2019年03月

北海道2

層雲峡から道央自動車道に入り小樽へ。

天気が悪いのだが走っているうちに右に雪山が見えてくる。

カーナビの画面を広くしてみると暑寒別岳らしい。

北海道の山は利尻と羅臼、クワンナイのあたりしか登っていないのだが、

面白そうな山が沢山ある。

ただ、いずれもアクセスが大変そうである。

札幌を通り越して小樽に着く。

小樽運河の近くに車を停めてまず昼飯、小樽ではやはり寿司。

ほんとは小樽ビールも飲みたいのだが運転しないといけないのでノンアルで我慢する。

ネタがいいので小樽の寿司は美味い。

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   小樽の運河
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  昼飯
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  小樽の街並み

小樽でやたら目に付く北一硝子で土産を買い、運河のあたりを少し歩いて余市へ。

ニッカウヰスキーの余市蒸留所がある。

朝ドラのマッサンこと竹鶴政孝が、ウイスキー作りを学んだスコットランドに似た土地

を探して余市に目を付け、ここに蒸留所を作った。

この付近にはウイスキー作りに使うピート(泥炭)も沢山あったらしい。

展示のなかにピートがあって触ることが出来たので持ち上げてみたが随分軽かった。

泥炭という字面からは重そうなイメージがあるが乾燥したピートは軽いのだろう。

政孝の妻リタの写真もあった。美しい人である。

結婚して夫以外に知る人のいない遥か東洋の国に来た。

子供には恵まれず養子を迎えた。

やがて母国と夫の国は戦争をし、夫の国は惨めに敗れた。

ついにスコットランドに帰らず余市で死んだ。

どういう人生だったのだろう。

蒸留所の敷地内には政孝とリタが住んだ家が移築されている。

大きな家ではない。むしろ小さな清楚な感じのする平屋の家である。

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  ニッカウヰスキー余市蒸留所
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  乾燥したピート 持ってみると軽い
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  政孝とリタが住んだ家
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  ウイスキーの試飲が出来る

雪の峠を越えて定山渓。

温泉でのんびりして翌日、新千歳から帰った。

新千歳に行く前、羊蹄山の方にも行ってみたのだが、

雲の下に羊蹄山の下の方が僅かに見えるだけだった。

定山渓と羊蹄山の間の中山峠はタイミングが合えば雲海が見えて綺麗らしいのだが、

ガスに包まれてなにも見えなかった。

北海道は札幌での歌会に出て以来だから2年ぶりだろうか。

今回は宗谷岬から猿払原野、オホーツクの沿岸を訪ねるつもりで来たのだが、

天気が悪く猿払原野には行けず、飛行機が遅れたので時間も厳しくなり、

結局、ただひたすらドライブしているような旅だったのだが、

北海道の広やかな雰囲気はやはりいい。

この次は子供達が小さい頃よく連れて行った道東のあたりを再び訪ねてみたいと思う。

北海道

確定申告が終わったらブレイクを入れる。

めいっぱい仕事をしたら遊ぶ。

仕事で鬱にならないコツである(^^;

ということで北海道に行ってきた。

羽田から稚内、そこから宗谷岬、その後、オホーツク海沿いに走ろうと思ったのだが

天気が悪い。

稚内の市街から宗谷岬まで20K以上離れていて、

天気が良ければどうということないのだが、

冬、市街を出てホワイトアウトしているとちょっと怖い感じがするかもしれない。

視界の悪いなか走っていくと宗谷岬に行くらしいバスに追いつき、

そのままその後ろを走って宗谷岬着。

最果ての岬、学生時代に来たことがある。

当時、国鉄の20日間の周遊券があって北海道を一人で回った。

それ以来の宗谷岬だが、風が強くて思い出に浸っている暇などなく、

一軒だけ開いていた土産屋に逃げ込んで、昼飯を食べられるところがあるかと

聞いてみたが、この時間ではないとのこと。

14時くらいだったが昼しか店は開いていないらしい。

学生時代に来たときも道路沿いに僅かに店があるだけで、当時と変わっていなかった。

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  宗谷岬 立っているのは間宮林蔵

ここからオホーツク海沿いに南に走る予定だが、

宗谷岬を離れると道路のところどころに雪が積もっていて、ちょっとひやりとする。

しかし、向こうからたまに車が走ってくるので多分走れるのだろう。

この道は真冬は厳しいらしく通行止めになったりするらしい。

出掛ける前にアーチェリーの射場の常連仲間と話していて、

3月の道北ってなにか見るものあるの? と聞かれ、

「雪の荒野があるだけだよ。アメリカでも荒野を走ったけど、荒野が好きなんだ」

と答えたら、

「病んでないか?」と言われた(^^;;

別に病んではいない。

荒野は美しい。

ただ、それだけである。

そういえば、「青年よ荒野を目指せ」という言葉があった。

もとは五木寛之の小説『青年は荒野を目指す』だが、

いずれにしろ、今は死語に近いのだろう。

自分の若い頃でさえ、そういう言葉を口にする人は少なかった。

しかし、ある程度人生やってきて思うのは、

若い時から世の中を分かったように言っている向きは、

社会に出てたいしたことないのが多い。

青年よ、やはり荒野を目指せ。

オホーツク海沿いに走るのだが、海が荒い。

白波が寄せているというのではなく、海そのものがうねっている。

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  海の浅いところは凍っていた

途中、猿払原野に立ち寄ろうと思っていたのだが、

天気が悪く道も除雪していないかもしれないので素通りした。

学生時代に行ったことがあるが日本で唯一、地平線が見えるという原野である。

天候で飛行機が遅れたので出発も遅れた。レンタカーの会社で、

5時あたりからさらに天気が悪くなるらしいので、宗谷岬からオホーツク沿いを

走るならその前に通過した方がいいです」と言っていたのだが、南に行くにつれて

道路の雪もなくなり海も穏やかになってきた。

紋別の手前で内陸に入り、層雲峡へ。

暗くなった道で飛び出してきた二頭のエゾシカの間をすり抜けるように通過。

奈良公園のシカと違ってエゾシカは大きい。

ぶつかったら車も無事ではないのでヒヤリとした。

層雲峡温泉は硫化水素の匂いがしていい温泉である。

翌日、相変わらず天気が悪いなか、小樽へ向かう。

長くなったので続きはあとで。

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   翌朝、車は雪に埋まってる。

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  層雲峡 銀河の滝

165,197K

13年使ったパジェロミニを下取りに出した。

相続などで土地を確認しに行ったりすることもあるので、

小回りの利く車が一台はあった方がなにかと都合がよくて愛用してきた。

13年で走行距離は165,197K。

ちなみにマニュアル車。

どうもマニュアルでないと車を運転している気がしないのである。

近頃マニュアル車はかなり少なくなってしまった。

それにしても13年よく走ってくれた。

物持ちはいい方で、登山用のザックなども古いザックをずっと使っているし、

ゴールデンレトリーバーのさくらに足首のあたりを齧り取られたスニーカーを履いて

アーチェリーの射場に行ったりする。

さすがに人と会ったりするときはそれなりの恰好をしていくわけだが、

射場の常連仲間なら気にすることもなく平気でそういう靴を履いてゆく。

「靴ぐらい買いなよ」と常連仲間に言われるのだが、

アフリカで貧困の現場を見たりすると、

そういう靴を履いているのも全然気にならなくなる。

というか、物にこだわらなくなる。

物持ちのいい持ち主に使われて13年。

しかし、最近はオイルが3か月たつとなくなってしまったり、

他のところもいろいろ故障が出てきた。

さすがに替え時である。

当分はもう一台の車だけで仕事することになる。

ただ、必ずしも小回りが利かないので新しい車を早く納車して欲しいのだが、

契約したとき1年待ちと言われ、まだあと数ヶ月はかかるらしい。

早くしてくれと今日もディーラーをせっついた。

13年走ってくれたパジェロミニは最後に洗車して綺麗にしてやって引き渡した。

走ってくれてありがとう。御苦労さん。

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射会

アーチェリーの射会。

通っている射場で月に一回開催している。

フィールドアーチェリーの試合はコースを二回回り、

12個の的に三本づつ打ち、その点数で競う。

競技者ごとにハンデをつけてやるのでベテランでも初心者でも一緒に競技できる。

弓をつかったゴルフと言われるゆえんである。

確定申告の真っ最中ひさしぶりの出席。

人間、ぴんと張ったゴムではあるまいし張ったまんまでは続かないのである。

どこかでぴんと張ったものを緩めないとだめなのだ。

いい仕事をするためにはいい遊びをする。

いい遊びが出来ない人間にいい仕事は出来ない。

信念である。

だから遊ぶ(^^;

ファーストはちょっと力が入っていまいち、お昼からのセカンドで持ち直して5位入賞。

と言ってもハンデに助けられての入賞ではある(^^;;

そろそろ射場では筍が出る。

そういえば射場に置いた椎茸の榾木からは春椎茸が沢山出ていた。

さて、確定申告あと一週間。

射場でリフレッシュして月曜からラストスパートである。

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選歌欄評

短歌結社から手紙が来た。

嫌な予感がして開けたら案の定、今年後半の選歌欄評のひとつを書けと。

会員が増えて1100人以上とか以前聞いたが、今は何人くらいいるんだろう。

その会員が毎月歌を出すわけで、結社誌も以前と比べだいぶ厚くなった。

何人かの選者がそれぞれの選歌欄を担当し、会員が出した歌を選び誌面に出る。

で、その選歌欄を読んで歌の批評を書く。

それが選歌欄評。

以前やったことがある。

担当になった選歌欄を何度も繰り返し読む。

何度も読んで自分のセンサーに引っ掛かった歌を引っ張り出す。

それを絞り込み、なぜセンサーに引っ掛かったのかを考える。

で、批評を書く。

選歌欄評を書くのは苦しい。

本気で批評しようと思うと結構考えないといけないし時間もかかる。

またそれをやるのか

1100人以上いるのなら新しい若い人にまかせればいいのである。

選歌欄評をまた引き受けるのが嫌だから言うのではない。

苦しんで批評欄を書くのは作歌の力につながる。

これからという若い人達にそういう経験をさせるのがいい。

一度やった者にもう一度やらせなくてもいい気はする。

どういう基準で担当者を選んでいるのか知らないが、

やはり若い人を育てるという視点は大切なはずで、

そういう人達にこういう役目は振った方がいい。

それなのになんで俺なんだ?

あいつは不遜だから原稿でも書かせて苦しめろとでも?(^^;

それはそれとして、原稿依頼にこんなことが書いてあった。

「とりあげる作品は15首程度を目安としてください」

以前やったとき、取り上げた歌が少なかったのである。

6首くらいしか取り上げなかったかな。

誌面2Pの文量で取り上げた歌をじっくり批評しようとしたら

それくらいしか取り上げられなかった。

で、その選歌欄評の担当が終わった後しばらくして

誌面にこんなことが書かれていたのを覚えている。

「選歌欄評はできるだけ多くの歌を取り上げて頂き・・・」

これって、ひょっとしたら俺が選歌欄評で取り上げた歌が少なかったからか?

だったらやはり俺にもう一回選歌欄評やらせるなという話だよね…(^^;;

相変わらず少ない歌しか取り上げなくても俺は知らんぞ。

そういう人間に原稿頼む方が悪いのである(^^;;;


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  レストの調子が悪いと話していたら、フィールドアーチェリーの世界選手権に
 出たことのある人から以前使っていたレストを頂いて早速取り付け。
 彼女曰く「私が死んだあとも使ってもらえれば...」
 ......。
 それってなんか重いよね(^^;
  このレストはもう交換できないということだよね(^^;;

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