2018年06月

標準報酬月額

顧問先の源泉事務で給与の明細を見ていて首を傾げた。

今年転職してきた社員、なにやら随分、社会保険料が少ない。

念のため会社に送られてきた社会保険の標準報酬月額決定通知書を見せてもらったら、

健康保険58千円、厚生年金88千円と書いてある。

えっ!?...

あり得ない金額。

会社の方はちゃんと手続きをしている。

すると考えられるのは日本年金機構のデータ入力ミス。

例えば、標準報酬月額の基準になる給与の金額400,000を桁一つ間違って40,000

入力すると今回の決定通知書の金額になる。

こういうミスをするんだ、日本年金機構は

旧社会保険庁の時代から問題の多かった役所である。

消えた膨大な年金記録も、なぜか一部の報道はそのことにあまり触れなかったが、

社会保険庁職員の労働組合が、仕事が増えるのが嫌だと業務のオンライン化に反対した

ことが大きな原因だった。

その他にも年金の支給漏れとかいろいろ

批判を受け解体されて日本年金機構という特殊法人になったあとも、

何度も大きな個人情報流出事件などの問題を起こしている。

仕事が出来ないのか仕事に対する責任感がないのか、

いずれにせよ、旧社会保険庁の時代から国民に多大な迷惑をかけ続けている。

で、こういう間抜けなデータ入力ミスもしているのか

懲りない奴らではある。

ちなみに国はいま、社会保険未加入の法人について強制加入を推し進めている。

以前から法律上、法人は社会保険は強制加入なのだが、

現実には、社会保険料を負担できない中小零細企業がいるわけで、

今まで、そういうところまで追跡して加入させようとはしていなかった。

社会保険料を支払えない会社が増えると国も困るので無理強いはしなかったわけだが、

ここ数年、国の方針が変わり、かなり強引に日本年金機構は社会保険未加入法人の

強制加入をすすめている。国の方針がそうである以上、現場の日本年金機構もそうせざるを

えないのだろうが、彼等が今やっていることはいずれ新しい問題を引き起こす。

加入はしたものの社会保険料を支払えないという中小零細企業が沢山出てくるだろう。

膨大な社会保険料滞納事業者の出現。

それは年金制度に暗い影を落とすはずだ。

そのとき日本年金機構はどういう対応をするんだろうか?

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     アガパンサス  以前、自分の歌集に載せた歌

    新橋の飲み屋の路地に咲き群れてアガパンサスは梅雨告げる花

四国 剣山

ここ数年、下田に住む友人と年に一度、伊豆の山を歩いていた。

天城山や八丁池、伊豆山稜線歩道など歩いたのだが、

冬の伊豆山稜線歩道から雪をかぶり富士山のように白くなった大島の三原山を見て、

伊豆諸島の方に足を伸ばすようになり、

大島の三原山、神津島の天上山、果ては伊豆諸島最南の孤島青ヶ島を訪ねたりした。

目ぼしいところは一通り行った感があり、

今年は少し趣向を変えて四国の剣山に行ってきた。

なんで四国か特に理由はない(^^

羽田に仲間3人集合し高知へ。

一時間程のフライトで高知着、レンタカーを借りて桂浜。

桂浜に行く途中、高知新港に豪華客船が泊まっているのが見えた。

最近、高知は豪華客船で来た外国人観光客が結構お金を落としていくらしい。

なんでも珊瑚の細工物が人気だとか。

中国人の観光客が多いらしいのだが、小笠原あたりで珊瑚の密漁などせず、

ちゃんと金を払って買っていってくれれば文句はないのである。

桂浜は坂本龍馬の銅像で有名。

てっきり砂浜に立っているのだと思っていたが、

砂浜の横のちょっと高いところの松林の中に立っている。イメージと違って意外だった。

龍馬さん、海が見えるんだろうか?

豪華客船に乗ってきたのだろう、ここにも中国からの観光客が沢山来ていた。

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   桂浜の龍馬像
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  桂浜

この日はそのまま高知の温泉で泊り。

翌日、剣山へ。

カーナビの指示通りにしていたら、

高速を途中で降り車一台しか通れない山道を延々と走らされた。

京柱峠という、昔、弘法大師が越えたという四国の脊梁山脈を越える山道。

カーナビは最短距離を選んだらしいのだが、

ガードレールもない車一台しか通れない細い山道である。

弘法大師がここを越えたのかと往時を偲びたい向き以外にはお薦めしない。

高知から2時間40分くらいで剣山の登山口着。

台風が近づいているのでちょっと無理かなと思っていたのだが、

ガスってはいるが雨は降っていない。

天気が天気なので最短距離で登ろうということで登山リフトを使う。

リフトが動いていないので営業していないのかと思ったら、

客が来たら動かすということ。

で、動かしてもらって上に登る。リフト終点からは標高差で200mぐらい登れば頂上で、

ラクチンといえばラクチンな登山である。

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 リフト終点から天気が良くないので最短ルートで登る

台風が近づいている割りには風もたいして吹かず、

すたすた登ると頂上の下の神社と小屋が出てくる。

神社で手を合わせてから神社と小屋の間の道を頂上へ。

そこから上は広々とした台地状の地形になり、木道が続いていて、

しばらく行くと剣山1955mの頂上に出る。

62座目の百名山はガスのなかで視界ゼロ。

たぶん、台風の影響で昼以降雨が降ると思うので、写真だけ撮ってすぐに下る。

リフトで登山口まで降りたところで案の定、雨が降り出した。

登っている最中に降らなかったので運が良かった。

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  剣山山頂 なんにも見えず

昼食を摂り、今日の泊りの大歩危の温泉へ。

途中、奥祖谷のかずら橋に立ち寄る。

平家の落人が、敵が来たときにすぐに橋を落とせるように葛で編んだ橋を谷に架けた

という。渡ってみるが、足元が雨で濡れて滑りやすく、その足元の下には谷の流れが

見えて、それも割と高いのでちょっと恐い。

覆いかぶさるような谷の緑が綺麗である。

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  奥祖谷のかずら橋
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  渡っているとき下の流れが見えてちょっとこわい

翌日は大歩危から高知に戻り、時間があったので、高知城などを見て帰った。

ちなみに市内で昼飯に食べた鰹のたたき丼が美味しかった。

あんまり美味しいので土産に冷凍の鰹を家に送ったのだが、

家族からも美味しいと好評で、これを食べてしまったら、

こちらのスーパーで売っている鰹の刺身はしばらく買う気にならないと話していた。

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  高知城
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  鰹のたたき丼

 

 

先週だったか、テレビを見ていたら映画をやっていた。

22年目の告白 私が殺人犯です」という映画。

連続殺人事件が時効を迎え、私が殺人犯ですと名乗り出る男が現れる。

彼を演じているのが藤原竜也。

センセーショナルな告白本を出して報道に取り上げられるのだが、

実は彼は真犯人ではなく、連続殺人事件の犯人に婚約者を殺された青年。

整形して別人になり真犯人を誘き出し復讐するためにそういう芝居をするわけだが、

映画の後半で、彼を番組で取り上げた人気ニュースキャスターが真犯人だと分かる。

それを演じているのは仲村トオル。

藤原竜也演じる自称殺人犯が復讐するために真犯人の別荘に行き彼を襲うわけだが、

仲村トオル演じる真犯人が腹を刺されながら言うのである。

「心に暗闇を抱いているヤツは頑張れるんだ! おまえは俺の作り出した傑作だ! 

なんとなく眺めていただけなのでセリフははっきり覚えてはいないのだが、

そんなセリフだった気がする。

心に暗闇を抱いている人間は頑張ることができる。

その通りである。

もちろん、実際は暗闇に押しつぶされる人間の方が多いだろう。

しかし、そうではなく、心に暗闇を抱くがゆえに頑張る人間がいるわけである。

頑張らなければ自分を保てない。

だから、頑張る。

悲しみ、怒り、憎しみ、それは生きる力に変ることがある。

そうしなければ自分を保てないのである。

狂気の淵を覗くまで苦しみの底をさまよった人間なら分かるはずである。

人を憎まば殺める心、そこまで人を憎んだことのある人間なら分かるはずである。

良い方向に頑張るかダース・ベイダーのような方向に頑張るかという問題はあるが、

闇を抱えた人間は頑張ることができる。

この映画の脚本を書いたヤツはそういう苦しみを知っているのかもしれないと思った。

ドラマとか映画とかあまり見ない方なのだが、

ひさしぶりに納得のいくセリフを聞いた気がして印象に残った。

なんでこんなことを書くかというと、

歌会に出ていて物足りない思いをすることが結構あるわけである。

綺麗にまとまった歌、善意に満ちた批評

ふと思うことがある。

「この人達の心には闇はないのか?

心のなかの闇を知っている人間は、

こんな綺麗なだけの歌を詠うだろうか?

こんな善意に満ちた批評をするだろうか?

清く正しい人達のなかにひとりポツンと座っているような違和感。

そんなことを感じることがある。

先日の横浜の歌会でもそうだった。

こんな歌意の詠草があった。

年を取った義理の父が早く死ぬように祈っているという女の笑顔が醜い。

この歌の批評で、

「この女の人は介護で苦しんでいる人なんでしょう。そういう背景があると思います」

そんなコメントがあった。

私は、「この一首の表現だけでそこまで読めますか? そういうことを伝えるには表現が

足らないのでは?」と問うた。

老いた義理の父という血のつながっていない存在。

そこには微妙な距離感があるはずで、早く死んで欲しいと思う人は実際いるだろう。

そして、笑顔でそういう話をする女が醜いと作者は詠う。

実際ありそうな話で、これではそのまんまである。

あるいは本当は複雑な思いがあるのかもしれない。

笑顔でそういう話をする女を醜いと思いながら同時にこの女は自分と同類だと密かに思う。

そういう矛盾した心の反応を現実の人間は持つことがあるわけで、この歌の表現だけでは、

作者の側に複雑な思いがあるのか、その女性が介護で苦しんでいるのか、

そのいずれだとしても、本当の人間の姿が浮かび上がってこない気がした。

この歌の表現のままでは、そういう女は醜く見えます、という優等生の回答のような歌だ。

しかし、歌会の批評は善意に満ちていた。

倫理的にちょっと外れたような内容があると、

それには理由があるのだと好意的に考えてあげる。

心の闇を知っている人間は、そう単純に納得できない気がする。

歌に寄り添うということは、

優等生が良い答えを出すように性善説で歌を解釈してやるということではあるまい。

現実の世界も現実の人間もそう単純ではなく、不条理に満ちているのである。

結局、「そういう思いも人それぞれ」という方向に批評は流れた。

一首の表現はそう思わせるようなものではないと思ったが私は黙った。

納得して黙ったのではない。

いい人達の批評を聞いてもしょうがない、

そう思ったから黙ったのである。

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  税理士会支部の総会のあとの懇親会でのビンゴゲーム7等
 子供のときからくじ運はない

歌会

ひさしぶりの横浜歌会、珍しく先週の湘南と二週続けての歌会である。

で、気になった歌。

例によって誌面発表前なのでここには出せないが、

悪女にはならないで一生を終えるのだろう悪女の素質を隠したままで、

そんな歌意の歌。

文法上の問題もあって、いろいろ批評は出ていたのだが、

それはさておき、私が気になったのは、

ひとつには、歌の構造が下句が上句を補足する形になっていること。

〇〇だろう、〇〇を隠したままで、

上句の感慨だけを出せばいいわけで、わざわざその補足を下句でしなくてもいいと

思うわけである。そういう補足の下句だから歌が深まらない。

ふたつ目は、その余計な下句の補足が、

悪女なら言わないだろうことを言ってしまっていること。

自分を悪女みたいに言うのは、悪女ぶってみたい向きのすることであって、

本当の悪女は、「悪女の素質を隠したままで」などと言わない。

それを下句で言ってしまっているから、

この作者は悪女ぶってみたいだけだという印象になり、

ただの悪女コスプレの短歌になってしまっている。

「悪女にはならないで一生を終えるのだろう」という上句の感慨を生かすのなら、

下句はむしろさりげない所作の表現とか叙事とか、

そういうものの方が良さそうな気がする。

欲を言えば、読んでしばらくしてから、

「あの歌の作者、本当に悪女なのかも...」と思わせるようなものが欲しいわけだが、

それはなかなか難しいかな...

当日は選者の真中さんも来ていて活発な歌会だった。

歌会の終わったあとは、いつものように飲んで歓談。

これだから歌会は楽しい。

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      照準器が壊れたので新しいのを買って取り付けたら、
  弓に合わなくて照準が見えないという、ちょっと間抜けなコンパウンド
  照準器高かったのにね...(^^;


夫婦茶碗

NHKのニュースを見ていたら、
面白いことを言っていた。
夫婦茶碗は夫の茶碗と妻の茶碗の大きさが違うものだが、
最近、それが男女差別だということで、同じ大きさの夫婦茶碗が増えているそうな。
エッ!? と思った。
夫婦茶碗の大きさが違うのは、昔の職人が男と女の体の大きさや食べる量に合わせて
作ったからで、男女差別でもなんでもない。
湯呑も同じである。夫婦の湯呑で大きさが違うのは、
夫と妻の手の大きさに合わせてそれぞれ使いやすい大きさに作った結果である。
そこに男女差別とかジェンダーとかが入る余地はないのだが、
今はそれが男女差別と決めつけられてしまうのか?
日本の職人はそういう使いやすさを考えて作ったわけで、
そういう細やかさが、その後の日本の産業にも受け継がれているわけである。
それを男女差別と一刀両断にするのかい?(^^;
番組では食器を扱う店の人の話も出ていたが、
消費者が男女同じ大きさのものを求めるのは消費者の自由であり、
供給側がそういう需要の側の嗜好にこたえるのも当然である。
しかし、国民から受信料を取っている公共放送のNHKともあろうものが、
夫婦茶碗の大きさが違うのは男女差別なので最近は同じ大きさのものが求められていると、
あっけらからんと言うのには呆れた。
日本の職人を馬鹿にしているのか?
少なくとも、夫婦茶碗がなぜ大きさが違うのか、
しかし、最近は男女で同じ大きさにしたいという人が増えていて・・・、
それなら分かる。
日本のジャーナリズムのレベルが疑われるようになって久しいのである。
知性を疑われるようなコメントは流すべきではあるまい。

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   しばらく前の写真 紫の花がなんの花か分からない

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