今年に入ってから月に一度は歌会に出るようにしている。
去年はあまり出られなかったのだが、
やはり歌会に出ていないと歌を批評する力が落ちるのがはっきり分かる。
批評する力が落ちればたぶん作歌の力も落ちるわけで、
このままではいけないと、今年は月に一度は歌会に出ることを自分に強いている。
さて、湘南での歌会。
例によって気になった歌、というか気になったこと。
誌面発表前なのでここに歌は出せないが、
リビングの長椅子の端にいっぽんの茸がきのこの逡巡にある、
そんな歌意の歌。
この歌の読みについて歌会でいろいろな意見が出たわけである。
選歌した人は、
「長椅子の端に茸が生えたんでしょう、こんなところに茸が生えたのかと驚いたんで
しょうね、それをうまく表現していると思います」と、本当に茸が生えた説。
私は本当に茸が生えたとは思わなかったが、あくまでリアルで読んだ。
「リビングの長椅子に茸が生えるというのはあまり考えられない、
買ってきた茸を長椅子の端にぽんと置き忘れていたとか、それで、
なんでこんなところに茸があるんだ? と作者は訝っているんじゃないか?」
そんなふうに読んだわけである。
どういう情景なのか分かりにくいのだが、
「茸がきのこの逡巡にある」という表現は面白い。
で、いろいろな批評が出ているとき、出席者のひとりがこう発言した、
「私はこの歌は、自分の事を詠んだのだと思います。
長椅子の端の茸というのは自分のことで、
自分の気持ちをこういうふうに表現したのだと」。
確かにリアルに読むばかりが歌の読みではないわけで、
そういうこともあるのかもしれないのだが、
実は歌会が終わってから、
「自分の事を詠んだのだと思います」とコメントした人がこの歌の作者だと分かった。
そうだとすると、ちょっとどうなのだろう?
自分の歌を作歌の意図を汲んで読んで欲しいという気持ちは分かるが、
歌会の意見を誘導するような発言は歌会のコメントとしては慎むべきではなかろうか?
自分の意図したように歌が読めるかどうか、第三者に伝わるのか、
それを試すのは歌会に歌を出す大きな目的であり、
それを「こう読んでください」と誘導するようなことをしてしまっては、
歌会に歌を出す意味が半減しそうである。
実際、くだんの歌は初句から結句まで描写的であり、
長椅子の端にあるいっぽんの茸を作者が見ている感じがある。
もし作者自身のことを仮託しているならば、違う歌い方もあるのかもしれず、
誘導的なコメントをしてしまっては、その辺の意見も聞けなくなるかもしれない。
作者が発言するとしても、「こういうふうに読める可能性はないだろうか」とか、
そのくらいにしておくべきではなかろうか。
ちょっとその辺が気になったのだった。
歌会が終わったあとは、会場の後ろの境川沿いの桜を眺め、プチお花見気分を
味わってから駅の近くで軽く一杯飲んで帰った。