2019年04月

仁義礼智忠信孝悌

今月の短歌の結社誌を捲ってたら、自分のこの歌が載っていた。

 

   犬にあらざれど吠えたくなるときがある仁義礼智忠信孝梯

 

この歌、歌会に出したときはケチョンケチョンだったのである(^^;

「意味わかりません、仁義礼智忠信孝梯ってなに?

「言葉ならべているだけですよね」

「里見八犬伝ですよね。自分は知ってるんだって自慢ですか?

結構、がっかりさせてくれる批評ばかりだった(^^;;

昔、NHKで夕方、辻村ジュサブローの人形を使った人形劇をやっていて、

南総里見八犬伝もやっていたのだが、

ま、その人形劇は知らなくてもいいのだが、

南総里見八犬伝を知らない人がいることに驚いた。

江戸時代後期の滝沢馬琴の作品。

短歌やっている人は日本の文芸はそれなりに知っているかなと思ったら、

結構そうでもなくて、知らない人って割と多いみたいである。

知らないのはしょうがないのである。

短歌に詠われている題材すべてを知っている人間なんてこの世にはいないのであって、

知らないことはどうでもいいのだが、

知らないなら知らないで、その歌がどう鑑賞できるのか?  それを批評するのが歌会である。

しかし、実際の歌会では、知らないとそれ以上批評ができなくなるという人が多い。

それではダメなのだ。

 

 あなたには何から話さうタカサブラウ月が出るにはまだ少しある

                            / 河野裕子

 

私はこの歌を読んだとき「タカサブロウ」という植物を知らなかった。

というか、植物であるという事すら知らなかったが、

作者の心情がしのばれる初句二句、四句結句の叙景、

それをつなぐ「タカサブラウ」という意味は分からないが不思議な響きの三句。

なにかしら一首から伝わってくるものがあるわけで、

それについて批評するのが歌会である。

少なくともその努力をするべきだ。

その努力をして恥をかいてもいいのである。

しかし、実際の歌会では知らない分からないで批評が終わってしまう人が多い。

だから歌会でそういう批評に皆が納得しているのを聞くと、

こういう歌会、出てもしょうがないなと思ったりするわけである(^^;;;


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  ネモフィラ

三春滝桜

福島の歌会のあとはいつもの飯坂温泉。

一晩ゆっくりして翌日は帰りがけに三春の滝桜へ寄る。

日本三大桜のひとつと言われる滝桜。

着いたのが10時過ぎぐらいだったのが良かったのかもしれない。

観光客は確かに多かったが驚くほど多いというわけではなく、

フツーに滝桜に歩み寄って花を見上げ、周囲を巡るように歩いて写真を撮って、

少し離れたところを歩いたりして滝桜に戻ってきたら凄かった。

11時くらいからだろうか、

観光バスがわっとやってきたみたいで、人人人である。

満開の週末は駐車場から滝桜まで行列になるのではなかろうか。

車で走ってみて分かったのだが三春は滝桜に限らずあちこちに大きな枝垂桜がある。

しかし、滝桜はそのなかでずば抜けて大きい。

木の大きさがまるで違う。

樹齢は1000年を越えているらしい。

高さは13.5mとか案内に書いてあった。

いずれにしろ老木なので、温暖化で逆に大雪がふったとき、四方に張り出した枝は

大丈夫だろうかと余計な心配をしてしまう。

遠くから見ると、丘のなだりに滝のような桜をまとった大きななにものかが

立ち上がったようにも見える。

夜、この滝桜を見たら妖しいだろう。

一見の価値ある桜である。

ただし、満開の週末は覚悟を決めて行った方が良さそうだ。

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歌会

ひさしぶりに福島での歌会。

福島で歌会を立ち上げるとか立ち上げないとかいう話が出てからの付き合いで、

年に一度くらい福島に行っている。

今回は福島市郊外の花見山での吟行をしてから、いつもの福島駅近くのコラッセの

会場に移っての歌会。

福島駅で集合し、バスで花見山へ。

天気の良い週末なのでともかく人が凄い。

海外からの観光客もいるみたいで、英語や中国語・韓国語が聞こえてくる。

花見山はもともとは農家が花樹を栽培していた土地で、

なんとかいう写真家が「この世に桃源郷あり」とか言って紹介したことで有名になった。

有名になったのはいいが、これだけ観光客が多いと、住んでいる人は大変だろうなと、

余計な心配をしてしまう。休日は車を家の外に出すのも苦労しそうである。

いずれにしろ、連翹、木瓜、桜、日向水木、色とりどりの花が咲く美しい山里である。

で、肝心な吟行だが、

ま、吟行というのは大抵たいした歌は出来ないのである(^^;

行った先で見聞きしたものをしばらく温めて、それで初めて歌になってくるのであって、

風景を見ながらいきなり歌を作っても、

絵葉書的な歌になってしまったり、あるいは情景の説明になってしまったり、

そういうことが多い。

で、歌会。

案の定、吟行で作った歌には取り上げたいと思う歌がなかったので、

それとは別に各自事前に提出していた詠草から気になった歌。

例によって誌面発表前なのでここには出せないが、

若さを燻ぶらせながら春の街を歩いている啄木なら晩年の歳、

そんな歌意の歌。

一首、感じの良い歌である。

若い時のなにか説明のしようのない煩悶、そういうものを抱えた作者の姿が浮き上がる。

ただ、センサーが反応した。

歌会で詠草を読むとき、自分の中のセンサーが反応した歌を探す。

心に響いて反応する場合と、なにか引っ掛かって反応する場合がある。

この歌の場合は、引っ掛かって反応した方。

で、反応した原因を考えるわけである。

ここで力のある人間はすぐに批評を言語化できるのだろうが、

残念ながらそこまでの力がない。

歌会では、「春の街・・・この部分が気になる・・・地名に変える?」とか、

曖昧な批評しか出来なかった。

歌会が終わってからも気になる部分について考えた。

いい歌なのである。

青春の煩悶を抱き、生き方に悩みながら春の街を歩く作者、

同じように煩悶を抱きながら26歳の若さで死んだ石川啄木。

それを取り合わせることで一首は構成されている。

上手い。初句から結句までなめらかで見事に繋がっている。

しかし、どうも、そこが問題なのではないか?

どこかで外した方が歌に深みが出るのではないか?

「街」はいいとして、せめて、「春の」を外した方が良くないか?

ここで違う言葉を持ってきた方が歌は深くなるのではないか?

青春の悩み・・・春の街・・・石川啄木、

一首が頭から終わりまで同じ方向に流れるようで、

途中に、少し流れが屈折するようなところがあっても良さそうな気がする。

本当なら歌会の最中にそういう批評が出来ないといけないのだが、

自分の中のセンサーがなぜ反応したのかを考え、それを批評として言語化するのに

時間がかかる。選者クラスの人はそういうことがスラスラ出来るのだろう。

まだ自分の力が足りない。

それにしても今回の福島の歌会は良い歌が多かった。

若い人の出席もあり、それがベテランにもいい刺激になっている気がする。

一年に一回くらいしか出られないのだが、今後さらにいい歌会になって欲しい。

楽しい歌会を終え、一時間ほど歓談してそのあとはいつものとおり飯坂温泉に向かった。


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  花見山

花の下にて

  願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ

                          / 西行

 

 

今年は桜が咲いてから気温が低くなったので花が長く咲いている。

桜といえば西行の歌が有名だが、

昔は西行が嫌いだった。

子供を捨てて出家したというのがいけない。

出家のとき弟に娘のことを懇ろに頼んでいったというが、

捨てられた子供の身になってみろという話である。

出家してからも権門のまわりをうろうろしていたのもなにやら俗っぽい。

しかし、短歌をしばらくやって分かってきたのは、

歌詠みには割とそういう俗っぽい人間が多くて、

たぶん西行もそういう人間のひとりだったのだろうということである。

西行はどうやって暮らしをたてていたのだろう?

裕福な実家の支援という話もあり、

それがホントなら随分恵まれた出家さんではある。

しかし、歌は歌。

歌は作者とは別個に評価されるもので、いい歌はやはりいい。

西行が見ていたのは山桜だろう。彼の時代ソメイヨシノは存在しない。

咲き満ちて儚く散るソメイヨシノではなく、

花が咲くのと同時に明るい葉が出て、花の数もソメイヨシノより少ない山桜。

我々は桜というとついソメイヨシノを思い浮かべ、

そこに死のイメージを重ねるわけだが、

西行が見ていたのは山桜である。

西行は桜に死の向こうにある再生を見ていたのではなかろうか?

そんな気がする。


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  さくらと桜 うまくこっちを向いてくれない

ジンギスカン

アーチェリーの射場でジンギスカン。

北海道に行ったとき、帰りの空港から射場にラムを送った。

いろいろ売っていたので店のおばちゃんに、どれが美味いのかと聞いたら、

「震災から復興して生産を再開しました。これが美味しいですよ」

そうすすめられて買ったのが、

昨年、北海道であった地震の震源地に近かった厚真町のあづま成吉思汗のラム肉。

厚真町では震度6で、かなりの人が死んだ。

あづま成吉思汗もしばらく生産を中止したらしいが、その後生産を再開した。

売場のおばちゃんに勧められて、少しでも復興の手助けになればと、

美味しいかどうかは無視してそれにした。

コースを一回りしながら、ついでにジンギスカンに使うタケノコを探す。

というか、あまりジンギスカンにタケノコは使わない気はするが、その辺は気にしない。

採れたてのタケノコは美味しいのである。なにに使っても美味しい。

小さいのがふたつほどあったので矢を刺して、コースを回ってから掘った。

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  一本目のタケノコ ちょっと小さい

ジンギスカンとバーベキューって、たぶん作り方違うのだが、

その辺の区分け、作っていると面倒くさいので無視する(^^;

以前、北海道で食べたときは、

ジンギスカンは肉を焼かないで野菜の上で蒸すのだと教えられたのだが、

その辺もいろいろな食べ方あるみたいで、よく分からん。

とりあえず、ラムを焼いてそのあと炒めた野菜と一緒にする。

焼きと蒸すの折衷みたいな食べ方。

昔は羊の肉って臭いイメージがあったらしいが、

今はそんな臭い感じもせず、美味しく食べられる。

アーチェリーを楽しみ、うまいラム肉を食べ、桜を眺め、のんびりする。

春爛漫というやつである。


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  春キャベツ もやし タマネギ タケノコ と一緒にして出来上がり。旨かった(^^

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  射場のしだれ桜はもう散り始めている

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