手前、右側の木がばったりと倒れていた。

足元はなにやらふわふわしている。

風で落とされた葉や小さな枝が一杯落ちているので、

歩いているところがいつもよりふわふわしているのだ。

コースの右側を見ると太い木が見事に途中から折れていた。

「これは大変だな

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  二番目の的の横 木が倒れていた
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 森の中、大きな木が折れている

コースの真ん中あたり、45mの的のところが一番凄い。

見事に木が倒れていて、その木をチェンソーで切ってどかさないといけない。

通い慣れたアーチェリーの森が台風で荒れるのは悲しい。

こんなふうに今まで来なかったような大きな台風が毎年来たらどうなるのだろう。

日本の森は崩壊してしまうのではないだろうか。

森が崩壊すれば山が崩れる。

山が崩れれば川が荒れる。

この列島はどうなるのだ。

地球温暖化ということが、身近の問題としてひしひしと感じられる。

これからどうなるのだろう。

あまりに問題が大きすぎるのだが、

とりあえず自分達に出来ることをしていくしかあるまい。

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  45mの的 両側の木が折れて白い幹が見える
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  倒れた木をチェンソーで切ってどかさないといけない

日本刀

依頼された相続税の申告、遺産を調べていたら日本刀が出てきた。

日本刀は美術品の扱いで相続税の課税対象になる。

美術品なので銃刀法での届け出も警察ではなく教育委員会である。

で、相続開始時点での「時価」で評価するわけだが、

この「時価」が分からない。

どうするかといえば、しかるべきところで鑑定してもらい、

それを「時価」として申告することになる。

被相続人の先祖は武士だったそうで、

その日本刀は先祖伝来の刀というわけではなく、

武士の家系を誇りにしていた被相続人が昭和の頃に購入したもの。

かなり大切にしていたらしく、毎月一度は手入れをしていたそうだ。

桃山時代の刀匠の銘が打ってあり、かなりのものらしい。

ということで、相続人がそれを鑑定に持ち込んだ。

その結果は、なんと偽物!!

相続人から電話をもらって

「えっ!?  マジですか?  偽物だったの!?」と思わず言ってしまった。

鑑定人の言うには、

「打ち方が雑で傷がある。その刀匠のものではありません。銘もあとから打ったもので

しょう。本物なら150万はしますが、15000円くらいで買って3万円くらいで売る、

そういう刀です」

とのことらしい。

う~ん….

被相続人は偽物とは知らなかったのだろうな

それなりの金額で買って本物と思って大切にしていたのだろう。

偽物と知らないままでお亡くなりになって良かったのかもしれない。

以前にも他のところで、

400万で買った絵を相続人が売ったら20万にしかならなかったという話があった。

美術工芸品の世界は魑魅魍魎悪党が沢山いる。

自分が本当に好きで買うのでなかったら手を出さない方がいい。

いずれにしろこの日本刀、時価15000円ということになると、

そのくらいの少額の美術品は個別評価せず、他の家財一式と一緒に計上することになる。

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 日本刀   ネットのフリー写真から

上高地

ここ数年、秋に上高地に行っている。

去年は奥穂に登る予定だったが、台風が近づいたため諦めて横尾に泊まり、

翌日、涸沢まで登って紅葉を見てきた。

今年も奥穂を予定したのだが、やはり初日に雨が降り、昨年と同じ横尾泊まりにする。

どうせ時間があるので上高地の手前の大正池でバスを降り、湖畔の道を歩く。

河童橋までⅠ時間くらい。

そこから横尾まで歩くのだがだんだん雨と風が強くなり、

この天気で上に上がれなかった登山者が集まったらしく横尾山荘はかなり混んでいた。


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  大正池 水面から出ている枯れ木が昔より減った気がする
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  横尾への道の途中で出会った猿の群れ、このあと続々とやってきた。
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  雨の中、横尾山荘着

翌朝の5時、小屋の外に出てみると天気は回復し、小屋の上にオリオンが傾いている。

支度をして6時過ぎに出発。今日一日で奥穂を越えて上高地というのは時間的に無理

なので、予定を変更し、蝶が岳に登り、そこから徳沢に下り上高地に戻ることにした。

蝶が岳は常念の南の2677mのピーク。槍穂高連峰の恰好の展望台である。

横尾山荘から裏の山に登る感じで樹林の道を登る。

3時間半くらいで稜線に出て振り返ると、槍と穂高の連峰が目の前にある。

まさに展望台。

槍沢と槍ヶ岳、北穂、奥穂、前穂が手に取るように見え、涸沢の紅葉も上の方が少し見える。

稜線を歩き、蝶が岳ヒュッテでしばらく休憩して蝶が岳のピークへ。

常念、蝶が岳の稜線の西側には槍と穂高の連峰、東側には雲海という見事な風景。

見飽きない風景をいつまでも見ていると上高地に降りられないので、

テキトーに切り上げて徳沢に下る。

この下りが結構長くて疲れた。

3時間くらいで徳沢に降り、そこからは平坦な道を上高地に戻る。

横尾から9時間ほどで河童橋に着いた。

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  蝶が岳の稜線から 槍と穂高の連峰
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  蝶が岳の頂上から 常念岳と東側の雲海
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  蝶が岳の頂上から 向こうに槍沢とその奥に槍ヶ岳

上高地では河童橋のたもとの白樺荘に入り、

風呂で汗を流し、部屋の窓から穂高の吊尾根を眺め、のんびりと酒を飲む。

これがたまらない。

実のところ、奥穂を登るだけなら一泊二日でも行けるのである。

一日目に横尾から涸沢を経て穂高岳山荘まで登り、

翌日、奥穂を越え吊尾根を経て前穂から岳沢に下り、そのまま夕方のバスで上高地を

出ればいい。若い頃なら当たり前にそういう山行をするわけだが、

ある程度の年になると、ただ登るのではなく、山で過ごす時間を楽しみたくなる。

ここ数年は上高地での定宿の白樺荘の部屋の窓から穂高を眺めながらのんびりするのが

習いになった。こうなると、それを組み込んでのスケジュールを考えないとならないので、

奥穂に登るにも二泊三日必要になったりするわけである。

山屋としては堕落であるが、

穂高を見上げ、若い頃の登高に思いを馳せながら酒を汲む堕落は気分がいい(^^;

さて、来年は奥穂に登れるだろうか。

別に登れなくてもいいのだ。

こうやって一年に一度、上高地を楽しめればそれでいいのである。

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  白樺荘の部屋の窓からの穂高 吊尾根と岳沢

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