2016年05月

消費税増税延期

消費税の増税が201910月まで延期されるらしい。

いろいろと話は出ているが、

延期には賛成である。

昔々の明治大正の時代ではないのだ。
一国の経済は世界経済の動きと切っても切れない。
世界経済がどうも気持ち悪い。
特に中国。
中国発のリーマン級のショックがいつ起きても不思議でない気がして、
どうも落ち着かない。
もちろん、2年と半年経てばそれがなくなるという保証はないわけだが、
今は消費税を上げる時ではない気がする。
野党はアベノミクスの失敗と騒ぎ立てているが、
状況を見て判断するのは当たり前のことである。
そもそも一国のアベノミクスで世界経済を変えられるわけでもないし、
失政に失政を重ねたお前らが言うなという気はする(^^;

延期に賛成の理由はもうひとつ、軽減税率である。

2年半延期して、その間に頭を冷やして軽減税率についてもう一度考えた方がいい。

マスコミはえてして受けのいい報道ばかりする傾向があるので、

軽減税率がいいという方向の話が多くなるわけだが、

軽減税率の問題というのはいろいろあるわけで、

その先進国であるヨーロッパでも、

そのために軽減税率導入の国と導入しない国が拮抗している。

生活者のために食料品の税率を軽減しても、

その事務負担の増加はいずれ価格に転嫁することでコスト増を吸収するしかないのである。

さらに、軽減した分の財源はどこかに求めなければならないわけで、

結局、生活者はそのコストを負担しなければならない。

それならば、ばら撒きということで批判された低所得者への還付制度の方が

よっぽど有効であろう。

マスコミや政治家が宣伝したほど、軽減税率は単純ではないし、有効でもない。

2年半の間に頭を冷やしてもらい、その辺を考えて欲しいという気はする。 

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      シロツメクサ

バッチ

税理士会の支部の幹事会で妙なものが配られた。

トッチー君のバッチ。

トッチー君というのは、東京地方税理士会のゆるキャラである。

本会で作って支部に配ったらしい。

ところが、予算の関係で会員全員の分は作れなかったようで、

支部の幹事にだけ配り、幹事はこれをできるだけ着用するようにということらしい。

トッチー

金の使い方知らないんだな...(^^;

誰がこんなもの付けて仕事すると思ってるのか?

ちなみにそのあともう一回幹事会があったのだが、付けていた人いなかった気がする。

注意してひとりひとり見てたわけじゃないのでよく分からんが。

どうせ配るなら、支部に置いといて、

税務相談や租税教室で使うとか工夫はありそうである。

租税教室で、「このバッチ分かる? これはトッチー君といってね」とか、

ゆるキャラを喜ぶ子供達相手なら話のネタくらいには使えそうである。

そういうこと考えないで、全員に配る予算がないから幹事にだけ配って、これ使えって、

なんなんだろう?

予算が余ったからバッチでも作ろうかということだったのかもしれないが、

役人じゃないんだから、余ったのなら次期に有効に使えばいい。

税理士会に限ったことではないが、

人が集まればそのなかで役をやりたがる人間というのはいるものである。

肩書が欲しいのか名誉職が欲しいのか。

そういう向きのやることって、よく分からん。
もちろんそういう人間ばかりではないはずで、

義務感を持って会務をやっている人は大勢いるのであって、

はっきり言って、肩書や名誉職が欲しい向きと一緒にされたくないわけである。
もう少しまともな金の使い方をして欲しい。
このバッチにしても会員の支払った会費を使っているのである。
ガッカリさせないで欲しい。

結社誌

短歌結社の今月の結社誌が届いた。

ぱらぱらと斜め読みしていたら、

今月号は豊穣祭が載っていた。

豊穣祭というのは、結社に入会10年、20年、30年の節目の人達を紹介する欄。

本人が写真と歌数首、簡単な文章を出してそれを載せる。

へぇ~、この人、結社に入ってこれくらいの年数なんだ、とか意外な人もいる。

湘南の歌会の中心である小林信也さんは入会20年。

30年以上結社でとぐろを巻いているのかと思っていたのだが、案外短いんだ(^^;

ちなみに私は数年前に入会10年だったはずなのだが、

豊穣祭には出さなかった。

私が10年になる少し前までは、結社の方から、

あなたは10年目ですので豊穣祭の原稿を御願いしますとかいう連絡があったらしい

のだが、私のときにはそれがなくなっていた。

結社に入って何年とかいちいち数えていないので、

気が付いたら10年過ぎていたという感じ。

もっとも、10年と気付いていても出さなかっただろう。

ぱっとしない顔を結社誌に晒してもしょうがないし、

毎月の詠草以外には特に歌だの文章だの出そうと思っていない。


今月の横浜の歌会に参加していた、高校生から短歌をやっているという新人。

最初、話を聞いたとき、高校生から短歌をやるなんてのは、

かなりの変人かエイリアンみたいなやつかと思ったのだが、可愛い女の子だった。

ま、そんなことはどうでもいいのだが、彼女の歌も誌面にあった。

  英文にスラッシュ入れずに読むようにともだちだったひとを罵る

  指先に楡の悲哀をにじませて白い画面に触れる 逢いたい

  もうちょっと君と話していたいのに急行列車はつくづく憎し

                           / 海老茶ちよ子

 「もうちょっと」の歌は素直で好感もてるけど、歌としてはよくあるパターンかも

しれない。「英文にスラッシュ」は面白い。「楡の悲哀」も上手い。

  楡の樹に楡の悲哀よ きみのうちに溶けてゆけない血を思うとき

                            / 永田和宏

 こういう作り方はあって当然、河野裕子も「すべての歌は本歌取りです」と言った。
というか、高校に入ったぐらいの年で永田和宏を読んでいるということか...。
先日の横浜の歌会でも、しっかりとした批評をしていた。
ちなみに当日、私が選歌した2首のうち1首は彼女の歌だった。もう1首は岡部史さん。
歌会に出て勉強してもらうといいと思うのだが、
ひとつ言うことがあるとすれば、
歌会での批評を鵜呑みにしないことである。
批評は聞き分ける。
聞くべき批評は聞き、聞かなくていい批評は聞き流す。
歌会って、結構、聞かなくていい批評に満ちている(^^;;
総評だって時には怪しいもんである(^^;;;
自分で聞き分け、自分を信じる。
ま、ここでこんなこと書いたって、彼女読んでないと思うけど、
若い才能をぜひ伸ばして欲しいと思う。

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   新しい弓が届いた

世界同一賃金とトランプ

3年前、ユニクロの柳井正が世界同一賃金をぶち上げた。

衝撃的ということでいろいろ取り沙汰されたが、その後どうなったのかあまり聞かない。

現実問題としてなかなか難しくて、進んでいないということなんだろうか?

正直言って進まないでいいと思う。

グローバル化の行き着くところ、新興国の安い賃金が標準になっていくというのは、

その通りだろう。確かに新興国の実力のある人材は登用の機会を得、それは企業にとっても

利益になるはずだ。しかし、柳井正が言ったように、年収1億円と百万円に分かれ中間層が

いなくなったとき、年収百万円の圧倒的多数の人はどうするだろう?

満足な暮らしもかなわず社会への不満と怒りを抱く圧倒的多数が生まれるのである。

それが社会をどう変質させていくか?

今年のアメリカの大統領選挙がそのひとつの答えである気がする。

トランプやサンダースを支持しているのは、広がる格差に不満を抱いている層であろう。

トランプの主張は尋常ではない。

その尋常でないものが広い支持を受ける。

柳井正の言った「将来、年収1億円と百万円に分かれる・・・仕方ない」。

その仕方ないということがもたらす結果のひとつが、この尋常でない現象である。

ヒトラーも社会への不満を抱いたドイツ国民の支持を受けて権力の座に着いた。

尋常でないトランプが広い支持を受けるように、

格差への怒りは冷静な思考を否定し、いつかファシズムへの扉を開く。

かつて社会主義の問題が明らかになってきたとき、

ドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を唱えた。

資本主義の暴走の問題が顕在化している今、必要なのは、

「人間の顔をした資本主義」だろう。

資本主義の暴走に歯止めをかけなければ、

未来は暗いものになるのかもしれない。

柳井正は、世界同一賃金をぶち上げたとき、そういうことに思いをめぐらしただろうか?

トランプを見ながら、なぜか3年前の世界同一賃金を思い出したのだった。

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      猫のいる風景 

巻機山

ゴールデンウィーク、巻機山に行ってきた。

残雪期の上越の山々は若い頃よく歩き、ちょっと思い入れのある山域である。

道のない稜線も残雪期ならば自由に歩けるわけで、

利根の源流を巡る山なみはほぼ歩いた。

子供が生まれ、あまり山に行けなくなってからは裏巻機の五十沢キャンプ場で

子供達とゴールデンウィークを過ごした。

五十沢のキャンプ場からはこの時期、白く輝く裏巻機の雪の斜面が望め、

バーベキューをしたり釣りをしたり温泉に入ったりして楽しんだものだ。

子供も大きくなり、久しぶりに上越の山へ向かった。

関越道の塩沢石打で降りて清水の集落へ走る。

その途中でちょっと、というよりかなり驚いた。

雪がない!(^^;

走っていると正面に八海山が見え、右に巻機山が見えるのだが、

両方ともかなり雪が少ない。

かつて若い頃歩いた残雪の山も、子供達と過ごしたゴールデンウィークの

五十沢キャンプ場から見上げた裏巻機の雪の斜面も、

なにもかも幻かというくらいに雪がない!(^^;;

温暖化か、あるいは今年だけ特別に少ないのか?

若い頃の山行の感覚で言えば五月の末くらいの残雪の量? それくらいのイメージ。

残雪の山を楽しみに来たのに、これはどういうことだと思いつつ、

清水の集落から登山口の桜坂の駐車場に行くのだが、

例年この時期咲いている桜もすべて葉桜。

ちょっとがっかりしたまま用意をして井戸尾根を登る。

隣のヌクビ沢は残雪に埋まっていれば頂上への楽しいルートになるのだが、

雪は沢筋に中途半端に消え残り、水流がはっきり見える。

夏道むき出しの登山道では雪山用の登山靴がやけに足に重い。

それでも5合目から上に登るとようやく雪が出てくる。

タムシバ、マンサク、ショウジョウバカマ、春の山の花もところどころにあらわれる。

雪は少ないが、ようやく残雪の山の気分が少し味わえた。

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  五合目から米子沢 米子沢も雪が殆どない
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  井戸尾根を挟んで米子沢と反対側のヌクビ沢
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  上の方は風で雪がとばされていて残雪が中腹より少ない

上から降りてきた人が「頂上は凄い風です」と言うのだが、

確かに、時々轟くように風の音がして木々が揺れる。

これは森林限界から上はかなり風に叩かれるだろう。

天気は崩れてきているようだ、風はどんどん強くなる。

振り向くと上越の山なみが暗い雲にどんどん覆われてゆく。

だでさえ風で雪が飛ばされる山の上の方はだいぶ夏道が出ていて、雪は沢沿いに少し

残っているぐらいの感じだった。

こんなに雪が少なくて大丈夫なんだろうか?

雪は自然のダムである。

春まで雪が山に水を溜め、雪解けとともに豊かな水を下の平野にもたらす。

それがこの辺りでは魚沼のコシヒカリを育てているわけだが、

これだけ雪が少ないと米作りにも影響するんじゃなかろうか?

そんな心配までしてしまう。

風に叩かれ3時でタイムアウト。

渋滞に巻き込まれ出発が遅かったので頂上までは行けずニセ巻機の下から下山開始。

雪の斜面はすたすた下れるのだが、雪の消えた夏道は冬用の登山靴だと歩きにくい。

それでも440分に桜坂の駐車場に戻った。

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  マンサク
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  タムシバ
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  ショウジョウバカマ

今日はこのあとは越後湯沢の温泉に泊まる。

のんびり風呂に入り、夜は越後のおいしい日本酒を楽しんだ。

ちなみに、「鶴齢」の生酒は美味しい。

翌朝、ホテルの前で山菜を売っていたので、コゴミとこしあぶらと木の芽を買った。

天ぷらにしたり湯がいてそのまま食べても旨い。

朝のうちは雨が降っていたが、だんだん天気が良くなり新緑の山が綺麗だ。

雪は少なかったが、春の山を楽しんで帰ってきた。

歌会

ひさしぶりに横浜歌会。

例によって気になった歌。

発表前なのでここには出せないが、

音無しの構えに似て白鷺が沼に来て佇つ。

そういう歌意の歌。

当日は「音」の題詠で、この歌は選歌で最高得点の歌だった。

最高得点の歌だけあって、歌会での批評は概ね好意的だったのだが、

私は、この歌を評価できなかった。

まず、「音無しの構えに似て」という初句二句、

この部分を含め一首全体が綺麗ということで好評だったのだが、

水辺で鷺がじっとしている姿を「音無しの構え」というのは比喩がかなり平凡ではないか?

「音無しの構え」というと小説『大菩薩峠』の主人公の剣客とかが浮かぶわけだが、

いずれにしろ、相手が動くまでじっと動かない、そういう姿勢である。

それって、じっとして動かない鷺の姿そのまんまではないか。

この平凡な比喩が一首の瑕であると思うわけだが、

その辺の指摘は歌会では全く出なかった。

もうひとつ気になったのは、結句の「佇つ」。

「立つ」ではなく「佇つ」である。

なにかこう侘しさを漂わせた「佇つ」。

「佇つ」って、そういう寂しさを受け入れて佇んでいる、そういう感じがするんだが、

白鷺が佇つ...。

まぁ、恰好はいいけど、意味持たせすぎてないか?
なにかそういう恰好良さに引っ掛かってみな選歌しているような気もするんだが...。
「来て佇つ」というのも問題なわけだが、これについては歌会でも指摘されていた。
そういうことで、この歌については指名されないまま黙っていたのだが、
歌会での批評を聞きながら、ちょいと釈然としなかったのである。
それはそれとして、久しぶりの横浜歌会、新しい人が増えて活発になっていた。
しばらく前、高校生が参加したという話は聞いていて、
高校から短歌をやる人って、どういう人なんだろう? 余程の変人かエイリアンみたいな
やつかなと思っていたら、とんでもない話で可愛い女の子だった(^^;
横浜歌会は自由な雰囲気の歌会である。
短歌を始めて最初に出席した歌会が横浜歌会だったのは幸せだった。
自由にものが言え、遠慮なく意見を戦わせることが出来、
そして歌会の中心、岡部史さんの深いところから掬ってくるような総評。
たぶん、結社の関東の歌会で、勉強するなら横浜にまさるところはない。
若い新しい人にもしっかり勉強して欲しい。

話変わるが、当日の歌会で、他の歌会での歌集の批評会の案内があった。

案内のチラシを見たら、参加者全員に歌集から5首選んでもらい、1人5分の時間で
全員に話してもらうようなことが書いてあったので、チラシを配っていた人に、
「批評会の遣り方が基本的に間違ってないか?」
とまた余計なことを言ってしまった(^^;;
批評会が3時間くらいとして、20人出席で1人5分なら100分、30人なら150分。
いずれにしろ批評会の半分以上の時間がそれで潰れる。
それでパネリストの話とか本人の挨拶とかの時間を考えたら、
意見交換の時間はかなり少なくなる。
前もって参加者が5首選んでコメントを添えて出しておくという方法自体はいいと思う。
しかし、それならば司会がそれを見ながら、
「〇〇さんからこういう意見が出ています。〇〇さん、ちょっと御願いします」
「そういう意見が出ましたがそれに対し御意見ありませんか?△△さん、いかがでしょう」
そんな感じで、どんどん意見を引っ張り出していく。
そうやって内容のある意見交換が出来ればいいわけで、
前もって出してもらう選歌もコメントもその材料として使えれば有益である。
しかし、そうでなくて単純に参加者全員が選歌して発言しましょうという形でやると、
同じ歌を選んで、「心に沁みました」「いい歌だと思います」「出版おめでとうございます」
全員の話が終わるまで、そういう話を延々と聞くことになるかもしれないわけである。
小学校の学芸会ではないのだ。
全員にセリフがないと不平等になるとか、そういうことは関係ないわけで、
学校の秀才が尊重しそうな平等主義は
短歌の世界には無用である。
と思ったわけだが、
自分はその批評会の日は都合があって参加できないのである。
自分が参加しない批評会の遣り方にとやかく言うこともないわけで、
あとから、言わなくていいこと言ったなと一応後悔はしたのである(^^

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  先日、釣りのついでに見せてもらった2200万のクルーザーの操縦室
 白いテーブルの向こうを降りてゆくとソファやベッドがある。
 レンタルでハイシーズンは10万とか

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