短歌結社の全国大会の鼎談、社会詠がひとつのテーマでもあって、
配られた資料を眺めていたのだが、
幾つか引用されている歌の中でこの歌に目が止まった。
遺伝子配列三十億対を読み終へてうつくしき水晶の夜がくる
/ 小池光
鼎談の話は話として耳で聞きながら、
別に新しい歌ではないのだが、この歌を読んで、やはり小池光はうまいなと思ったのである。
社会詠の難しさは、自分の言いたいことを言ってしまうことである。
今の社会の有り様や時代の流れに危機感を覚えるのは分かるが、
それゆえに、どうしても表現に出てしまう。
そういう社会詠が多い。
なかには、そういう危機感をそのまま表現するのが社会詠だと思っている向きも
あるのかもしれないが、というか、そう思うしかない歌も散見するのだが、
それはやはり違うだろう。
短歌として昇華されなければ、社会詠もやはり歌として評価されないはずである。
ただ危機感を伝えたいのなら短歌である必要はなく散文でいいし、
政治批判とかをしたいのなら、31文字ひねってないで、しかるべく活動すればいい。
短歌はあくまでも短歌、社会詠でもそれは変わらない。
で、この歌、
遺伝子配列を読み終える、それはあるいは神の領域に近づくことかもしれず、
そこには福音とともに恐ろしさも潜んでいるわけである。
この歌の下句の表現からはクリスタルナハトが浮かぶわけで、
人類の文明が人のすべての遺伝情報を読み終えるまでに達したとき、
その先にあるのが必ずしも幸だけではないかもしれないということを、
かく美しく詠うことが出来る、
それが短歌なのである。
ちなみにこの歌、厳密に読めば突っ込みどころはあるわけである。
「水晶の夜」は1938年に起きたナチスによるユダヤ人迫害の暴動だが、
遺伝子配列、それから負の想起として出てくる障害者の迫害、殺害を表現するなら
「夜と霧」が正確ではある。
また、「水晶の夜」にしても「夜と霧」にしても、つきすぎという批評もあるだろう。
しかし、それはそれとして、
「うつくしき」を持ってきたところが、小池光である。
恐ろしい「水晶の夜」。
それを「うつくしき」と表現することに抵抗を感じる人はいるだろう、
しかし、そういう表現で、
一首の美しさの向こうに横たわる恐ろしさを読者に味合わせることが出来れば、
この歌は社会詠として成功しているわけである。