2018年05月

歌会

湘南での歌会、少し遅れて行ってみると池本一郎さんがいた。

なんでも年に一回、東京で歌人団体の集まりがあるそうで、

昨年まではそれが第三日曜だったので、

その集まりに出るついでに東京の歌会に出ていたらしいのだが、

今年からそれが第四日曜に変り、それで湘南に来たとのこと。

予想外の人がいてちょっと驚いたのだが、とりあえず着席して詠草を読む。

で、例によって気になった歌。

モノクロの「マルクス・エンゲルス」を観た古書店街に春のたそがれ・・・

というような歌意の歌。

「観た」で結構意見が分かれた。

「観た」である以上、本ではなく映画か、あるいは写真集? かと思うわけで、

実際これは現在、岩波ホールで上映している「マルクス・エンゲルス」という映画なのだが、

やはり、「観た」だけで映画だというのはどうなのかという意見もあった。

当日の歌会では池本さんが一首一首に丁寧な批評をしてくれて、

この歌についても映画であることを示す必要はないのか、「古書店街」は必要か、

二句三句の句またがりはどうか等々、指摘があった。

私はこの歌については指名されないまま黙って聞いていたのだが、

ひとつ非常に気になるところがあった。

「マルクス・エンゲルス」という映画がどういう映画かは知らないが、

いずれにしろ、マルクス経済学を打ち立てたふたりである。

マルクス経済学を学んだ人間であれば、その存在の大きさは理解しているはずだし、

同時に、それがもはや時代遅れの学問であることも承知しているだろう。

実際、今、日本の大学でマルクス経済学を教えているところなんてあるんだろうか?

40年前ですら、ケインズ流の近代経済学が既に主流だった。

そして、マルクス経済学から生まれたコミュニズムの行く末を思うとき、

かつて美しいと思ったもの、正しいと思ったものが、

決してそうではなかったのだと知った人間の悲哀も覚えるわけである。

その時代遅れのマルクスとエンゲルス、そしてモノクロ、古書店街、春のたそがれ。

すべての言葉が懐古調を帯びているようで、歌が平板になっている。

それがこの歌の一番の問題点であるように思えたのだが、

その点については歌会で指摘は出なかった。

どうなんだろう?

この歌についてはそれで批評は終わったのだが、

一首一首に池本さんの示唆に富んだ批評が聞けて充実した歌会だった。

歌会が終わったあとは駅の近くの蕎麦屋で飲みながらわいわいやって帰った。
ちなみに帰ってから調べてみると、
「マルクス・エンゲルス」はカラー作品である。

すると、「モノクロ」はなんだろう?

あるいは作者は神田の岩波ホールで「マルクス・エンゲルス」を上映していることは知って

いたが、映画は見ていない?

モノクロ映画と思い込んで想像で歌を作った?

もしくは、「モノクロ」に着目して読むのなら、

この「マルクス・エンゲルス」は映画ではなく、モノクロの写真集のようなもの?

う~ん、謎多き「モノクロ」である(^^;

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  鎌倉 紫陽花 海

記念誌

週末、事務所に税理士会支部の60周年記念誌が届いていた。
昨年が支部創立60周年で、それに伴ういろいろな行事があり、
今年の2月に記念大会があった。
それらをまとめて記念誌を作ったのだが、
その責任者を引き受けさせられ、
正直、忙しいときにかなりきつかった(^^;
ぱらぱらと捲ってみると、
座談会のあたり、もう少し写真が欲しかったなとか、
記念大会の写真のピンボケがちょっと残念とか、
いろいろあるのだが、
部員さん達に協力してもらい完成した記念誌である。
とりあえず、完成してよかった、というかホッとした気分。
ちなみに、60周年の事業、予算オーバーしたそうで、
支部の役員はその穴埋めで寄付をしたわけだが、
記念誌部会は予算の範囲でまとめ、かつ広告を取って、その分黒字にした。
う~ん、記念誌部会は黒字にしたのに寄付ね....(^^;;
その辺がちょっと腑に落ちなかったのではあるが、
ま、ともかく終わって良かった良かった(^^
協力して頂いた部員の皆さん、ありがとうございます。

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ルビ

短歌の総合誌を読んでいたら、この歌が目に止まった。

 

  皐月闇のなかで振られてゆくルビの、交戦権(ころすじゆう)は、これを認めない(みとめる)

                           / 吉川宏志『鳥の見しもの』

 

「交戦権は、これを認めない」という憲法9条の条文に、

「殺す自由はこれを認める」というルビを振ることで、

作者は憲法改正への危機感を表現しているわけだが、

一読、このルビには違和感を抱いた。

作者の言いたいことは分かるし、抱いている危機感も理解できる。

しかし、そういうこととは別に、短歌の表現として、どうなのだろう?

そういう違和感である。

「交戦権」の定義について、ここで書こうとは思わないが、

おそらく「交戦権」は「殺す自由」ではない。

交戦権は戦争をする権利 = 殺す自由だ、というのは論理の飛躍である。

作者はそれを承知のうえで、危機感の表現として、このルビを振ったと思うが、

ルビで作者の意図が目立ってしまう印象は否めない。

こういう論理の飛躍は、しかし、最近の流行りではあるかもしれない。

安保法制の時も、反対する人達は安全保障関連法に「戦争法」という別の名前を付けた。

安全保障関連法に賛成する者は戦争をしたい人間、

そういうレッテルを張ったわけで、

印象操作的な遣り方だった。

「交戦権は、これを認めない」という憲法の条文に、

「殺す自由はこれを認める」とルビを振るのは、

憲法を改正したら大変なことになるという危機感を伝えたいのだろうが、

憲法改正をしようとする者は殺す自由を認める者だ、

そういう印象操作的な表現という感は否定できない。

安保法制のときに限らず、最近、内容を語るのではなくイメージを広げて支持を

取り付けようとする傾向が目につくようになった。

ネットの時代というのは、そういうものなのかもしれない。

実際、アメリカの大統領選挙もそうだが、

政策を考えて支持するのではなく、漠然とした期待やイメージで支持を決める。

そういう傾向が世界で広まっている。

誤解を恐れず言ってしまえば、

ネットの時代というのは、人類史上初めて馬鹿が発言力を持った時代である。

ネットで発言がしやすくなり、

危険な発言でも愚かな発言でもネットでその数が多ければ力を持つようになった。

そして、理性や知性に訴えるより、不安や不満を煽る方がやり易くなり、

ネットでイメージを拡散することで支持を広げやすくなった。

たぶん、これは21世紀の民主主義が内包する大きな危機である。

そういう危機を理解する者ならば、

印象操作的な遣り方なり表現には、怖いものを感じるわけである。

安保法制のとき、この国の健全なサイレント・マジョリティーは

反対派の言説に必ずしも同意しなかった。

彼等の手法に危ういものを感じたからであろう。

この歌を読んだとき、

短歌の世界にも、既にそういう印象操作的なものが入っているのか、

そういう失望に似た感情を抱いたのである。

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        紫蘭

インパール6

 インパールからデリーに戻りホテルに宿泊。

翌日の帰国便は夜なので、一日空くことになる。

ということで、デリーの街を歩いた。

泊まったホテルから地下鉄の駅に行き切符を買おうとするのだが、よく分からない。

まごついていたら、親切なインド人が何か困っているのかと話しかけてくれたので

聞いたら、手荷物検査を受けて中に入ってから切符を買うのだった。

日本の感覚だと切符を買ってから手荷物を受ける気がするのだが、

そもそもそれが違った。

地下鉄を乗り継いでラール・キラーにゆく。

チャンドニー・チョークで降りて人混みの通りに出る。

通りの両側に物乞いが座っていたり寝たりしていて、こちらに手を伸ばしてくる。

リキシャの運転手はすぐに寄ってきて、すぐには諦めないし、

日本人が思い浮かべるインドの一面である。

実際、私もこのとき、「ああ、インドに来ちゃったな...」と思った。

逆に言えば5日間歩いてきたマニプールやナガランドの方が、

日本人の思い浮かべるインド的なものとは違ったのかもしれない。

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  インドの地下鉄

通りを行くと向こうに赤い城壁が見えてくる。

ムガール帝国5代皇帝のシャー・ジャハーンはアーグラからデリーに都を移し、

新たな都城を築いた、これがラール・キラー。

日本でいえば徳川家光が鎖国したぐらいの時代である。

ちなみに、インドを支配して以降、イギリス人はレッド・フォート(赤い砦)と呼んだ。

ガイド本では入場料がかかるとなっていたが、無料になったのか、金を払わずそのまま入場。

ラーホーリ門を通り、両側に店が並ぶ所を通り抜けると向こうに広々とした宮殿が広がる。

庭園に水を流してエアコンの替わりにするとか、いろいろ工夫もあったようで、

見ていてなかなか面白い。

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  ラール・キラー
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  城門へ
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  内部は広い
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  インド人観光客がいっぱい

ひと通り見てそのあとはジャマー・マスジットへ。

インド最大のイスラム寺院であるらしい。

スラムというわけでもないんだろうが結構ごちゃごちゃしたところを通ってゆく。

やはりリキシャの運転手が一生懸命寄ってくる。

人によっては怖いと思うのだろうが、毅然としていればどうということはない。

寺院の前は店が並びかなり賑わっている。人混みの間を抜けるようにしてなかに入る。

ここも広々して美しい造りである。

さらになかに入るのには靴を脱いで入らないといけないのだが、

ここで靴を脱いだら、ささと進み出てきた若者がその靴を取って、ここに置いてください、

案内しますという感じでそのまま歩き始めた。

ああ、よくある自主的ガイドだなと思ったが、もう靴を取られているので、

まあ、いいやと思いついて行く。ひと通り案内してくれて、最後に5ドルだと言う。

「高いよ」と言うと、私はムスリムに奉仕している者でどうのこうのと言っていたが、

さらに「分かったけど高いよ」と言うと、二人で200ルピーでいいと言うので、

200ルピー払った。

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  ジャマー・マスジットへ
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  ジャマー・マスジットの門
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  ジャマー・マスジット
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  このアングルからの写真がいい
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  ジャマー・マスジットの階段から市街、向こうにラール・キラーが見える
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  牛車も歩いてる

このあと駅に戻り荷物を預けたホテルに寄ってから空港に行くわけだが、

ニューデリー駅での地下鉄の乗り換えが正体不明だった。

一度、駅の外に出て地下鉄の別の路線に乗り換えだったのだが、

なんだこれはというぐらいの行列だった。

なにか駅員が出て説明をしてるようで、何かあったのかもしれない。

で、このままではまずいかもしれないと思い駅員に聞いたら、

空港方面は向こうだと全く別の方向を指示された。

周囲の人も向こうだ向こうだと言うので行ってみたら、

実際、空港方面はエレベーターで下に降りて別のホームに行くのだった。

ここでも、やはり親切なインド人に助けてもらった。

インドに来る前は、フリーでのインド旅行の厳しさを聞いていたのだが、

実際に来てみたら、親切なインド人に何度も助けられた。

一方では会話が通じないとき、東南アジアのような優しさを感じないインド人も

結構いるわけで、インドはやはり混沌なのかもしれないと思った。

夜の飛行機で日本に帰国した。

 

機窓から夜のインド亜大陸を見ながら思った。

牟田口はなぜインパール作戦を開始したのだろう?

当時、既に太平洋の戦線は敗色が漂っていた。

閉塞した状況で、南方軍、ビルマ方面軍、第15軍の牟田口が

ビルマ戦線で戦果をあげ局面を打開しようとした。

牟田口の作戦は平面で見れば見事である。

大部隊の通過困難と判断した国境の山岳地帯を踏破してあらわれた日本軍の2個師団に、
イギリス軍は驚いた。「我々は完全に奇襲された」と言っている。

南と北からインパールに迫り、1個師団はコヒマを制圧、

これによりインパールは包囲された。

大本営で東条英機が絶叫したのはこの時である。
「包囲しているのになんで勝てないんだ!

牟田口も東条も日露戦争の頃に士官学校で学んでいる。

彼等が学んだのは、19世紀の平面の戦争である。
日露戦争はそれでよかった。

しかし、20世紀の戦争は立体の戦争に変っていた。

平面で包囲しても空はがら空き、イギリス軍は空からの補給を受け、

全く孤立していなかった。

インパールは京都盆地が幾つも入りそうな大きな広い盆地である。

飛行機も戦車もなく牟田口はどうやってそういう広い平野で戦争をするつもりだったのか?

彼が現代戦を理解していなかったと思うしかない。

20世紀の戦争は航空支援のないところでは地上軍を運用できない。

ゆえに沖縄でも硫黄島でも日本軍は地下陣地にこもらざるをえなかった。

あるいは敵の航空支援を無力化するかである。

1954年のディエンビエンフーがその例である。

ヴォー・グエン・ザップに率いられたベトナム軍は大砲を分解して山を越えて運び、

ディエンビエンフーのフランス軍の飛行場を砲撃で使用不能にし、

フランス軍の航空支援を無力化した。

日本軍にはインパールの飛行場を砲撃で使用不能にするに足る大砲はもとよりなかった。

牟田口は戦後、自分の作戦は正しかった。31師団の佐藤中将が命令に反して撤退

しなければインパール作戦は成功したと言い続け、

自らの葬式でもそういう小冊子を列席者に配った。

彼がそういうふうに言うようになったのは、
戦後、イギリス軍の将官からインパール作戦についての手紙をもらい、

そこに作戦成功の可能性についての言及があったからだが、

コヒマが日本軍の手に堕ちたとき、

コヒマからディマプールまでの間にイギリス軍はいなかった。

もし、日本軍がディマプールに進出していたらイギリス軍は大変なことになった。

確かにそうかもしれない。

しかし、山岳地帯を出て平野のなかにあるディマプールを占領したとして、

その部隊は逃げ場のない平野でイギリス軍の空爆にさらされ壊滅しただろう。

占領を継続することは不可能だったはずだ。

現代戦は航空支援のないところで地上軍を運用できない。

20世紀の軍隊に19世紀の戦争を仕掛けた。

それが牟田口のインパール作戦の実相である。

学校の勉強しかできない秀才、というのがいる。

学校では優秀だったが社会に出たらパッとしない、ということは当たり前にある

わけで、民間だとそういう人間は出世しないことで排除されるので問題にならない

のだが、官僚の世界は違う。

官僚の世界ではそういう人間が排除されることなく残ってしまう。

牟田口廉也はその最悪の例だったと言えるだろう。

暗い大陸を下に見ながら、

そういう指揮官のもとで戦わなければならなかった兵士達のことを思った。

インパール5

 朝早くインパールを出てコヒマに向かう。

コヒマはインパールの北、ナガランドにある。

日本軍の第31師団がほぼ制圧し、これによりインパールを孤立させた。

もっとも、孤立させたというのは平面の地図上での話である。

インパールにはイギリス軍の飛行場が6カ所あり、

日本軍に制空権のない状態で空はがら空き。

イギリス軍は空から補給できたので実際は孤立していなかった。

コヒマへの道の途中途中で車を停め、

ここが日本軍が最もインパールに近づいた地点とか、

ここがコヒマを奪還した英印軍とインパールから来た英印軍が合流した地点とか、

アランバムからいろいろ話を聞く。

それにしてもインパールの平野は広い。

こんな広い平野に飛行機も戦車もなく日本軍はやってきて、

どうやって戦うつもりだったのか?

山岳地帯なら制空権がなくても身をかくすことが出来るだろう。

丘陵地帯なら地形を利用して戦うことも出来ただろう。

しかし、この平坦な大地でどうするつもりだったのか?

実際にインパールに来て、インパールの広さを知ると、

日本の軍事オタクがよく言う、あのときこうしていれば勝てたとか、ああしていればとか、

その種類の話が馬鹿らしくなる。

そもそも話にならない作戦のもと、兵士達は戦っていたのだ。

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   市街を出てしばらく行くとイギリス軍の飛行場の跡がある。
 イギリス軍がインパールに作った6つの飛行場のひとつ
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  セングマイの村で米の酒を買う 飲んでみたら米の焼酎だった
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  セングマイの北 戦前からある橋 日本軍はここまで進出した
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  橋の近くにやはり戦前からある建物 日本軍が一時期占領して使ったらしい。
 コヒマの手前にも同じ作りの建物があり、イギリスが作った駅逓の駅とのこと。
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  カングラトンビの慰霊碑
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  カングラトンビ付近のバス停 屋根の上にも乗る

途中、日本軍が野戦病院として使っていた病院に行く。

今でも病院として使われているのだが、戦前からアメリカのキリスト教の団体が

運営していた病院があり、日本軍はそれをそのまま野戦病院として使った。

行くと病院の関係者なのかそのキリスト教の関係者なのか、そういう人が出てきて、

この集会場は自分が作ったとか、いろいろ説明してくれた。

病院の建物、2階建てなのだが、2階部分はコンクリートの柱が剥き出しで使われていない。

かなり古い感じがするので、あるいは戦前からあった建物かと思い聞いてみると、

そうではなく、戦後に立てられたのだが金がなくて2階が作れなかったそうだ。

それって、建設計画が杜撰なんだろうと思ったが、

日本の感覚をインドに持ち込んでもしょうがないので、ああ成程と納得した。

ちなみに、日本軍が敗走するとき、野戦病院で動けない傷病兵は置いていかれた。

イギリス軍は動けない日本軍の傷病兵にガソリンをかけて焼き殺した。

第二次大戦の参戦国で正義を語れる国はない。

日本もドイツもアメリカもイギリスもソ連も中国も、戦場では邪悪に振る舞った。

それが戦争の現実である。

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  日本軍の野戦病院の跡 今もキリスト教団体の運営する病院がある。
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  病院に咲いていた花

途中、マオで例によってナガランドの定食で昼食。

おそらくはインパールとコヒマの間の物流関係者が使うのだろう、

街道沿いに小さなホテルや店が並んでいる。

ちなみに、ここでホテルというのは日本人の観光客が思い浮かべるようなホテルではない。

この先でマニプールからナガランドに入る。

ナガランドはナガ族の土地、つい数年前まで外国人立入禁止の地域だった。

独立運動うんぬんという話を聞いていたが、

ナガランドに入ると不思議なくらいインド陸軍の兵士の姿が消えた。

車に乗って走っているのは見かけたが、

マニプールのように街中や道路沿いに自動小銃を構えた兵士はいない。

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  マオの村 道路沿いにホテルが並ぶ
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  この店で昼食 割と小綺麗
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  ナガの定食 やはりカレー料理 トウガラシが辛かった
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  食事を終えて店の外に出るとこれが置いてあり、自由に食べられる
 試しに食べてみたらすごい酸っぱい実だった。日本兵はこの実を食べて
 から水を飲むと水が甘くなると言っていたそうだ。
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  食堂の隣りの店 吊るしてある大きな豆の名前聞いたが忘れた

やがてコヒマが見えてくる。

コヒマは峠を中心に発達した街だが、山から谷に続く斜面にびっしりと家が建っていて、

日本の感覚ではちょっとありえない街並みである。

平坦なインパールとは異なり、コヒマは山のなかの街である。

かなり大きな街で渋滞が凄い。

これ以上車が増えたら町の機能が停止するんじゃないかという気がする。

街のほぼ中心に英印軍と日本軍が激しく戦ったインパールとディマプールをつなぐ

三叉路があり、そこに続く尾根がギャリソンヒルである。

現在、英印軍の慰霊の公園になっていて、

公園の1か所にテニスコートの白線が引かれているところがある。

戦前、実際にここにテニスコートがあり、

このテニスコートを挟み、というか、テニスコートが尾根上にあるので尾根を挟み、

日本軍と英印軍が手榴弾を投げ合って戦った、そういう激戦の地である。

結局、日本軍はこの尾根に立て籠った英印軍を駆逐することは出来ず、

日本軍のコヒマ制圧は不完全だった。

ここでアランバムからいろいろ説明を聞いていたのだが、雷が鳴って雨が降ってきた。

公園にはつつじの花が咲いていて、雨でかすかに揺れるつつじの様子は日本と変わらない。

このあと宿に入る前に州立博物館に立ち寄る。

博物館は既に閉まっているのだが、博物館の前に戦車の残骸が置かれている。

行ってみると、戦車の砲塔部分がひっくり返った状態で置かれていた。

ガイドのアランバムは日本軍の戦車の残骸だと思っていたようだが、

どうも、日本のものに見えない。

アランバムはスマホでこの戦車ではないのか? と言うのだが、

見ると形は似ているが車体に旭日旗がある。海軍陸戦隊の戦車である。

「違う、これはマリーンだ」。

砲口を測ると1.5インチ、つまり37mm。

で、ハッチの部分がなにやら簡易である。

こういう簡易なハッチを持っているのは軽戦車とか兵員輸送車とか、

そういう類じゃなかろうかと思い、スマホで調べてみると、

イギリス軍が使用したアメリカ製のM3スチュアート軽戦車と形状や各部が一致した。

軽戦車だが、日本軍の97式中戦車より頼りになるということで、

日本軍は鹵獲したM3スチュアートを使用した。

州立博物館に展示されているM3スチュアートの残骸がイギリス軍が使ったものか、

日本軍が鹵獲して使ったものかは分からない。

とりあえず、ガイドのアランバムにとっては戦車が特定できて、新しい発見だったようだ。

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  博物館から見たコヒマの街 山から谷にびっしり家が並んでいる
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  ギャリソンヒルの英印軍墓地 向こうに見えるのが激戦のあった三叉路
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  テニスコートの戦いの跡 左側から日本軍が右側から英印軍が
 手榴弾を投げ合った。
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  戦闘の詳細図
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  ギャリソンヒルの後ろの方 イギリス軍が使用したアメリカ製のM3中戦車がある。
 弾痕がひとつもないので、多分戦闘に参加する前に上の斜面から転がり落ちて故障、
 放棄されたと思われる。
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  州立博物館の前のM3スチュアート軽戦車の砲塔、ひっくり返っている。
 
今日の泊りは戦前からある瀟洒な雰囲気の建物。

玄関の金属製の柱には日本軍がここを占領していたとき飛来した英軍機の機銃掃射の

跡が残っている。

夕食はナガの料理、基本的にはカレーなのだが、実のところあまり覚えていない。

アランバムが途中で買ってくれた酒、米の酒ということだったが、つまり米焼酎。

ボルネオにも米焼酎があったが、ナガにも米焼酎がある。飲みやすいのだが、

割と強いみたいで、夕食のあたりの記憶は飛んでいる(^^;

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  泊まったホテル 戦前からある瀟洒な建物
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  日本軍が占領して使っているとき、イギリス軍機が機銃掃射していった跡
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  夕飯 

翌日、コヒマからディマプール。

思ったより悪路だった。

コヒマからディマプールへの道は途中までは山の中だが、

ディマプールが近づくと平野に出る。

かつて太平洋戦争のとき、ビルマの援蒋ルートが遮断されたのち

アッサムの飛行場から中国に大規模な支援物資の空輸が行われた。

空の援蒋ルートである。

そのアッサムの飛行場に物資を運ぶ途中にディマプールはあり、

戦略的には重要な場所だった。

インパール作戦に戦略的合理性を求めるのなら、インパールの占領ではなく、

むしろディマプールが目標であるべきだったのかもしれないが、

いずれにしろディマプールもインパール同様、

飛行機も戦車もない日本軍には行動困難な広い平野にある。

インパールもディマプールも日本軍には遠い町だったのだ。

インド東部かつて戦争のあった地を訪ねる旅を終えて、

空港に送ってくれたアランバムと運転手に礼を言い握手をして別れた。

ここから国内便でデリーに戻る。

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   コヒマとディマプールの間のジュブザ
  日本軍はここまで進出した。

インパール4

 ウクルルはインバール戦で日本軍が補給基地を置いた街。
思ったより大きな街で住民の多くはモンゴロイドのナガ族、顔立ちは日本人と区別付かない。

標高が高いので4月でも朝晩は寒い。

コヒマに侵攻していた日本軍の第31師団は補給を受けられず、

このままでは戦うことは不可能と判断した佐藤師団長は、

15軍の牟田口司令官の命令を無視し補給基地のあったウクルルに撤退する。

日本軍始まって以来の抗命事件だった。

怒った牟田口は佐藤師団長を解任するが、

天皇の親補職であった師団長を解任する権限は牟田口にはなく、

インパール戦を戦った第15軍は、つまりその時点で滅茶苦茶だったということである。

ウクルルまで撤退した31師団は、しかし、ウクルルの補給基地が最早機能していない

ことを知る。そこに補給物資はなかった。

やむをえずさらに撤退する。飢えた兵士達は次々に斃れた。

1944年のインパールの降水量は例年をはるかに超えるものだった。

熱帯のジャングルで斃れた兵士の遺体は雨にうたれ異様な速さで白骨化した。

撤退路には白骨が並び、それが道案内になった。白骨街道である。

サンジャックもウクルルも、白骨街道のインド側の起点。

宿の窓から夜のウクルルを眺める。

町の光は少なく、その少ない光の外には闇が広がっている。

かつてこの闇のなかを飢えた兵士達はビルマへ歩き続けた。

歩き続けられた者だけが生き、歩けなくなった者は死んだ。

現代のウクルル、治安は割といいのだろう、

窓から見ていると夜遅く下の道を女性だけで歩いてゆく。

翌日は日曜で、街の人々が正装して次々と教会に行っていた。

ガイドのアランバムが言っていたが、インパールは市街の新しい住民にはヒンズーが多く、

古くからの住民には日本の神道に似た古い信仰(アニミズムか?)が多いとのこと。

で、山岳地帯はキリスト教が多いのだそうだ。

ウクルルの住民はクリスチャンが多く、日曜は正装して教会に行くのである。

正装した人々はみなしっかりした身なりをしていて、

貧しいインドの山村というイメージを抱いていると間違いである。

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   日曜の朝、ウクルルの人達は正装して続々と教会へ行く

ウクルルからインパールに戻るのだが、

その前にインド陸軍のアッサム・ライフル連隊の基地に行く。

ここにインパール戦で使われた日本軍の一式速射砲がある。

対戦車砲として使用され、沖縄戦ではM4シャーマンをかなり撃破している。

インドでは軍の関係にはあまりカメラを向けられないので、

アランバムが最初に訪問の旨を説明し許可を取る。

撮っていいのは日本軍の大砲だけだ、という条件付きで基地に入った。

基地の門を入ったところのすぐ横に一式速射砲は展示してある。

一目見て、「オリジナルじゃないな」と思った。

防循がないしタイヤが交換されている。色も違う。

ま、本来の部品があるわけないので、復元にあたって違う部品を使うのは当たり前の

ことである。あるいは戦争中既に、壊れた部品をイギリス軍から鹵獲した武器の部品で

補うということもしたかもしれない。

インド陸軍の将校とか数人が出てきたが、皆フレンドリーで紳士的だった。

最後に握手をして基地を出た。

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  アッサム・ライフル連隊の基地に展示されている一式速射砲
  防楯が外されタイヤもオリジナルではない。

現在、ウクルルからコヒマへの新しい道を作っているそうで、その道が来年出来れば、

ウクルルからコヒマへ3時間で行けるようになるらしいのだが、今はまだ道が悪路で、

車で9時間はかかるというので、コヒマに行くため一度インパールに戻る。

昼食はインパール市内の店で典型的なローカルフードの定食。

現地の人と同じように右手で食べるが、

見ていたら不浄で食事のときは決して使わないという左手を使っている人もいた。

そういえばアランバムにヒンズー教徒は牛を食べないのかと聞いたら、

年とったヒンズー教徒は牛を食べないが若いヒンズー教徒は牛を食べるとのことで、

日本で通説的に言われていることって、結構、現実と違うらしい。

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  インパールに戻る
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  マニプールの典型的な定食
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  インパール市内

昼食を終え、かつてのマニプールの藩王の王宮の跡地カングラ・フォートにある
マニプール州立博物館を見学。

そのあと、ビシュヌ神の神殿を訪れ、現地の人の習いに従って跪いて祈る。

我々は跪いて祈っただけだが、五体投地のような祈り方をしている人もいた。

市内で最後に訪れたのは連合軍墓地。イギリスとイギリス連邦の兵士が眠る墓地で、

英印軍のインド兵やグルカ兵の墓地は他のところに作られているらしい。

墓石をひとつひとつ見ていくと、氏名不詳の墓石が結構ある。

「神のみぞ知る」と書かれている。

墓地を出ようとしたら出入口にいた人に呼び止められた。

日本の記帳と同じようなものがあり、記帳してくれと言う。

他の人には記帳を求めていなかったので、日本人だと分かったのだろう。

漢字で記帳した。

コメントの欄があったが、difficultと言ったら相手も頷いてくれた。

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   カングラ・フォートのドラゴン
  ドラゴンと言っていたが鹿の角を持った狛犬に見える
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  カングラ・フォートの敷地内にある寺院
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  ヴィシュヌ神派のシュリゴービンダジー寺院
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  この前で跪いて祈る
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  連合軍墓地
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  ホテルに戻ってから周囲を歩いてみた
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  夕食のタンドリーチキン 美味しかった
 

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