2018年04月

インパール3

 19443月、インパールの東、ビルマとの国境に近い山岳地帯のサンジャック、

そこからさらに東の国境方面に続く尾根の7378Pにいた英印軍の哨戒部隊の前に

日本軍が姿をあらわした。

日本軍がインパールに攻めてくるとすればインパールの南、ティディム道から

やってくると思っていたイギリス軍はそちらの防衛に力を入れ、インパールの東部は

手薄だった。インドとビルマの間に広がる山岳地帯は大部隊の通過は困難で、

もし、こちらから侵入してくる日本軍がいたとしてもせいぜい連隊規模と思われていた。

しかし、通過困難と思われた山岳地帯のジャングルを踏破して現れた日本軍は

二個師団だった。7378Pの哨戒部隊が発見したのはその一部。

インド兵とグルカ兵からなる152名の哨戒部隊は日本軍と戦い全滅する。

この哨戒部隊が最後まで戦ったことを、イギリス軍はこのあとコヒマで戦死した日本軍

将校のバッグに入っていた記録から知ることになる。

7378Pの戦闘のあと日本軍は北のウクルルに進み、さらにサンジャックを攻撃した。

サンジャックは山岳地帯に住むナガ族の集落。

地形的には峠を中心にして家や畑が広がっている。

集落を通り過ぎて林道を走り、7378Pが見えるところまで行く。

国境に続く林道を見下ろすように7378Pはある。

標高は2200mぐらいあるはずなのだが、たおやかな緑の山稜である。

ガイドのアランバムは、ここまで案内した日本人はあなた方が初めてだと言っていた。

ちなみにここは、インパール作戦失敗後、日本軍が退却した道のひとつでもあり、

ビルマに続く白骨街道の一部である。

帰り際にふと見ると道の傍らに野イチゴがあった。

ワイルドベリーと言ってアランバムが取ってくれたものを食べてみる。

ちょっと酸っぱかった。たぶん飢えた日本兵達もこの野イチゴを食べただろう。

そういえば、インパールからサンジャックへの道の途中、山に桜のような花が咲いていた。

近くで見ると、桜ではなくコブシの仲間のようなのだが、

遠くから見ると本当に桜が咲いているように見える。

この桜と見まごう花も時期的にインパール作戦に参加した日本兵達は見たはずである。

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  サンジャックに行く途中、向こうに桜そっくりの花が咲いている。
 近くで見ると、コブシに似ている
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 サンジャックに行く途中、道路沿いに小さな市場
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 カエルも売ってる。生きてた。
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 市場の反対側、左に立っているのがガイドのアランバム。
 向こう側に自動小銃を構えた兵士が立っている。
 インパールでは街中でも道路沿いでも当たり前に兵士がいる。
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 7378P
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 道端の野イチゴ
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 水牛がやってきた

林道からサンジャックに戻り、アランバムの知り合いのナガ族の家で昼食を摂る。

現地のナガ料理だが、やはりカレー系で、スプーンを使わず手で食べる。美味しい。

この家から向こうに見える尾根の上にかなり建物が建っているので、

昼食を作ってくれたその家の主の母親に聞いてみたが「アルミ」だと言う。

アルミの工場かと思ったが、あとで聞いたら「アーミー」、インド陸軍の兵舎だった。

今でもサンジッャクは国境防衛の要所のひとつであるらしい。

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 サンジャック
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 昼食を食べたアランバムの知り合いの家
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 ナガ族の料理
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 台所
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 イギリス軍の弾倉の箱が物入れとして今も使われている
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 昼食を摂った家から 向こうの尾根の上にアーミーの兵舎がある
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 インドの犬は人懐こいのが多かった。
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 道端に当たり前のように大麻(マリファナ)が生えている。
 そういえば、ここからビルマの北を行けば黄金の三角地帯である。

そのあと、激しい戦闘のあった教会の跡に行き、詳しい話を聞く。

英印軍は敗走するまでここで6日間持ちこたえた。

この6日間がイギリス軍にコヒマ方面の防衛に部隊を移動させる時間を与え、

その後の戦闘に大きく影響したらしい。

昼食を食べさせてくれた家の主の父親は、子供の時にインパール戦を経験し、

サンジッャクの戦いのときは村の下の谷に逃げて隠れていたらしいのだが、

夜になるとジャングルの上を曳光弾が飛び交い、まだ子供だったその家の主の父親は、

それが綺麗で喜んで見ていたと話していたらしい。

少し移動して集落の北側、尾根の上に新しく作られたフットボール場に行く。

工事のとき、そこから3人の日本兵の遺骨が出てきたらしい。

まだインパール周辺には多くの遺骨が残っている。

この近くのナガ族の家に入り、今でも日用品として使っている日本軍の飯盒と水筒を

見せてもらう。その家の近くには、サンジャックの戦いで英印軍が使っていた

尾根の斜面の銃座が今も残っている。

このあと、少年のとき日本軍のメッセンジャーボーイをしていたという老人が守る

慰霊碑に行き、その老人の話を聞く。前線に食糧や弾薬を補給しなかった日本軍の

上層部に今でも怒っていると言っていた。

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 激戦のあった教会の跡付近から見たサンジャックの集落
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 サンジャックの北側
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 尾根の上の新しいフットボール場。
 ここを作るときに三人の日本兵の遺体が出てきたという。
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 ナガ族の家に入れてもらう
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 日本兵が使っていた飯盒
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 日本兵の水筒 
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 子供の時に日本軍のメッセンジャーボーイをしていた老人の家の近くの慰霊碑

サンジャックをあとにし、一度インパール方面に戻り道を変えてウクルルに向かう。

途中、道沿いに兵隊が自動小銃を構えて結構立っている。

ここに限らず、インパールの街中も道路沿いもあちこちに兵隊がいる。

聞くと、マニプールでは近年まで、インドから独立しようという勢力とインド軍の間で

戦闘があり、今でもインド軍があちこちで警戒しているらしい。

ウクルルは日本軍が占領して補給基地にした街で結構大きな街である。

インパールもそうなのだが、モンゴロイドのナガ族が多く、

日本人と区別つかない顔立ちの人達が大勢歩いている。

高地なのでちょっと寒い。今夜はここで泊まる。

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 ウクルル
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 ウクルルで泊まったホテル
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 ホテルの窓から
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 ナガ族の麺料理 ツッパ

インパール2

 インパール作戦で日本軍の主力はビルマからティディム道を通り、
南からインパールに迫った。
当然、イギリス軍もそれに備えていて激しい戦闘になった。
その戦場のひとつがレッドヒル。
文字通り、赤い丘である。
インパールの南、ロクタク湖の西側。
ティディム道沿いにあるこの丘の上に陣取った英印軍と日本軍の間で
激戦が繰り広げられたわけだが、現在、その丘の麓には小さな慰霊碑が建てられている。
今回のカイドはインパール作戦を研究しているインパール在住のアランバム。
遺骨収集に協力している関係で日本政府に招待され2年前に日本に来たこともある。
地元のナガ族、歳の頃は40代後半。
インパールで戦跡を訪ねようと思ったら、彼のようなガイドを頼まないと難しい。
タクシーの運転手を捕まえて、こういう戦跡に行ってくれと言っても、
大抵の運転手は知らないだろう。
そのくらいインパールに戦跡といえるようなものは残っていない。
普通の畑や田圃が広がっているだけである。
彼に案内されてレッドヒルに行ったとき、
「こんな小さい丘か」と思った。
沖縄でも硫黄島でもアメリカ軍は地形が変わるほど大砲を打ち込んでいる。
このレッドヒルという丘も大砲の集中砲火を浴びれば地形が変わりそうな小さな丘である。
ティディム道をインパールに進もうとする日本軍を阻止するためこの丘に陣取った
英印軍だが、日本軍にまともに大砲があれば制圧できのではなかろうか。
しかし、補給が困難だった日本軍にはろくに大砲もなかった。
結局、日本軍は日露戦争の203高地のように歩兵の白兵戦でこの丘を攻め登り、
英印軍の激しい銃火を浴び、大きな損害を出した。
慰霊碑に日本から持ってきた酒と現地で買った花を献じる。
碑の近くにはガイドのアランバムと有志が植えた桜の木がある。
既に花が終わり葉桜になっていた。

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   レッドヒル
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  レッドヒルの麓のインド平和記念碑
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  慰霊の祭壇
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  近くにあるロトパチンの慰霊碑

さらにティディム道を南下し、ニンソウコンの村のあたりまで行く。
周囲は刈り取りが終わった田圃が広がり、牛がのんびりと草を食んでいる。
インパール作戦の後半、退却する日本軍を支援するために残った戦車隊が
イギリス軍の戦車隊と戦い、壊滅した。
小さな砲しか持たない日本軍の戦車は、
イギリス軍が使用したアメリカ製のM3戦車には歯が立たず、
もとより戦いにならなかった。
ここもなんでもない田園風景が広がっているだけで、
ここがかつて戦場だったということを知らなければ素通りするだけである。
それにしてもここまで来て思ったのは、インパールが広々とした土地であること。
インパールに来るまではもっと狭い山あいの土地のようなイメージを抱いていた。
しかし、実際のインパールは京都盆地の何倍もありそうな広やかな盆地である。
こんなopen landに航空支援もなく地上部隊を送ったら空爆で叩かれるだけだろう、
牟田口はどういうつもりだったのか?
これが最初にインパールで抱いた感想だった。

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   ニンソウコン 今は田圃が広がっているだけ

このあとモイランの
INA博物館を見学する。
INAとは、インド独立の志士チャドラ・ボースに率いられ、
インド独立を目指した自由インド国民軍で、
マレー戦ののち英印軍のインド兵捕虜で編成されインパール作戦に参加したが、
インパール作戦の失敗で事実上壊滅した。
戦後、イギリスは彼らを反逆罪の罪で裁判にかけたが、
その裁判がむしろインド独立運動に火を注ぐことになる。
1978年、チャンドラ・ボースはインド独立への貢献を認められ、
インドの国会議事堂に、ガンジー・ネールと並んで肖像が飾られることになった。

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  INA博物館
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  チャンドラ・ボース

そのあとロクタク湖で昼食。
ロクタク湖はインパールの盆地の中央にある大きな湖で水深はそんなに深くなさそうで、
湖面に幾つも緑色の円がある。
ガイドに聞くと、魚を採るために網を円形に設置しているんだそうで、
そこに水草が沢山生えて、緑色の円に見えるらしい。
綺麗な風景である。

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  ロクタク湖

インパール市内に戻り、アランバムの自宅二階の私設博物館に立ち寄る。
インパール戦の記録が残っていて、個人のコレクションでよくこれだけ集めたなと思う。
そのなかに若い日本兵とその妻であるらしい写真があった。
聞くと、アランバムの妻の叔父が子供の頃、動けなくなった日本兵の世話をして、
その日本兵が死ぬ前にくれたらしい。
死期を悟った日本兵が最後に自分の世話をしてくれた少年に、
自分と妻の写真を託したのだろう。
この写真に写っている若い妻は、その後、どういう人生を生きたのだろうか。
インパール到着の初日、すでに多くのものを見たような気持ちでホテルに戻り夕食。
日本からの長旅の疲れを癒すためゆっくりと寝た。
 

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     ガイドのアランバムの私設博物館
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  アランパムの妻の叔父が子供のときに日本兵から受け取った写真

インパール

 インパール。インド東部、マニプール州の首都。

19443月、第15軍の牟田口廉也中将はイギリス軍のビルマへの反攻拠点である

インパールの占領を企図してインパール作戦を開始する。

9万の将兵が参加し補給が途絶えた戦場で餓死者が続出、2万以上の戦死者を出し、

太平洋戦争における最悪の作戦といわれた。

知り合いに太平洋戦争の戦跡を訪ねて慰霊している人がいて、

今回、その人に誘われてインパールを訪ねた。

デリーに行き、そこでインド国内便に乗り換えてインパールに行く。

現在、ミャンマーから白骨街道を通ってインド国境というのはアクセスに難がある。

それに対し、インド側からはデリーからインパールに飛行機が飛んでいて、

割と容易にかつての激戦地に入ることが出来る。

ただ、激戦地のひとつコヒマは、ナガランドの領域で、

数年前までナガランドは外国人立入禁止だった。

もともとナガランドは独立したナガ族の王国であり、独立運動等の問題があったためだ。

ちなみにインパールの属するマニプール州にも同じ問題があり、

近年までレボルーションが活動していて戦闘も勃発していた。

そのため、マニプールの町や道路には今でも警備の兵士がかなり目につく。

町の中や道路沿いに当たり前のように自動小銃を構えた兵士達がいるのを見ると、

日本の平和な感覚が通用しないことがよく分かる。

デリーに夕方到着し、翌日早朝の国内便でインパールに行くので空港の近くのホテルに

泊まる。時間からすれば仮眠するだけである。ホテルの近くには小さな古い城壁の門の

ようなものがあり、そこをくぐると小さな店が沢山並んでいる。

古い城内の作りがそのまま現代に残って使われている感じで、

東南アジアあたりではあまり見られない雰囲気がある。

既に時間が遅いので、少し歩いただけでホテルのレストランで夕食にする。

インド料理のマサラ、なかなか美味い。

ここで初めてインドでは酒が自由に飲めないことを知る。

店員の話では表向きはダメだが売っているところはあるみたいで、

そこで買って部屋で飲むしかないらしい。

明日早いのでそこまでしてビールを飲む気もなく食事だけして大人しく寝る。

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  国内便に乗り換えるので空港の近くのホテルに泊まる
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  夕食のマサラ 美味しかった

翌早朝、国内便のターミナルから出発、途中グワハディで一度降りてインパール。

グワハディで乗ってきて隣に座った女性はアルナーチャルから来たそうで、

来年、桜を見に日本に行くと言っていた。

アルナーチャルはブータンの東で、インドと中国が領有権を争っているところ。

中印国境紛争のとき、一度は侵攻した中国軍が占領したが、すぐに撤退した。

たぶん、補給の問題で占領を継続できないと判断したのだろう。

つまり、それくらいの辺境である。

まさか、そんなところから来た人に会うとは思っていなかったので、

ちょっと驚いた。しかも、かなりの教養の持ち主で、

日本政府は2020年の東京オリンピックのために英語教育に力を入れている

のではないかと聞かれた。

そういう難しいことを聞かれても乏しい英語力では返事に困るのである(^^;

我々と同じモンゴロイド、あるいは上流階級の人だったのかもしれない。

デリーから途中グワハディでの乗り換え時間含めて4時間でインパール着。

日本軍が死闘の末に辿り着けなかったインパール。

平和な時代の我々は日本を出発してから25時間で到着した。

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  デリー空港の国内便ターミナル
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  早朝、インパールに向けて出発
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  インパール空港

歌会

ひさしぶりの平日歌会。

午前中は上野の国立西洋美術館でプラド美術館展。

17世紀スペインの絵画を見てから歌会に向かう。

ちなみに桜の早かった今年、

上野公園の桜は4月の第一週ですでに見事な葉桜である(^^;

で、歌会。

例によって気になった歌。

誌面発表前なので、ここには出せないが、

降る粉雪が地に触れる音を硝子越しに眼(まなこ)が拾う、

そんな歌意の歌。

粉雪は音もなく降るイメージがあるわけだが、その粉雪が地に触れるときの音を

眼が拾っているという、着目の面白い歌で、幾つか問題点は指摘されたが、

歌会では概ね好評だった。

ただ、私は終始、違和感を感じていた。

どうも、粉雪が地に触れる音を眼(まなこ)が拾うというのが、

今ひとつリアリティーに欠ける表現のような気がしてならなかった。

で、なぜ、リアリティーを感じないのか歌会の最中考えていた。

粉雪が地に触れるというのは、粉雪は降り始めたばかりで地面は出ているのだろうか?

そこに粉雪が落ちてゆくときの音をじっと眼で拾っている。

音もなく降るイメージの粉雪だが、吹雪のときは地面あるいは雪面に叩きつけられる雪の

音を感じることは出来る。しかし、「地に触れる音」という表現からは粉雪は静かに

降っているようで、吹雪のような情景は浮かばない。

叩きつけるような吹雪の雪ではなく静かに降る粉雪の音、

それを感じ取る、そういう鋭敏な感覚、その着目はいいのだが、

なにかこう着目の良さだけが目についてしまい、

しかも、眼(まなこ)という表現がやや浮いている気もして、

それゆえか微妙な「作った感」を感じてしまう。

着目の良さに表現が追い付いていないような...

それが一首にリアリティーを感じさせない、

で、余計な突っ込みを入れたくなる(^^;;

そういうことなんじゃなかろうか。

もっと自然に、粉雪が地面あるいは雪面に触れる音を聞いている、

それだけで、作者の寂しさとかそういうものは伝わったのかもしれないし、

「地に触れる音を眼(まなこ)が拾う」でなく、「地に触れる音を見ている」とか、

そのくらいに抑えた表現でも良かったのかもしれない。

着目の良さに一首の表現がついていけなかった。

そういう歌という感じがした。

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  午前中はプラド美術館展

京都2

京都二日目、泊まったホテルから歩いて錦市場へ。

京都の台所といわれる市場で京都の食材は殆どここで揃うらしい。

アーケードのある狭い通りの両側に店がぎっしり並んでいる感じで、

早い時間でも食事ができる店もあり、

朝食なしで泊まってこういうところで朝食を摂るのも面白い。

海外からの観光客も朝早くから歩いている。

通りの一番東の端に錦天満宮がある。

そこからちょっと南へ行けば四条通りに出られる。

IMG_4595 錦市場
  錦市場 朝だったので人が少ない。時間になれば人で一杯になるのだろう。
IMG_4596 錦天満宮
 錦天満宮

このあと高瀬川の桜沿いに北上、途中で鴨川を渡り岡崎疎水の方へ。

岡崎疎水も桜が綺麗。

疎水沿いに平安神宮の方へ行き、途中、京都国立近代美術館に立ち寄って

安藤碌山の「竹の子と梅」などを眺めてひと休みする。

この美術館の一階のカフェのオープンスペースは目の前に疎水沿いの桜があって

とても感じがいい。

IMG_4602 岡崎疎水
 岡崎疎水
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 疎水と平安神宮の大鳥居

ひと休みののちインクラインへ。

明治時代に作られ、高低差のある岡崎疎水と琵琶湖疎水を傾斜鉄道でつなぎ、

南禅寺船溜まりから荷を積んだ舟をそのまま台車に載せ琵琶湖疎水へ運んだ。

それがインクライン。

昭和23年まで使われたが車や鉄道の発達で舟運が衰え廃止された。

当時の線路が今も残り、高低差のある線路沿いの桜が春の京都の名所のひとつである。

それはそれとして、名所だけあって、人人人...(^^:

桜の下に続くインクラインの線路を撮りたいのだが、

いかんせん人が多くて線路が撮りにくい。ちょうど人が切れたときに撮る感じ。

インクラインを登り、蹴上から地下鉄で京都駅に戻る。

京都の桜を堪能した2日間を終えて、

いつもの通り、夕飯にいづうの鯖寿司を買って帰った。
今夜は桜の思い出に浸りつつ鯖寿司を食べて伏見の酒を飲んで寝る。

IMG_4610 インクライン
    インクライン
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  インクライン 少し登って上から下を撮る
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  インクライン上部
IMG_4622 琵琶湖疎水水門
  インクラインを登ると琵琶湖疎水につながる。
 見えにくいが奥に琵琶湖疎水の水門がある。
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  インクラインの一番上から。 水の上にあるのは復元された台車と台車に載っている舟。
 この下、南禅寺船溜まりまで桜が続いている。

京都

確定申告で1か月目いっぱい働いたのでブレイクを入れる。

良く働いたら良く遊ぶ、良く働くには良く遊ぶ、

それをモットーにしている(^^;

ひさしぶりの京都。

京都駅からタクシーで銀閣寺道へ。

バスでもちろん行けるのだが、桜と紅葉の季節は京都が一番混む時期で、

バスは渋滞にはまれば思わぬ時間がかかる。

タクシーだと抜け道を通ってくれるので、それだけ早く行ける。

案の定、途中で渋滞。鴨川沿いから祇園の細道を抜けて銀閣寺道に行ってもらう。

桜の季節の京都は美しい観光地だが、住んでいる人達は観光客の渋滞に巻き込まれないよう、
朝早く出て夜遅く帰るようなこともするらしく、大変だと運転手が言っていた。

銀閣寺道から哲学の道を歩く。

哲学の道は以前も歩いたことがあるが桜の季節は始めてである。

川沿いの桜が文句なしに美しい。

ただ、人も文句なしに多い(^^;;

着物を着ている人がやけに多い。タクシーの運転手が言っていたが、

レンタルした着物で京都を歩くというのが流行りなんだそうで、

それはれでいいのだが、

着物を着ているので日本人かと思ったら、鮮やかな中国語が飛んできたり、

なにか着物姿が変だなと思ったら着物で足元は靴だったりする。

そういう向きもあちこちに散見する哲学の道、ともかく人が多い。

IMG_4561 哲学の道
  哲学の道

歩き始めたのがもう昼過ぎで、そもそも桜を見にきたので、

混んでいるだろう銀閣寺はパス。そのまま川沿いに歩く。

天気が良くて桜の咲く川沿いを歩いていると気持ちがいい。

途中、法然院とか安楽寺とかあるのだが、やはり川沿いの桜の方が見たくてすべてパス。

すべてパスしてしまったせいか、熊野若王子に着いたとき、

「あれ? 哲学の道ってこんなに短かかったっけ? 」と感じた。

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  哲学の道
IMG_4563 哲学の道 猫
  哲学の道の途中に猫がたくさんいるスポットがある。
 今年もたくさん猫がいた。
IMG_4566 熊野若王子
  熊野若王子

そこから永観堂、南禅寺を経て青蓮院門跡に立ち寄り、

花見客で一杯の丸山公園を抜け、夕方の矢坂神社の境内を通って四条通り、

鴨川を渡り今日の泊りのホテルへ。

夜はいつもの通り先斗町で食事。

二軒目のバーで、窓の外の夜桜が綺麗でそれを見ていたら、

ちょうど窓のところに店員の若い女の子が立っていて、困ったような顔をしていた。

窓の外の桜を見ているのであって彼女を見ていたわけではないのだが、

「君を見ているわけじゃないよ」といちいち言うのも野暮なので黙っていた(^^;;;

ほろ酔い気分でホテルに帰り、ホテルの前の夜遅くまでやっているラーメン屋で〆の一杯。

その店の横にも小さな桜があり、桜尽くしの一日だった。

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   永観堂
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  南禅寺
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  青蓮院門跡 左近の桜
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  先斗町

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