湘南での歌会、少し遅れて行ってみると池本一郎さんがいた。
なんでも年に一回、東京で歌人団体の集まりがあるそうで、
昨年まではそれが第三日曜だったので、
その集まりに出るついでに東京の歌会に出ていたらしいのだが、
今年からそれが第四日曜に変り、それで湘南に来たとのこと。
予想外の人がいてちょっと驚いたのだが、とりあえず着席して詠草を読む。
で、例によって気になった歌。
モノクロの「マルクス・エンゲルス」を観た古書店街に春のたそがれ・・・
というような歌意の歌。
「観た」で結構意見が分かれた。
「観た」である以上、本ではなく映画か、あるいは写真集? かと思うわけで、
実際これは現在、岩波ホールで上映している「マルクス・エンゲルス」という映画なのだが、
やはり、「観た」だけで映画だというのはどうなのかという意見もあった。
当日の歌会では池本さんが一首一首に丁寧な批評をしてくれて、
この歌についても映画であることを示す必要はないのか、「古書店街」は必要か、
二句三句の句またがりはどうか等々、指摘があった。
私はこの歌については指名されないまま黙って聞いていたのだが、
ひとつ非常に気になるところがあった。
「マルクス・エンゲルス」という映画がどういう映画かは知らないが、
いずれにしろ、マルクス経済学を打ち立てたふたりである。
マルクス経済学を学んだ人間であれば、その存在の大きさは理解しているはずだし、
同時に、それがもはや時代遅れの学問であることも承知しているだろう。
実際、今、日本の大学でマルクス経済学を教えているところなんてあるんだろうか?
40年前ですら、ケインズ流の近代経済学が既に主流だった。
そして、マルクス経済学から生まれたコミュニズムの行く末を思うとき、
かつて美しいと思ったもの、正しいと思ったものが、
決してそうではなかったのだと知った人間の悲哀も覚えるわけである。
その時代遅れのマルクスとエンゲルス、そしてモノクロ、古書店街、春のたそがれ。
すべての言葉が懐古調を帯びているようで、歌が平板になっている。
それがこの歌の一番の問題点であるように思えたのだが、
その点については歌会で指摘は出なかった。
どうなんだろう?
この歌についてはそれで批評は終わったのだが、
一首一首に池本さんの示唆に富んだ批評が聞けて充実した歌会だった。
歌会が終わったあとは駅の近くの蕎麦屋で飲みながらわいわいやって帰った。
ちなみに帰ってから調べてみると、
「マルクス・エンゲルス」はカラー作品である。
すると、「モノクロ」はなんだろう?
あるいは作者は神田の岩波ホールで「マルクス・エンゲルス」を上映していることは知って
いたが、映画は見ていない?
モノクロ映画と思い込んで想像で歌を作った?
もしくは、「モノクロ」に着目して読むのなら、
この「マルクス・エンゲルス」は映画ではなく、モノクロの写真集のようなもの?