湘南で今年最後の歌会。
湘南の歌会に出るときはいつも午前中に鎌倉を歩く。
鎌倉駅を出て若宮大路を八幡へ、
八幡で手を合わせ雪の下の細い道を通って荏柄天神。
境内の梅を見上げると、幾つか花が開いている。
鎌倉で一番早く咲くと言われている荏柄天神の紅梅。
今年はいろいろあった。
仕事も忙しかったし、プライベートもいろいろ。
いささか振り回された感はあるが、
終わってみればいい一年だった気がする。
しばらくのんびりしたのち鎌倉駅に戻り江ノ電で藤沢に向かう。
昼食でビールを一杯ひっかけ戦闘態勢を整えて歌会へ。
例によって気になった歌。
誌面発表前なのでここには出せないが、
先生が五時におばさんになり六時に母親になって今日が暮れてゆく、
そんな歌意の歌。
この歌、一番得票の多かった歌で、
実は歌会に少し遅刻してきたので、この歌の批評は終わってしまっていたのだが、
歌会が終わってからいろいろ聞いてみると、
先生が勤務時間が終わって母親になる間におばさんが入るのが面白いと好評だった。
確かに面白い歌である。
で、作中主体はどういう立場なのかなと考えると、
やはり本人と読むのが一番自然なように思えた。
つまり、教師である自分が、
五時になって「先生」という立場から「おばさん」になり、六時からは「母親」に変わる、
そういう自分のなかの気の持ちようの変化を面白く捉えている感じ。
しかし、聞くと作者はこの歌を自分のことではなく、
他人である「先生」を詠ったのだそうだ。
う~ん、他人だとすると、どうなのだろう?
作者が他人である「先生」を見ているのだとすると、
気の持ちようの変化を捉えているのではなく、
実際の先生の様子から「おばさん」へ「母親」へという変化を見ているということになるが、
作者の立ち位置は職員室?
五時になった途端に「先生」から「おばさん」に変れるほど先生というのは暇?
どうもそういう歌だとすると、想像で作った歌のような感じが出てしまう気がする。
歌というのは発表すれば作者の手を離れるわけで、
作者は他人である「先生」を詠ったのだとしても、
この歌は自分のことを詠った歌として鑑賞した方がいい歌である気がする。
そんなこんなで今年最後の歌会を終え、あとは飲み会。
飲みながらわいわい楽しく話す。
今年は歌会にあまり出られなかった。
来年はもっと歌会に出られるようにしようと思っている。
荏柄天神
今年の「つれづれ日記」は今日で終わりです。
今年一年ありがとうございます。
それでは良い年をお迎えください。