宮城県石巻市立大川小学校。
2011年3月、東日本大震災の津波がこの学校を襲った。
在校生108名のうち74名が死亡するという、
学校での災害としては戦後最悪のものとなった。
津波が学校を襲ったのは地震が起きてから50分以上経過してからである。
その間、子供達は校庭に待機させられた。
津波が襲う7分前、市の広報車が学校の前を通り、
津波が来るから避難しろとスピーカーで呼びかけた。
それでようやく教師達は、その市の広報車が停まって「ここから逃げろ」と
叫んでいる北上川に架かる橋のたもとに子供達を避難させることにした。
被災後、石巻市は、
「周囲で一番小高い高台に子供達を避難させようとした」と記者会見で発表したが、
実際はそこは周囲で一番高いところではないし、普通の日本語で「高台」とは
言わないところである。ただの堤防の上、橋のたもとである。
私は震災の翌年、大川小学校を訪れた。
水の豊かな北上川沿いを走ってゆくと、
川の両側に、流されてそのままになっている漁船があったり、破壊された家が現れたり、
だんだん、そこが被災地であることがあきらかになってくる。
そして、正面に北上川の河口が現れた。
地震で北上川南岸が地盤沈下して水没しており、
そのため、北上川の河口は以前より大きくなっている。
靄の向こうに小高い両岸の影が黒く浮かび上がり、
それはまるで海が大きな口を開けているようで、不気味な光景に見えた。
そこに、大川小学校はあった。
赤茶けた土が剥き出しになり、重機が何台か停まっていた。
静かな場所だった。
学校の廃墟の向こうに裏山があった。
津波のとき、そこに避難できなかったのかと言われた裏山である。
倒木があるから避難できないといわれたが倒木はどこにも見えなかった。
津波が来たとき、危険で登れないと言われた裏山だが、
実際は子供達が理科の植物採集などで当たり前に登っていた裏山だった。
74人の子供達が死んだ現場に立ったときの気持ちは今でも忘れることが出来ない。
「なぜ?」
そのときの気持ちを表すのはその一言である。
なぜ、ここで74人の子供達は死ななければならなかったのか?
地震では一人も死んでいない。
地震から50分以上経ってから津波で死んだ。
しかし、津波から逃れることの出来る裏山はほんのすぐそばだし、
スクールバスも避難のために校庭に待機していた。
それなのになぜ?
子供達が避難した「高台」は高台ではない。
北上川の堤防より低い学校から堤防に上がって道路に出たところ、
そういうところを高台とは言わない。そもそも周囲にもっと高いところは幾らでもある。
なぜ、こんなところに避難させようとしたのか?
被災後の石巻市と教育委員会の対応も分からない。
被災直後、生き残った子供達の証言が集められたが、
その後の報告に子供達の証言は反映されなかった。
そして、彼等は子供達の証言の記録を破棄した。
ひとり生き残った教師がいるが、
遺族が起こした裁判で彼が書面で出した証言は、子供達の証言と矛盾していた。
しかも、彼は出てこない。津波の後、行方不明である。
先日、裁判の判決が出た。
遺族の主張を全面的に認め、石巻市と宮城県に賠償を命じた。
そして、昨日、石巻市は控訴の意志を明らかにした。
市や教育委員会には彼等なりの言い分はあるのだろうが、
一番求められているのは、
「真実はどうだったのか」
そういうことではないのか?
控訴するのならば、そういうことをはっきりさせてほしい。
そのとき何があったのか?
なぜ、子供達は死ななければならなかったのか?
それを明らかにすることが、本当は一番大切なことなのであろう。
その覚悟があるのならば、
石巻市も宮城県も控訴すればいい。
そして、はっきりさせて欲しい。
そうではなく、ただ責任を回避したいのならば、
恥を知るべきである。
星川、ビジネスパークのオブジェ。
船だろうか、そのうえの人の形