2017年06月

北海道集会

短歌結社の歌会が新しく北海道に出来るということで行ってきた。

ちなみに札幌と網走の間の距離って、東京と名古屋の間と同じくらいあるわけで、

同じ北海道だから簡単に集まれるというわけではなく、

今まで北海道に結社の歌会はなかったのだが、

それを作ろうという話になったということで、記念すべき第一回の歌会。

で、札幌に着き、短歌は置いといてまず羊の肉を探す。

通っている射場で7月の射会のとき、バーベキューをしようという話になっていたのだが、

北海道に行くのなら羊の肉買ってきて、バーベキューじゃなくてジンギスカンにしようと

いうことで、羊の肉を探しにいったわけである。

とはいえ、札幌のどの肉屋がお薦めか知らないので、

とりあえず大通り公園を越えて札幌三越へ行き、

ここの地下の肉屋で羊の肉を買ったのだが、

そんなことをしていたらしっかり歌会に遅刻してしまった(^^;

そういうこともあろうかと詠草を出すときに遅れる旨は伝えてあったが、

それでも思ったより遅れると気は引けるもので、

体を小さくして歌会の会場に入ったのだった。

ちなみに45分の遅刻(^^;;

で、例によって気になった歌。

誌面発表前なのでここには出せないが、

欲望が形を形が欲望を追い詰めて手は輝きにけり、

そんな歌意の歌、

いい歌である。

しかし、センサーが微妙に反応した。

歌会で選歌をするとき、なにか基準を決めて選歌しているわけではない。

ざっと詠草を読んで、センサーが反応する歌に印をつける。

それを繰り返し、印の多かった歌について、なぜセンサーが反応したのかを考える、

そういう選歌の仕方をしている。

それと同じでこの歌を読んだとき、センサーがかすかに負の方向に反応したのである。

なぜ、負の方向に振れたのか考えたのだが、歌会の最中にはそれを言語化できなかった。

というか、今でも言語化は出来ないのだが

一首を読んだとき、なんというか表現者の切迫感のようなものを感じた。

欲望が形を追い詰め、形が欲望を追い詰める。

最初の方の「欲望が形を追い詰める」は分かりやすいが、

その次の「形が欲望を追い詰め」はなかなか出ない表現のような気がする。

絵画でもいいし、彫像でもいい、あるいは詩歌・小説でもいい、なにかを表現しようと

する者が自分をぎりぎりのところまで追い詰め追い詰められ、表現してゆく、

それは表現者の宿命的な苦しみでもあるわけだが、

なにかそういうものが浮かんだ。

で、その切迫したイメージが下句で「手は輝きにけり」。

ここでなにか、引っ掛かったわけである。

どうなのだろう?

うまくまとまっているということなのかもしれないが、

そのまとまり方が気になるような気はする。

一首の切迫した感じが最後の「手は輝きにけり」という過去形で削がれた感じがあって、

過去形がいけないのかなとも思ったが、

じゃ、現在形にすればいいのかというわけでもなさそうではある。

ちなみにこの歌は大森静香さんの歌だった。

彼女は能の面を作るので、あるいはこの歌は能の面を作っているのかもしれないが、

ならば、「手は輝きにけり」の替わりに「般若」とか、

そういう言葉を持ってきたらどうなっただろうとも思ったのだが、

能の面と分かるようにする必要はないわけで、

そういうふうにしてしまうと、むしろ表現者の宿命的な苦しさという普遍的なものが

伝わりにくくなるのかもしれず、なかなかいい代案は浮かばないのだが、

いずれにしろ、一首のうまいまとまり方が引っ掛かったというのか、

着地のうまさがかすかに目に付いたというのか、

そんな気がしたわけである。

そんなこんなで初めての北海道集会、出席者は道の内外から26人。

いい批評が聞けて有意義な歌会だった。

歌会のあとで懇親会があったが、そちらは遠慮させてもらい、

翌日、富良野・美瑛の方に寄り道して帰った。

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  美瑛の「青い池」 

歌会

短歌の結社誌が届いた。

今月は届くのが遅くて、会費払い忘れて結社首になったかなと思った(^^;

で、届いた結社誌をぱらぱらと捲ると、

なかに、歌会についての記事があり、面白く読んだ。

「最近、歌会が停滞していないか」「本当に魅力ある歌会になっているか」というのが

話の発端だったらしいが、

確かに、魅力ある歌会というのは案外少ないかもしれぬ。

記事にもあったが、議論が出来ないというのが大きい。

議論が出来ないのにも、

参加者の問題、人数の問題、運営の問題、幾つかの理由はあるわけである。

参加者自身が議論をしないということは実際ある。

歌会と短歌教室を勘違いしている向きもなかにはいるし、

感想は言っても批評は出てこない、だから議論にならないということもある。

そもそも議論を好まないという人もいるだろう。

人数の問題は仕方ないかもしれない。

人数が多くなると、どうしても一首の歌にとれる時間が少なくなり、議論は出来なくなる。

歌会の進行の仕方を工夫するしかないんだろう。

運営の問題は多分にそれぞれの歌会個別の問題だからここには書かない。

かって、そういう個別の問題が目について、ひとつの歌会に定住しなくなった(^^;;

で、それはそれとして、記事のなかに歌会の注意事項のようなことが書いてある。

「下ばかり見ない」

「誰かが話しているときはその人の方を見る」

「私語をしない」

ま、「私語をしない」は当たり前のことなのだが、

「下ばかり見ない」と「誰かが話しているときはその人の方を見る」は

私はあまり実践していない。

歌会の最中、私は結構、下を見ているが、

それは話を聞いていないのではなく、聞きながら詠草を繰り返し読んでいるのである。

仕事の会議でもそうだが、下を見ているのは資料に目を通しているのであって、

さぼっているのではない。

「誰かが話しているときはその人の方を見る」も必ずしも私はやらない。

下を見たり、あらぬ方を見たりしながら聞いている。

決して、不真面目にしているのではない。話はちゃんと聞いている。

違う方を見ながらその歌について考えている。

こんなことを書くのは、

短歌をやっている人には真面目な人が多く、

誌面にこういうことが書かれると、そのうち、歌会三原則とか言い出して、

「下ばかり見ない」

「誰かが話しているときはその人の方を見る」

「私語をしない」

と教科書を振りかざすように言い出す人がいそうで恐い(^^;;;

第一、批評しているときに全員の眼がじっとこっちに向けられたら、

なにやらプレッシャーを感じそうで、

その辺はあまり肩ひじ張らずにやって欲しい気がするのである(^^

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  ほたるぶくろ

青ヶ島4

翌朝、ヘリで八丈に戻る。

天気が崩れると一週間くらい島流しになるという話だが、

幸い今回は天候に恵まれ今日も青空、予定通りの一泊二日で八丈に戻れそうだ。

いかんせん小さな島なので一日あればだいたいのところには行けてしまい、

一週間島流しになったら時間を持て余して、

青酎を飲んだくれるしかなくなるんじゃなかろうか(^^;

ヘリボートでヘリを待ちながら地元の人と話をした。

島で働いている人は公務員と建設関係の人が多いとか、

病院がないので救急の患者はドクターヘリで運ぶのだが、

八丈や大島ではなく内地まで一気に運ぶとか(「内地」と言っていた)

いろいろ教えてもらったが、

一番意外だったのは、島と八丈を結ぶヘリは島の人は安く乗れるんだろうと思っていた

のだが、観光客と全く同じ金額だということ。

伊豆諸島の幾つかの島をヘリで結んでいる東京愛らんどシャトルは日本で唯一の

ヘリの定期航路であるわけだが、特に青ヶ島の場合、観光というより生活のために必要な

航路である気がして、ならば島の住民は安い料金で使えるようにしても良さそうな

もんである。ちょっと意外だった。

ヘリが飛んできて着陸、八丈から来た人達と入れ替わりにヘリに乗り、青ヶ島を後にした。

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    ヘリが飛んできた
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  ヘリが飛んできたときは必ず駐在さんが来る

青ヶ島でずぅーっと考えていたことが二つある。

ひとつは、天明の大噴火の後、なぜ島民は島に戻ったのだろうかということ。

苦難の末の故郷の島への「還住」。

その物語は美しいが、

いつ再び噴火するかもしれない島。

小さな島で当然のことながら閉鎖的な環境での生活を強いられる島。

なぜ、そういう島に戻ろうとしたのか?

青ヶ島から八丈に戻り、八丈の民俗資料館などいろいろ見て歩いて思ったのだが、

八丈も決して楽に暮らせる島ではなかった。

台風の被害で作物が壊滅し飢餓に襲われることが繰り返された。

その点、外輪山で守られた青ヶ島の方が農業はやり易かったようだ。

19世紀、さつまいもが導入されるまで八丈は飢餓の島だったのである。

青ヶ島からの避難民も決して楽な生活は出来なかったわけで、

あるいは、ただでさえ苦しいところにやってきた避難民はお荷物として扱われたという

こともあるかもしれない。軋轢も生じたかもしれない。

「還住」の背景は「望郷」という言葉だけで説明できるものではない気がする。

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  八丈島 八丈富士と左に見えるのは八丈小島

もうひとつは、天明の大噴火の際の悲劇についての疑問。

島から脱出するとき、救出船に乗れなかった百数十人が犠牲になったという話。

近藤富蔵の書いた『八丈実記』にこういう記述がある。

「三艘ノ助舟ヲ見テ歡喜ハマタイカバカリ嬉シカリケン。一百八人ノ男女スミヤカニ舟々ニ助け乘テイソギ漕戻セバ、乘リオクレテ取殘サレシ老人、幼兒火炎ニコガサレ烟ニムセンテ岩ノウエニフシマロビ波濤ノウチニ浮沈シテ、助ケテクレヨト泣サケベト、舟ハ少サシ人ハオオシ、猛火ニ焦レ潮ニオボルル、苦シミヲ見ル見ル殺スゾ是非モナシ、大凡一百三四十人ノ死亡ト覚タリ。青ヶ嶋盡ク燒亡スルニヨリ在住ノ長幼二百二人八丈エ遁レ渡シ者共、知己ノ家々ニタヨルト雖トモ衣食ニ困乏セリ」

この記述から、天明の大噴火の悲劇として語られ、それが定説になったわけで、

私も青ヶ島について調べていて最初この定説を読んだ。

しかし、調べていくと、実はこの話は『八丈実記』にしかなく、

当時の公文書にも民間の資料にも載っていないのである。

近藤富蔵は千島を探検した近藤重蔵の倅で1827年に島流しで八丈にやってきた。

実際に『八丈実記』を書いたのは1848年から1860年にかけてであり、

噴火があってから60年以上経ってから書かれたものである。

一方、噴火当時の公文書や民間の記録には、

島民が全員無事に救出船により八丈に逃れたという記録があるのである。

どっちが正しいのか?

救出の際の不手際を公文書が載せなかったという可能性はある。

しかし、実際にそれだけの悲劇があったのなら民間の資料にありそうなものだが、

それがないというのはどういうことか?

あるいは『八丈実記』の悲劇は物書きがたまにやる粉飾・捏造の類だったのか?

ちなみに、噴火当時の文書で、焼死よりも餓死が多かったという記録がある。

火山活動が始まったのは大噴火の数年前からで、田畑には火山灰が積もった。

農地はかなりの打撃を受けたはずで、そのため餓死者が多く出ていたらしい。

焼死というのは、大噴火2年前の噴火による死者14人のことだろうか。

噴火前の島の人口と八丈に脱出できた人数の差がどうなったのか、

「定説」では救助船に乗れなかった悲劇があり、

噴火当時の記録では、島民の全員脱出とそれ以前の餓死が多かったという記録がある。

真相は今となっては分からないのかもしれない。

ネットでたままた見つけた青ヶ島、

いろいろなことを思った旅だった。

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   写真では見えにくいが八丈島からは天気の良いとき海の彼方にぼんやりと青ヶ島が見える

青ヶ島3

地熱サウナの建物の手前に地熱釜があり、地下から出てくる蒸気で食べ物を蒸すことが

出来る。そこに宿でもらった昼飯のおかずの野菜とくさやを入れ、

出来上がるまでの時間で丸山に登る。

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   地熱釜
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 中はこんな感じ、地下から出てくる蒸気で食べ物を蒸す。

地熱釜からちょっと行ったところに丸山の遊歩道の登り口がある。

登る人が少ないのか遊歩道の登り口のあたりはかなり草が茂っていた。

たいした登りでもなく丸山の尾根道に出る。

青ヶ島の二重カルデラの内輪山が丸山。

1785年の大噴火の前はこの丸山はなかったわけで、ここには真水の池があった。

そこが噴火して火口丘ができ、さらにその内側が陥没した。

ぐるっと歩いて30分くらい。外輪山と内輪山の間には結構深い森があり、時折、

外輪山の向こうに海が見えたりする。

丸山の内側も森になっているようで鬱蒼として見通せなかった。

ほとどきすが多くて、うるさいくらいに聞こえてくる。

ほととぎすは八丈島から来たのだろう。青ヶ島まで通うのだから、

「鳥も通わぬ八丈」というのは嘘だということか(^^;?

丸山を降りて、地熱釜に戻る。

ちょうどいい塩梅に出来上がっていて、東屋で、宿のおばちゃんから貰ったおにぎりと一緒

に食べる。くさやが思ったよりは臭くなかったが、それでもやはりちぎって食べていると

指が臭くなってくる。

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  丸山の遊歩道、内輪山の尾根をぐるりと一回りできる。
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  内輪山から外輪山とその向こうの海
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  丸山の尾根の一角にある御富士様
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  地熱釜で蒸した昼食

昼食を終え、カルデラの外に出る。

ちなみにこのカルデラ内には人は住んでいないようである。

港の建築のための資材を作っているらしいところとか畑はあるのだが、

住んでいるらしい家はない。

天明の大噴火の前はこのカルデラ内に人が住んでいたらしいが、

今ではカルデラの外に住みカルデラの中で畑を作る、そんなふうに変っている。

大噴火の教訓からカルデラ内に住まないのだろうか?

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   カルデラ内からの丸山、縦筋は昔、椿油をとるために椿を植えた跡

それはそれとして、青ヶ島の道路は急坂の連続である。

登ったり下ったり、軽のバンではかなり苦しいような急坂も多い。

エンジンをうんうん言わせて坂をのぼりトンネルを抜けてカルデラの外に出た。

島で唯一の信号を曲がって急な坂を上ると青ヶ島小中学校がある。

休日なので学校には誰もいなかった。

その少し先の道端に「還住の碑」がある。

青ヶ島への帰還と復興を指導した名主、佐々木次郎太夫の碑である。

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  「還住の碑」わりと小さい

その先の道路が狭かったので、道を戻り、大凸部に向かう。

大凸部は青ヶ島の外輪山の一番高い所、標高423m

車で入れるところまで入り、そこから歩くと古い鳥居がある。

その鳥居の横の階段をのぼってゆくと大凸部。

確かに眺めの良いところで、青ヶ島のカルデラを一望できる。

この島は海の真ん中の噴火口なんだということがよく分かる風景である。

振り返ると彼方に八丈島が見える。

青空をアマツバメが鮮やかに飛んでいる。

宿に戻り、風呂で汗を流し、ひと休みののち夕食、

島寿司と青ヶ島の焼酎、青酎が美味しかった。

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  大凸部からの眺め。外輪山に囲まれた噴火口だということが分かる
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  宿の近くから、夕日
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  青酎と島寿司

青ヶ島2

青ヶ島は八丈島の南70kにある火山島。

海底から聳えている火山のカルデラ火口の部分だけが海面上に出ている、

そういう島である。

島の周囲は断崖になっていて、港は三宝港のみ。

港はあるが、海がすぐ深くなっているので防波堤が作れず、波が荒いと接岸できない。

そのため八丈からの船の就航率は低い。

八丈から定期航路のヘリが飛んでいるのだが、

9人乗りで座席が少なく予約がなかなか取れない。

つまり、アクセスの厳しい島である。

ちなみに青ヶ島には住所がない。郵便は名前で配達される。

人口は160数人、全島で青ヶ島村という日本で一番小さな地方自治体である。

有権者は130数名、6人の村会議員がいる。

青ヶ島小中学校があり、中学生は6人、小学生の人数は聞かなかった。

15世紀あたりから古文書に島の名前が出てくるが、海難事故に関するもので、

いつ頃から人が定住するようになったのかは分からない。

しかし、外輪山で囲まれたカルデラの内側には昔、真水の池があって田圃を作ることができ、

外輪山が風除けになり台風の被害からも守られたので、

島に人が住むようになってからは、

飢餓の島と言われた八丈島よりも食糧事情は良かったらしい。

1785年、この島に悲劇が起きた。

数年前から活動を開始していた火山がこの年、大噴火を起こし、

327人いた島民のうち、八丈島への脱出が遅れた130数人が犠牲になった。

その後、無人島となっていたが、

40年後、後世に「還住」と言われる島への帰還と復興に成功する。

ネットで異形の島の写真を見て、

この島はどういう島なんだと調べて、そういうことが分かった。

で、それはそれとして、島に降り立ってみて、最初に違和感を覚えたのは、

ヘリポートのすぐ隣が墓場ということ(^^;

というか、ヘリポートの事務所はお墓と隣り合っているし、

集落からは墓の間の道を通ってヘリボートに行く感じである。

たぶん、ヘリポートを作ることになったとき、

集落からそれほど離れず、かつ平らでテキトーな広さの土地というのが、

墓場のあたりしかなかったのだろう。

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   ヘリポートにあった青ヶ島の案内、周囲はお墓。

頼んであったレンタカー
(軽バン、青ヶ島ではこれが一番多い車)に乗り、
宿泊先のあおがしま屋に行く。

青ヶ島には食堂がないので外で昼飯は食べられない。

だから青ヶ島の宿泊(すべて民宿)は三食付きである。

宿のおばちゃんが、最初に地熱サウナに行って地熱窯に昼飯を入れろ、

30分から40分くらいで出来るので、出来るまで周囲を歩いて、昼食を摂ってから

観光をするといい、と言う。

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  今回泊まった民宿あおがしま屋

で、言われたままに行ってみるのだが、集落からトンネルを抜けてカルデラの内側に

入るまでは分かったが、そのあとが道が分からない。

「牛の餌の上に小さな看板があるからそこを左」という、おばちゃんの案内を聞いたときも

良く分からなかったのだが、案の定、分からなかった。

気が付くとトンネルが出てきて、それを抜けると三宝港。

そのまま港を見る。
港には大きなクレーンがあって工事をしていた。

もう何年もかかって港の拡張工事をしているらしいのだが、難工事のようである。

漁船は海面からクレーンで釣り上げられて道路の脇に保管される。

防波堤がなく波が荒いので、港に置いておくと岸壁に叩きつけられて船が壊れるのだろう。

ちなみにあとで島の人に聞いた話では、漁業では食べられないらしい。

魚は沢山いるのだが島外に出荷できるのは定期船がきたときだけで、

島内は人口が少ないので沢山獲っても売れない。だから漁業では食えないらしい。

港の周囲は断崖が迫り、崩壊しないように斜面を要塞のようにコンクリートで固めている。

道を戻って地熱サウナを探す。トンネルを抜けて再びカルデラのなかに入り、
地図を見て、こっち行けばいいんだろうと行ってみると、

オオタニワタリがうじゃうじゃと生えている森を抜けて、地熱サウナに出た。

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   三宝港
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   少し離れたところの岸壁、この岸壁からでも大物が釣れるらしい。
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  港よりかなり高いところに漁船が係留?されている。上のクレーンで海面に降ろす。
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  オオタニワタリの森を抜けて辿り着いた地熱サウナ

青ヶ島

三年前の冬、下田の友人と伊豆山稜線を歩いていたとき、

富士山と正反対の方向の尾根の向こうに、

雪を被った富士山の頂上部分のような山が顔を出しているのが見えた。

「あれはどこの山だ!?」
思ったのだが、考えてみれば、それは方向からして伊豆大島の三原山なのだった。

雪が積もっていたので、普段の三原山とは全く違うイメージで見えたのだった。

で、三原山に行こうということになり、翌年、大島の三原山に登りに行った。

その帰り、大島からの帰りの船のなかで、伊豆諸島の島々を紹介する写真があり、

それを見ていて、神津島の天上山が目に止まった。

その本州の山とは雰囲気の違う様子に憧れて、次の年は神津島に行った。

で、神津島からの帰り、下田の友人の家でネットを見ていたとき、

青ヶ島が出てきた。

「なんだ、この島?

それが島の全景写真を見たときの最初の印象だった。

「この島、凄いと思いません?」と振り向いて友人に言ったら、

「なんていう島?」

「青ヶ島」

「鬼がいるの?

「それは鬼が島」

で、行こうということになった。

青ヶ島へのアプローチは二通り。

ひとつは八丈島からの定期船。

しかし、青ヶ島の港には防波堤がなく波が荒いときは接岸できず、就航率は50%

もうひとつのアプローチは八丈島からのヘリ。

こちらの方は確率は高いが、天気が悪いとやはり欠航するので、

一度島に渡っても帰れなくなり、しばらく島流しになる覚悟で行かないと行けない島。

調べてみると、そういう島なのだった。

羽田から八丈は飛行機で50分。

八丈島から青ヶ島へのヘリは一が月前から予約できるのだが、これがなかなか取れない。

ところが取れた。

で、羽田から八丈、そしてヘリに乗り、青ヶ島に向かう。
しばらくしてヘリの窓から見えてきた青ヶ島は、

海底から盛り上がった火山の頂上部分だけが海面に出ているような島である。

ヘリの窓から島を見たときの率直な感想は、

「すごいところに来ちゃったな」というものだった。


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     飛行機の窓から三宅島
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  八丈島着
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  このヘリで青ヶ島に行く、9人乗り
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  青ヶ島が見えてきた
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  ネットで出てくる写真は撮影のために飛んだのか、
 今回のヘリの航路からはこういう写真は撮れなかった。
 仕方ないので島のヘリポートの事務所にあった島の全景の写真をパチリ。
 この島の全景写真をネットで見て、「なんだこの島!?   行ってみよう」ということになったのだった。

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