2016年03月

企業版ふるさと納税

今年の確定申告、今までとちょっと違ったのは、

ふるさと納税がかなり増えたということ。

制度が拡充されて節税効果が大きくなったということで、

結構やっている人が多かった。

で、そのふるさと納税、28年度の税制改正で企業版ふるさと納税というのが導入される。

早速、顧問先でその相談があったのだが、

あまり奨めなかった。

個人のふるさと納税はそれなりの節税効果もあるし、

通信販売かと思うぐらいの謝礼の品物があったりして、すっかり定着した感がある。

で、企業版のふるさと納税。

ネットでは「節税に有利」とかいろいろ書かれている。

節税に有利ね...

試しに計算してみる。

法人税や法人地方税合わせて概算の実効税率30%とする。

ふるさと納税というのは基本的には寄付金なのだが、

今までも企業がしかるべき寄付金を支出した場合、寄付金としての損金算入があった。

10万円寄付して全額損金算入になれば、実効税率30%3万円税金が減る。

それが28年度の税制改正の企業版ふるさと納税では、今までの損金算入の他に、

30%の税額控除を認めるという。

つまり、今までの10万円寄付して3万円の節税効果プラス3万円の税額控除である。

合わせて6万円の節税効果。

なるほど、これだけ見ればネットで紹介されている通り「節税に有利」である。

ただ、ホントにそうなのか?

10万円寄付して6万円の節税つまり結果的に節税効果としての6万円が手元に残る。

一方、10万円の寄付をしなかった場合3万円の税金。差し引き7万円が手元に残る。

これを「有利」というのだろうか?
もちろん、企業の社会貢献とかそういうことはあるのであって、

そういう考えからする寄付は別である。

ネットで書かれているような「節税効果」という点から考えている。

手元に残る資金がたいして変わらず、
かつ、寄付というのは資金投下に対するなんらかの効果を期待するものでもない。
「節税効果」としてはあまり有効ではないのではないか?
決算対策としての節税という場合、
我々税理士は、企業の今後につながる形での節税を提案する。
そのために資金投下をし、それを節税につなげる。
企業版ふるさと納税はそういう点ではあまり意味がないだろう。
寄付というのは、見返りを期待しない行為であり、
企業の社会活動として考えるものであろう。
それであれば、充分に意味のあるものであるはずだ。
今後、ふたたびどこかで大きな自然災害があるのかもしれず、
そういうとき、企業からの支援の受け口としても企業版ふるさと納税のような制度は
充分意味があるだろう。節税ではなく企業の社会貢献として、良い制度が作られたと思う。

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   横浜某所   水芭蕉の芽吹き
  横浜で水芭蕉が自生しているのは知る限りではここだけ。
  昨年まで一株だったが、今年は数メートル離れたところにもうひとつ
  水芭蕉らしい芽吹きがあった。

タケノコ

通っているアーチェリーの射場、タケノコの季節である。

射場を回っていても、タケノコが出ていないかとついつい足元に目がいく。

この射場のタケノコは美味しい。

タケノコには雌と雄があって、鶏冠の黄色いのが雌、緑が雄で、雌の方が美味しいという。

かと思えば、雌・雄の区別はなくて、若いタケノコの鶏冠が黄色いのだと言う人もいる。

どっちがホントなのかよく分からぬ(^^;

確かに、早い時期のタケノコは若いタケノコが多いゆえか鶏冠の黄色いのが

多いような気がするが、

ある程度時期がいって大きくなったタケノコでも鶏冠が黄色いのは黄色い。

どっちがホントなんだろう?

ま、いずれにしろ、美味しいのは鶏冠が黄色いヤツである。

スーパーとかで売っているのはほとんど鶏冠が緑のもの。
鶏冠の黄色いタケノコは別ルートでしかるべきお店に流れるのだろう。
射場を歩いていて、地面にほんの少しの盛り上がりや地割れがあったりすると、

タケノコかなと、靴でその辺をつついてみる。

で、タケノコがあるとその近くの地面に自分の矢を刺しておく。

矢が刺してあるタケノコはその矢の持ち主のもので、他の人は手を出さない。

うちの射場の暗黙の了解。

何年も通っているとタケノコの探し方も多少うまくなるものだが、

射場に通い始めた頃はなかなか見つけられず、先輩に、ここにあるから掘っていきなと

教えてもらったものである。

採れたてのタケノコは柔らかくて美味しい。

ただ、この射場のタケノコを食べた者は不幸せである(^^;;

ここのタケノコを食べるようになってから、

少なくとも旬の季節はスーパーで売っているタケノコを買わない。

美味しくないからである。

タケノコの採れない季節にスーパーで売っているタケノコを買ってきて酢豚などを作っても、

つい「タケノコがうまくないな」と思ってしまう。

ホントに美味しいものを知らなければテキトーなものでも美味しく感じられるわけで、

ここのタケノコを食べるとそういう幸せを失う(^^;;;

この季節、射場の常連達は目の色を変えて射場でタケノコを探す。

自分もそのひとりになって、アーチェリーそっちのけで、

せっせせっせとタケノコを掘るのである。

今夜は採れたての柔らかいタケノコでたけのこ御飯を楽しむ(^^

タケノコ

歌会

ひさしぶりの東京での歌会。

例によって誌面発表前なのでここには出せないが、

胃壁の瘢痕がラスコーの壁画のようだ、

歌意としてはそういう意味の歌。

たぶん、胃カメラで見たのであろう、自分の胃のなかの胃潰瘍のあとだろうか、

その瘢痕を見たとき、まるでラスコーの壁画のようだと思った、

そんな歌である。

表現に幾つかの問題はあるが着眼は面白いというのが歌会での概ねの批評。

この歌については指名されないまま黙って聞いていたのだが、

終始、周囲の好意的な批評に違和感を感じていた。

ラスコーの壁画は約15000年前、クロマニヨン人が現在のフランス南部の洞窟に

残した壁画である。

洞窟の壁に牛や鹿、人間の手形など多くの絵が残されている。

そこに描かれている動物達の姿は躍動的である。

現代人が躍動感あふれる動物の絵を描くとき、どうするだろう。

たぶん、写真を撮る。あるいはビデオ。

そういう媒体を用いて動物達の一瞬の動きを把握してそれを見ながら描くだろう。

しかし、15000年前のクロマニヨン人はそんなものは持っていない。
まして、草原を走る動物は絵のモデルになるために立ち止まってはくれないのである。
一瞬の動きを把握しようにも、ストップモーションなど動物はとってくれないのだ。
彼等は現代人の感覚からは超人的といえるような視覚能力で対象を見、
その動きを鋭敏に観察し、
その瞬間的な動きを鮮やかに記憶し、
暗い洞窟のなかにそれを卓越した表現力で再現した。
現代人にそれが出来るだろうかと思えるような凄ワザである。
ラスコーの壁画とはそういう壁画だ。
で、くだんの歌だが、そういうラスコーの壁画と、たぶん胃潰瘍かなにかの跡、
その間に私はギャップを感じたのである。
自分の胃という洞(ほら)のなかの瘢痕を洞窟の壁画に比喩した単純さが、
ネガティブなイメージをよんでしまうのかもしれないが、
安易な比喩という印象を否めない。
そしてなにより、ラスコーの壁画の躍動感と胃潰瘍の跡の瘢痕...。
たまたま瘢痕が牛のような形に見えたということはあるかもしれないのだが、
どうしてもそこで感じたギャップを埋められなかった。
歌会の最中、スマホを見て、
「茶色くてそう言えば似てますね」と言っていた人がいたのだが、
それに同意する好意的な批評を聞きながら、
あるいはこの人達はラスコーの壁画について、
知恵も技術もない原始人が洞窟に描き残した岩の滲みのような絵...、その程度の認識
しか持っていないのかなという気さえしてしまったのだった。
15000年前、優れた観察と一瞬の切り取りで動物達の躍動を遠近法すら駆使して描いた
ラスコーの壁画。
うーん...、胃潰瘍の跡ね...。
ラスコーの壁画の美しさは? 
岩の滲みには美しさはないかもしれないが、ラスコーの壁画には美しさがある。
ラスコーを使うにしてももう少し違う持ってきかたがありそうな...。
ギャップは消えないのだった(^^;

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  歌会前、ちらほらと咲き始めていた上野公園の桜 この翌日、東京は開花宣言

カラヴァッジョ展

カラヴァッジョ。放埓に生きたイタリアルネサンス期からバロック期の画家。
彼の真作が昨年発見された。
「法悦のマグダラのマリア」。
真作と確認されて初めての展覧会への出展がどういう事情かは知らないが日本。
国立西洋美術館での「日伊国交樹立150周年記念カラヴァッジョ展」がそれ。
東京での歌会のついでに出かけてみる。
花見にはまだ少し早いが、上野公園はかなりの人出、
これはカラヴァッジヨ展も混んでいるかなと思ったが、西洋美術館に行ってみると
チケット売り場それほど並んでいなくて、いささか拍子抜けした。
マスコミが大きく取り上げないとこんなもんなのだろう。
「女占い師」「バッカス」「エマオの晩餐」
カラヴァッジョと彼に影響を受けた画家達の作品が並ぶ。
特徴は「写実」「精緻」そして「光と影」。
カラヴッジョの光と影は、その後のレンブラントやフェルメールにも影響を
与えたはずである。そういう点でカラヴァッジヨの存在は大きいはず。
展示のなかにはそのガラヴァッジヨの肖像画がある。
自画像ではなく彼を知る画家が描いたものらしい。
なにかふてぶてしい感じのする顔である。
自尊心が強く何度もトラブルを起こし、最後は人を殺して逃亡生活をした。
付き合って楽しい男だったのかどうかは分からないが、たぶん、天才肌の男だったのだろう。
会場を歩いていくと、展示の最後の方に「法悦のマグダラのマリア」があった。
絵の上の方におぼろな光源があり、
マリアは体をのけぞらせて、そこからの淡い光を受けているように見える。
マリアの右肩はその光を受けて少し明るくなっているが、
それ以外のマリアの肌はまるで死人のような灰色である。
娼婦だったマグダラのマリアは、イエスの教えを聞きおのれの過去を改悛し、
救いの喜びに震えたという。
しかし、カラヴァッジョの絵から私が感じたのはそれではない。
改悛などという宗教者が好みそうなものは、マリアの表情や仕草のどこにもない。
そこにあるのは性的と言っていい恍惚である。
画面の上の暗い光源に向け体をのけぞらせているマグダラのマリア。
その恍惚とした表情は、
既に地上にはいないイエスと交わっているようにも見える。
教えに救われた喜びではなく、
イエスに出会った喜び。
マリアはそのなかにいるようだ。
秀才にはこういう絵は描けないだろう。

天才だからこういう不遜な絵が描けた。
そんな気がした。
短歌も絵も同じなのかもしれない。
秀才の短歌はつまらない。
表現を切り開くのは秀才ではない。
どうでもいいことだが、カラヴァッジョの絵を見ていてそんなことを思った。
日伊国交樹立150周年記念カラヴァッジョ展。
国立西洋美術館で612日まで。
展覧会を出て歌会の会場に向かった。

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  法悦のマグダラのマリア

人影

確定申告で忙しい日が続くと当然帰りは遅くなる。

日付が変わる頃、あるいは変わってから車で家に帰ることになるわけだが、

家に帰る途中の夜道で思い出すことがある。

もうかなり前の話だが、夜遅く家に帰る途中、

道の脇に髪の長い女性の影が立っているのが見えた。

最初見たときは、「えっ!?  こんな時間に!? 幽霊!?」と驚いたのだが、

あとで昼間そこを走ってみると、

歩道の隅に花束とコーヒーの缶が置いてあった。

たぶん、そこで事故があったのだろう。

その翌年も、その次の年も、

意識して調べていたわけではないので分からないのだが、

年に一度、たぶん同じ日の同じ夜遅い時間、

その髪の長い女性の影は立っていた。

毎年それが続くと驚かなくなるもので、

「ああ、今年も来てるな

そう思ってそのまま通り過ぎた。

付き合っていた男性がバイクに乗って交通事故に遭い、

その事故のあった日のその時間、彼が死んだ現場にひとりやってくる。

たぶん、そういう女性だったんだろう。

そう思った。

それが何年も続くと、

今年もまた来ているのか、とちょっと切ない気持ちにはなるわけである。

さりとて車を停めて、

「もういいんじゃないのか? 君は君の人生を生きた方がいい」と言うのも、

なにやら嫌なオヤジのようで気が引けて、毎年黙って通り過ぎるのだった。

そんなことが10年も続いただろうか、ある年から彼女は姿を見せなくなった。

ここ数年見かけないけど、たぶん、自分の新しい人生を見つけたんだろう、

そんなふうに思っていた。

そう思っていたある夜。

やはり夜遅く事務所から家に帰る途中、

道に髪の長い女性の影が立っていた。

えっ!

私は驚いた。

しかし、すぐにその女性の傍らにもうひとつ、男性とおぼしき影が立っているのに

気が付いた。

私はそのまま通り過ぎた。

彼女は新しい人生を歩みだし、それを伝えるために彼のもとを訪れたのだろう。

そう思った。

それ以来、その夜道で髪の長い女性の影を見ることはなくなった。

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  伊豆の友人が送ってくれた南伊豆青野川の流星流しの写真

歌会のあと

歌会のあと、軽く飲みながら話していたら、

出席者のおばちゃん達がこういう話をしていた。

「男の人ってかまって欲しいのよね~」

思わず苦笑してしまった。

男が酒の席でこういう話をしたらどうなるだろう。

「女ってかまって欲しいんだよね」

たぶんセクハラだと言われる(^^;

男女の立場が入れ替わればセクハラにはならないという話はないわけで、

おばちゃん達はセクハラだと言われてもしょうがないわけである。

ま、おばちゃん達のセクハラはどうでもいいんだが、

ひとつ気になったのは、

おばちゃん達がそのことに全然気が付いていないということである。

ジェンダーの問題は女性達を苦しめてきたはずだが、

世の女性達にはかなり、ストレオタイプな構図に寄り掛かっている向きがいる。

加害者としての男性、被害者としての女性。

そういう構図に寄り掛かかったとき、えてしてそれ以上ものを考えようとしなくなる。

だから立場が変わると全く気付かないという話が出てくる。

東京の某歌会では以前こんなことがあった。

歌会の詠草に、

ドメスティックバイオレンスと片仮名で書くと他人事のようでさやぐ。

そんな歌意の歌があって、

DVでどれほど女性が苦しんでいるのか分かっているのか!」と

歌会の女性達が総反発した。

その総反発を聞きながらかなりの違和感を覚えた。

「他人事のよう」というのは「他人事」ではないということである。

他人事でないのに他人事のように思えてしまうという意味であるはずで、

普通に日本語で読めば簡単に分かる歌だったのだが、

DV→可哀想な女性の被害者、というステレオタイプな構図にしっかりはまった女性陣には、

表現が軽く思えてそれが許せなかったのだろう、

DVの当事者でないものが想像で詠った歌と決めつけてしまい、
批評を通り越して作者批判になったのだった。
DVのステレオタイプな構図に寄り掛かり、それ以上に考えようとしなかったから、
歌会の女性陣総誤読という珍事が発生したわけである。
ステレオタイプな構図に寄り掛かった歌詠みの姿はほかでも見かけた。
昨年、京都で開かれた某シンポジウムに出たときのこと、
そのシンポジウムは安保法制への危機感から歌人達が集まったものなのだが、
短歌についての話はさておき、そこで聞いた政治に関する話は、
こういう言い方は申し訳ないのだが、
プロパガンダの受け売りと言われても仕方のないものだった。
しかし、「憲法違反だ!」と講演者が言ったとき、会場には歓声があがったのである。
私はそれとなく周囲を見た。
「今の話...、プロパガンダの受け売りだぞ...。歓声を上げるような話か...?
この人達はこのレベルで平和を語っているのか...?」
それがその時のまぎれもない私の実感だった。
歌詠みは政治の話をするなというのではない。
右か左かどちらがどうのという話でもない。
政治の話をするなら真剣にして欲しい。
手垢のついたプロパガンダの受け売りなど聞かせて欲しくない。
右翼は戦争をしたがり、左翼は平和を愛している、そういうステレオタイプな構図に
寄り掛かり、それで声を張り上げたところで、
この国の健全なサイレント・マジョリティーは同意しないだろう。
多くの人は、問題はそう単純ではないということに気付いている。
社会詠は難しいという。
その難しさの原因のひとつには、
たぶん詠み手の問題がある。
ジェンダーでもDVでも平和でも、
スタレオタイプな構図に寄り掛かり、しかもそれに気が付かない人間が、
社会の問題について深いところから問うような歌が詠えるだろうか。
経験に即し、その実感に沿った歌なら詠えるだろう。
しかし、それ以上の歌が詠えるか?
そういう素朴な疑問を覚えるわけである。

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  アーチェリーの射場で今年初めてのタケノコの収穫。今年はタケノコが早い。

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