海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
/ 寺山修司
夏である。
夏といえば海。
海といえば寺山修司のこの歌がある。
もう何年も前になるが、この歌についていろいろ批評があったような気がする。
「麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」というのは、
海を知らない少女に海の広さを教えているという説と、
海を知らない少女の前に両手を広げ通せんぼをしているという説。
正直、そういう読みもあるのかなあと思った。
私は素朴に「海の広さ」説である。
「通せんぼ」説は言われるまで浮かびもしなかった。
確かに一首の表現からは「通せんぼ」というのも読めるだろう。
「われ」の描写が他者を見ているような表現だということが、
「通せんぼ」説が出てくるひとつの要因である気がするのだが、
言葉を操り一首を組み立てる、そういう作り方をする人間にはこれは理解できる。
見たものだけを詠うのが短歌の詠み方ではなく、
見てもいないものをしゃあしゃあと詠う向きもいるわけである(^^;
たぶん、寺山もそういう一人である。
なにかを詠おうとするとき、実際には存在しないその映像を鮮やかに思い浮かべる。
そしてそれを見ながら詠う。
そういうとき、「われ」も他者を見るように詠えるわけである。
表現に曖昧さが残るのもそれゆえである気がする。
いずれにしろ、そういう詠い方をした寺山は短歌から演劇の世界に移り、
虚構のなかに人間の真実を浮き上がらせようとした。
寺山にとって短歌より演劇の方が表現には向いていたのだろう。
ところで、どうでもいいようなことだが、
この歌の「麦藁帽」の読みは「むぎわら」でいいのだろうか?
それとも「むぎわらぼう」か?
ワンビースの「麦わらのルフィー」を見慣れていると、
「麦藁帽」も自然に「むぎわら」と読めるのだが、
寺山の時代、「麦藁帽」の読みは「むぎわら」だったのか「むぎわらぼう」だったのか?
ルビがないのは「むぎわらぼう」ということか?