短歌結社の歌会が新しく北海道に出来るということで行ってきた。
ちなみに札幌と網走の間の距離って、東京と名古屋の間と同じくらいあるわけで、
同じ北海道だから簡単に集まれるというわけではなく、
今まで北海道に結社の歌会はなかったのだが、
それを作ろうという話になったということで、記念すべき第一回の歌会。
で、札幌に着き、短歌は置いといてまず羊の肉を探す。
通っている射場で7月の射会のとき、バーベキューをしようという話になっていたのだが、
北海道に行くのなら羊の肉買ってきて、バーベキューじゃなくてジンギスカンにしようと
いうことで、羊の肉を探しにいったわけである。
とはいえ、札幌のどの肉屋がお薦めか知らないので、
とりあえず大通り公園を越えて札幌三越へ行き、
ここの地下の肉屋で羊の肉を買ったのだが、
そんなことをしていたらしっかり歌会に遅刻してしまった(^^;
そういうこともあろうかと詠草を出すときに遅れる旨は伝えてあったが、
それでも思ったより遅れると気は引けるもので、
体を小さくして歌会の会場に入ったのだった。
ちなみに45分の遅刻(^^;;
で、例によって気になった歌。
誌面発表前なのでここには出せないが、
欲望が形を形が欲望を追い詰めて手は輝きにけり、
そんな歌意の歌、
いい歌である。
しかし、センサーが微妙に反応した。
歌会で選歌をするとき、なにか基準を決めて選歌しているわけではない。
ざっと詠草を読んで、センサーが反応する歌に印をつける。
それを繰り返し、印の多かった歌について、なぜセンサーが反応したのかを考える、
そういう選歌の仕方をしている。
それと同じでこの歌を読んだとき、センサーがかすかに負の方向に反応したのである。
なぜ、負の方向に振れたのか考えたのだが、歌会の最中にはそれを言語化できなかった。
というか、今でも言語化は出来ないのだが…。
一首を読んだとき、なんというか表現者の切迫感のようなものを感じた。
欲望が形を追い詰め、形が欲望を追い詰める。
最初の方の「欲望が形を追い詰める」は分かりやすいが、
その次の「形が欲望を追い詰め」はなかなか出ない表現のような気がする。
絵画でもいいし、彫像でもいい、あるいは詩歌・小説でもいい、なにかを表現しようと
する者が自分をぎりぎりのところまで追い詰め追い詰められ、表現してゆく、
それは表現者の宿命的な苦しみでもあるわけだが、
なにかそういうものが浮かんだ。
で、その切迫したイメージが下句で「手は輝きにけり」。
ここでなにか、引っ掛かったわけである。
どうなのだろう?
うまくまとまっているということなのかもしれないが、
そのまとまり方が気になるような気はする。
一首の切迫した感じが最後の「手は輝きにけり」という過去形で削がれた感じがあって、
過去形がいけないのかなとも思ったが、
じゃ、現在形にすればいいのかというわけでもなさそうではある。
ちなみにこの歌は大森静香さんの歌だった。
彼女は能の面を作るので、あるいはこの歌は能の面を作っているのかもしれないが、
ならば、「手は輝きにけり」の替わりに「般若」とか、
そういう言葉を持ってきたらどうなっただろうとも思ったのだが、
能の面と分かるようにする必要はないわけで、
そういうふうにしてしまうと、むしろ表現者の宿命的な苦しさという普遍的なものが
伝わりにくくなるのかもしれず、なかなかいい代案は浮かばないのだが、
いずれにしろ、一首のうまいまとまり方が引っ掛かったというのか、
着地のうまさがかすかに目に付いたというのか、
そんな気がしたわけである。
そんなこんなで初めての北海道集会、出席者は道の内外から26人。
いい批評が聞けて有意義な歌会だった。
歌会のあとで懇親会があったが、そちらは遠慮させてもらい、
翌日、富良野・美瑛の方に寄り道して帰った。
美瑛の「青い池」