湘南での歌会、気になった歌。
例によって誌面発表前なので、ここには出せないが、
雪ではない小窓に見える白いものが降りつつサルスベリの花だと気づいた。
そんな歌意の歌。
読んで引っ掛かったのは、「降りつつ・・・気づいた」という表現。
主語が変わるのである。
(白いもの)が降りつつ・・・(私)が気づいた、そういう構造。
例えば、花を見つつ気づいた、という表現だと、
(私)が花を見つつ(私)が気づいた、で主語が変わらないので違和感なく読める。
で、そういう批評をしたところ、
「確かに主語が変わるけど、それで否定してしまっていいのだろうか・・・?
そういう歌もあったような気がする」
という意見があった。
不勉強な歌詠みなので、どういう歌があるか考えてみたが、パッとは浮かんでこなかった。
古い歌ではこういう歌がある。
田子の浦にうちいでて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
/ 山部赤人
(私)が見れば・・・(雪)は降りつつ、である。
この歌の場合、主語が変わっているのであるが、
上句は作者の行為、それを受けて下句はその作者が見ているもの、という構造で、
「降りつつ」が結句にあり、「つつ」という継続の接続助詞が
「雪は降りつづけているなあ」という詠嘆を感じさせている。
こういう使い方ならば受け入れられるのだろう。
一方、歌会の詠草の場合は、
「降りつつ」がそのまま次の句につながるので、
「~~をしながら~~をする」というふうにどうしても読めてしまうのである。
この場合は主語が変わると違和感が生じる。
つまり使い方によって、変わるのであろう。
あるいは他にも「つつ」を使って主語が変わっても違和感を感じさせない歌が
あるのかもしれない。
いろいろな歌を知っていれば、歌会ですぐに例歌を出せるのだが、
いかんせん、時間に追われているというのか、
単に不真面目な歌詠みというのか、
古今東西の例歌がパッとは出てこないのである。
だから、歌会で例歌をさらさらと諳んじる人を見ると、
こいつバケモノか? あるいは暇人か? とつくづく思ってしまう(^^;
もし、このブログを読んでいる人で、
「つつ」を使いつつ主語が変わっても違和感を感じさせない例歌を御存じの人がいたら、
教えて頂きたい。