ひさしぶりに湘南での歌会。四か月ぶりくらいかな?
湘南での歌会に出るとき、いつもは午前中に鎌倉を歩いてから歌会に行くのだが、
今日は雨だったので、昼から歌会に直行した。
で、気になった歌。
例によって誌面発表前なのでここには出せないが、
エレベーターでインターホンのボタンを見つめつつ『疲れました』と救援を呼ぶ、
そんな歌意の歌。
この歌について、下句が「『疲れました』と救援を呼ぶ」だから本当に救援を呼んだ
のだろうという読みが提示され、他の出席者にも聞いてみたら、
半分ほどの人が同じように「本当に救援を呼んだ」と読んでいて、
「救援を呼んだ」派と「救援を呼んでいない」派で歌会での意見が真っぷたつに分かれた。
正直、この歌が「本当に救援を呼んだ」と読めるのかと驚いた(^^;
歌の表現は「ボタンを見つめつつ」『疲れました』「と救援を呼ぶ」である。
作者はエレベーターのインターホンのボタンをじっと見つめているわけで、
ボタンを押してはいない。
しかも、それに続く『疲れました』は『』であって「」ではない。
つまり、「疲れました」という普通のカッコ書きならば、それは台詞であるかもしれず、
作者がインターホンに向かって話しているという読みも出てくるかもしれないが、
あえて「」ではなく『』を使っているのは、
これが作者の独白あるいは心の声であることを示しているのではないか?
エレベーターのなかでインターホンのボタンをじっと見つめている作者、
次の瞬間、歌は作者の心象に変わり、
心のなかで作者は『疲れました』と救援を呼んでいる。
それはあくまでも作者の心の中の話であり、
作者が具体的行動としてインターホンのボタンを押して外部に救援を求めているわけ
ではない。
そう読むのが妥当である気がして、
「本当に救援を呼んだ」という読みにはかなりの違和感を覚えたのである。
で、なんで、そういう読みが出てくるんだろうと考えた。
なんというか、歌を散文のように読んでいるのではなかろうか?
簡明に事実を伝えるような文章として歌を読んでしまえば、
そういう読みは出てくるのかもしれないが、
歌は単に31文字で情報を伝えているだけなのではないわけで、
その表現から伝わってくるなにものかを「感じ取る」ことが大切なはずである。
そして、その表現のなかに「感じ取る」なにかがあって、
初めて短歌は31文字以上のことを伝えることが出来る気がする。
詩と散文は違う。
短歌を散文のように読んでもそれでは短歌を鑑賞できないと思うわけである。
アーチェリーの射場で今年初めてのタケノコの収穫