湘南の歌会、会場に入ってみると、
選者の小林幸子さんや、吾が師匠、岡部史さんも来ていて、ちょっと驚いた。
おまけに映像プロダクションの取材まで来ている。
なんでも、テレビドラマで歌会のシーンをやるんだそうで、
それで歌会とはどういうものか取材に来たとか。
で、例によって気になった歌。
老いれば今という時はさらさらと記憶の瓶からこぼれてゆく。
そんなような歌意の歌。
歌会では不評だった。
「今という時が記憶の瓶からこぼれていくというのが分からない」
そういう感じの批評だったかな。
記憶の瓶に入っているということはすなわち過去。
つまり「今という時」ではないわけで、
どうして「今という時」が記憶の瓶からこぼれてゆくのか。
確かにそう言われればそうである。
岡部さんも小林さんも否定的で、そのまま次の歌に移ったのだが、
私はちょっと疑問だった。
この歌は未完成の歌である。
二通りの読みが出来そうな気がする。
ひとつは、作者が自分のことを詠っているわけで、年をとると記憶がどうのこうのと
いうことで、歌会での批評はこの読みを前提にしているだろう。
もうひとつの読みは、作者が他者を詠っているという読みである。
例えば、認知症の母親。
作者がどんなに世話をしても母親の記憶にそれは残らない。
砂時計とその下にある母親の記憶の瓶。
しかし、母親の記憶の瓶はもう一杯で新しい記憶は入らない。
砂時計からさらさらと落ちる今の記憶は、決して母親の記憶の瓶に入ることなく
瓶の口から零れてしまう。
この歌の場合、複数の読みが出来るのが、
歌の深さのゆえではなく表現の曖昧さの結果だというのが、問題なのであろう。
初句が「老い母の」とかであれば読みがすんなりしてくるわけで、
そうなっていないのは、あるいは作者自身のことを詠っているのかもしれない。
そうであれば、歌会での批評が妥当なものということになるわけだが、
「今という時」になにかしら痛切なものがありそうにも読めて、
それが記憶の瓶から零れてゆく、という表現をあえて読もうとすると、
作者ではない他者を詠っているという読みの可能性も検討されなければならないはずである。
それが全くされないまま、一方の読みだけで歌が全否定されたのは疑問だった。
本当は歌会でそういう発言をしたかったのだが、
当日の司会がてきぱきと進めていって隙がなく、
「それでは小林さん、総評をお願いします」という感じですぐに振ってしまうので、
なかなか入り込めなかったのだ(^^;
時間内にうまく収めた司会の手際は見事だったが、
仕事の会議の司会ではないのだから、
歌会の司会はもう少し隙があってもいいのかもしれない(^^;;
歌会終了後は、軽く飲みながら歌談義。
ちなみに取材に来ていた映像プロダクションは、民放のサスペンスドラマとかを
制作しているらしく、「短歌教室殺人事件」とかいうドラマが放送されたら、
歌会出席者のモデルはうちらであるかもしれない(^^;;;
そんな他愛無い話をしながら飲んで食べて楽しい時間を過ごしたのだった。
紅葉