今月の短歌の結社誌を捲ってたら、自分のこの歌が載っていた。
犬にあらざれど吠えたくなるときがある仁義礼智忠信孝梯
この歌、歌会に出したときはケチョンケチョンだったのである(^^;
「意味わかりません、仁義礼智忠信孝梯ってなに?」
「言葉ならべているだけですよね」
「里見八犬伝ですよね。自分は知ってるんだって自慢ですか?」
結構、がっかりさせてくれる批評ばかりだった(^^;;
昔、NHKで夕方、辻村ジュサブローの人形を使った人形劇をやっていて、
南総里見八犬伝もやっていたのだが、
ま、その人形劇は知らなくてもいいのだが、
南総里見八犬伝を知らない人がいることに驚いた。
江戸時代後期の滝沢馬琴の作品。
短歌やっている人は日本の文芸はそれなりに知っているかなと思ったら、
結構そうでもなくて、知らない人って割と多いみたいである。
知らないのはしょうがないのである。
短歌に詠われている題材すべてを知っている人間なんてこの世にはいないのであって、
知らないことはどうでもいいのだが、
知らないなら知らないで、その歌がどう鑑賞できるのか? それを批評するのが歌会である。
しかし、実際の歌会では、知らないとそれ以上批評ができなくなるという人が多い。
それではダメなのだ。
あなたには何から話さうタカサブラウ月が出るにはまだ少しある
/ 河野裕子
私はこの歌を読んだとき「タカサブロウ」という植物を知らなかった。
というか、植物であるという事すら知らなかったが、
作者の心情がしのばれる初句二句、四句結句の叙景、
それをつなぐ「タカサブラウ」という意味は分からないが不思議な響きの三句。
なにかしら一首から伝わってくるものがあるわけで、
それについて批評するのが歌会である。
少なくともその努力をするべきだ。
その努力をして恥をかいてもいいのである。
しかし、実際の歌会では知らない分からないで批評が終わってしまう人が多い。
だから歌会でそういう批評に皆が納得しているのを聞くと、
こういう歌会、出てもしょうがないな…と思ったりするわけである(^^;;;