2014年04月

キナバル2

早朝、遠くのモスクからコーランが聞こえてくる。

現地発のキナバル登山ツアーのピックアップが6時なので早く起きて支度をする。

キナバルは山小屋の宿泊予約を取らないと登れないのだが、

予約はツアー会社などがほとんど押さえてしまい個人で取るのは難しく、

今回は現地発の登山ツアーを利用した。

ちなみに、この現地発登山ツアーを含めて今回の旅費は12万3千ほど。

予定より少し遅れて迎えに来た車に乗り込みキナバル国立公園に向かう。

同乗者は白人の若い女性3人組と東洋系の男性2人組、それと我々。

市街地とは反対方向に向かうので道は空いている。

見ていると高速道路でもなんでもない普通の道だが(90)という標識が出ている。

速度制限90kということだろうか、実際、我々の乗った車も結構飛ばしていく。

市街を抜けいかにも田舎という感じの風景のなかを走り、

だんだん標高を上げてゆくような感じで登ってゆく。谷の方には雲海が見える。

2時間ほどで登山口着。

ここで入山の手続きをするのだが、我々は登山ツアーを使っているので、

ツアー会社の方で手続きは既にしてあり、ガイドのマイケルと落ち合う。

現地の村に住む小柄な男で、年を聞くと42歳だという。

天気は良く、キナバルを背景に写真を撮ったりして出発。

同乗してきた白人の女性グループと東洋系の2人にはそれぞれ別のガイドがつき、

我々はマイケルと一緒に4人で登る。

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  登山口のオフィス、ここで入山手続き。
  真ん中の赤いシャツを着ているのがガイドのマイケル
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  オフィスの前からキナバルを望む

熱帯のジャングルだから熱いかと思ったがそれほどでもなく割りと歩きやすい。

今日は宿泊するラパンラタの小屋まで標高差1600mを登るのだが、

30分おきくらいに休憩スポットがあり、思ったより楽に歩ける。

休憩所に着くたびに大抵、リスが出てきた。登山者がくれるパン屑などを

あてにしているらしい。

途中、うつぼかずらの写真を撮ったりしながらだんだん高度をあげる。

ランのような綺麗な花も咲いていて、やはり熱帯の森である。

休憩のときに仲間がマイケルに何回くらいキナバルに登っているのかと聞くと、

10年で千回登ったと言う。

週に2回か3回登るのだそうで、ガイドの仕事で登って降りて、また次のガイドで登る

ということを繰り返しているのだろう。42歳にしては老けて見えた。

登山道はよく整備されてゴミも落ちていない。たいしたものだ。

一緒の車だった白人の若い女性3人組は、足が長いだけあって先にスタスタと登って

行ったが、その様子を見ながら「あいつらバテるな」と思っていたら、

案の定、途中からペースが落ちたようで追い抜いた。

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  オフィスから再び車に乗って10分くらい、歩き始めるのはここから
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  うつぼかずら
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  名も知らぬ花
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  休憩スポットでは必ずリスが出てくる 根っこの上
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  ランのような花
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  熱帯の森
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  大きなうつぼかずら

出発前にネットでキナバル登山の記事を探して読むと、

「地獄のような急登が続く」とか出てくるのだが、

確かに急登ではあるが、地獄のような・・・というほどのものではない。

登り始めてから3~4時間は、なんだこんなものかという感じで歩ける。

ただ、それ以降はさすがに疲れがたまってきて、だんだんつらくなる。

最後に、きつくなったなというところで、中腹の開けた土地に出る。

ここにラパンラタほか幾つかの小屋があり、標高は3272m。

登山口から6時間だった。

山小屋の後ろにはまるで一枚岩が盛り上がったようなキナバルの斜面が広がっている。

登りの途中で少し降った雨の影響か、その岩盤の上を白く滝が流れている。

日本でも大きな岩壁はあるがスケールが違う。

ここまで登ってくるだけでも充分価値があるという感じの日本とは異質な風景である。

ラパンラタのレストハウスは日本の山小屋と比べるとかなり快適で綺麗、シャワーも

使える。とりあえず食堂でコーヒーを飲み、ドライのヌードル(つまり焼きそば)を

おやつに食べて疲れた体を休める。欧米人の登山者が多いのでそれに合わせてか

コーヒーカップがやたらでかい。窓からの景色がとても良い。

部屋は四人部屋で、行くと既に白人の男性がひとりベッドで寝ていた。

夕食までの時間、ベッドで休んだり、外に出て頂上に続く巨大な岩壁を眺めたり、

麓の方に広がる雲海を眺めたりして過ごす。

夕食はビュッフェ方式で結構美味しい。

明日は夜明け前2時半に出発するので早めの夕食をすませ早々に寝た。



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  ラパンラタレストハウス 後ろは一枚岩が盛り上がったようなキナバル
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  おやつの焼きそばとコーヒー。マグカップがでかい。
 

キナバル 

キナバル4095m、ボルネオにある東南アジアの最高峰。

国としてはマレーシア。

ロッククライミングのように特別な装備も必要なく、

冨士山と同じようにただ歩いていれば頂上に着くというタイプの山。

山の周囲一帯がキナバル国立公園として世界遺産に認定されており、

自然を守るために一日に入山できる人数も150人に制限されている。

ひさしぶりの海外登山。

成田から直行便でコタキナバル。

日本から5時間半だから東南アジアのなかでもかなり近い感じだ。

月曜の夜到着して、その日はそのままホテルへ。

登山は水曜からなので、登山前の体慣らしに翌日はコタキナバルの街を歩く。

街に出て驚いたのは、交差点に殆ど信号がなく横断歩道もないということ。

歩行者は車の間を縫うようにして横断する。

初めはちょいとビビルのだが、半日もすると慣れてきて道路横断のコツがつかめてくる。

とりあえず、車が沢山走ってくる二車線の道路を車の間隔を見計らってすたすたと横断できるようにならないと、コタキナバルの街では暮らせないようだ。

信号はないのだが、交差点では車どうし互いに譲り合うのかどうなのか、割とスムーズに

流れてクラクションも殆ど聞かない。その辺、同じ東南アジアでもバンコク辺りとは

かなり違う雰囲気。

街は結構活気があって、発展する東南アジアという感じである。

宿泊したホテルの道路を挟んで向かい側では大きなクレーンを立てて工事をしていた。

かなり大きなビルを作るのであろう。中国系の人も多く、台湾でよく見かけた簡易食堂の

ような店があちこちにあり、漢字の看板や広告も目につく。

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  信号も横断歩道もなし
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  なんの木かわからないが黄色い花が綺麗

とりあえず海の方に行ってみると、岸壁沿いに市場が続いていて、

果物や雑貨などいろいろ売っていて面白そうだ。

スイカを山積みにして売っていたが、あれだけの量のスイカ、一日で売れるんだろうか?

ときどき暇そうにしている男がすぅーと近づいてきて、

写真を見せながら、「サピ、マヌカン、〇〇リンギット」とか声をかけてくるが、

別に変にしつこくもなく断ると笑顔で離れてゆく。

ちなみに、サピとかマヌカンはコタキナバルの沖の島の名前。サンゴ礁が綺麗で観光客の

多いところ。リンギットはマレーシアの通貨、1リンギットが30円くらい。

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  市街を歩いて岸壁に出た

岸壁沿いに歩いているうちに対岸の島が気になってきた。

島の海岸沿いに家が立ち並んでいるらしいのが遠く小さく見えるわけだが、

あるいは水上集落かもしれないと思った。

その島の様子を眺めながらさらに行くと、

向こうに岸壁から突き出した展望台のようなものがあり、

小さな船が接岸して観光客らしき人が乗り降りしている。

コタキナバルから沖の島々への船はこの先のジェッセルトンポイントから出ているので、

この海に突き出した展望台のようなものが何かは分からないのだが、

中に入ってみるとそれぞれの島の写真があり、デスクがあって男がひとり座っている。

我々が入ると、その男が話しかけてきたので、気になった対岸の水上集落があるらしき島

について聞いてみる。

「あの島は?」

「ガヤム」

「あそこに行きたい」

「ガヤムはロングアイランドだ。サピ、マヌカン〇×△□〇・・・」

「ガヤムに行きたい」

「何時間あるんだ? 〇×△〇・・・200リンギット」

「エクスペンシブ」

「150」

「OK」

通じているのか通じていないのかよく分からない会話ののち交渉成立。

男が携帯で電話してしばらくするとサングラスのお兄ちゃんがやってきて、

彼の案内で、そこから少し離れた岸壁に係留されていた船に乗る。

係留しているところには何人かの若い男達がたむろしていて、

サングラスのお兄ちゃんはそのうちのひとりのやはりサングラスのお兄ちゃん2と話し、

彼が船を操縦した。

結構スピードを出して海を渡ってゆくと、岸壁から眺めて思ったとおり、水上集落だった。

家を支えている木は森から切ってきてそのままの製材もしていない木を使っているようで、

立ち並んでいる小さな家はどれもこれも貧しく見える。

海面にはゴミが沢山浮いていて、はっきり言って汚い。

「フィリピネス」とサングラスのお兄ちゃんとサングラスのお兄ちゃん2が説明してくれ

る。聞いているとあまりいいことを言わない。

あいつらはフィリピン人だ、俺たちは違う、あいつらはゴミを捨てるとか、

そんな感じのことをふたりで交互に言うのだが、

帰ってから調べてみたら、

ガヤム島の南岸には最近になって不法移民のフィリピン人が水上集落を作って住みついて

いるのだそうで、サングラスのお兄ちゃん達にしてみれば、勝手にやってきて住みつき、

ゴミを捨てる連中を心良く思わないのも無理はないのかもしれない。

貧しい家のなかには子供達の姿も見え、こちらに手を振っている子もいる。

そのまま行くと、フィリピン人達の水上集落とは離れたところに、別の水上集落が現れた。

島の海岸あたりには大きめの建物があり、

サングラスのお兄ちゃんとサングラスのお兄ちゃん2が、

「あれが俺たちの学校だ」。

「あそこが俺の家」。

海の中に網が仕掛けられているところに船を近づけて「これで魚を取るんだ」。

そんな感じでいろいろ説明してくれた。

こっちの方は水上集落の家にも電線が伸びていたりして、フィリピン人の水上集落よりも

いい暮らしをしている感じである。

「俺たちの島はほんとにファンキーだぜ」

普通の観光客は見に来ないのだろう汚い水上集落に案内しろという奇妙なジャパニーズ

3人に、サングラスのお兄ちゃんとサングラスのお兄ちゃん2は、

一生懸命自分達の故郷の島の自慢をしてくれた。

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  ガヤムの水上集落が見えてきた
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  雑然としている 
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  こう言ってはなんだが、かなり貧しい感じ 
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  水上集落のモスク
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  海面には結構ゴミが浮いている
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  漁をして暮らしているのか、舟がある
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  こちらはもともとの地元民の水上集落の学校

船からコタキナバルの方を振り向くと、明日登りにゆくキナバルが見えた。

ガヤムの水上集落を見て岸壁に戻り、約束通りのチャーター料150リンギットと、

一生懸命案内してくれた2人に10リンギットずつチップを渡す。

このあと旧市街を歩いたり、州立モスク、サバ州立博物館まで足を延ばしたりして、

コタキナバルの一日目を過ごした。

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  向こうに見えるのがキナバル
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  コタキナバルのショッピングモール、スリアサバ。貧しい水上集落を見て豊かな
  ショッピングモールを見ると、ちょっと複雑な気持ちになる
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  サバ州立モスク

どうでもいい話だが、イスラム圏なので、アルコールを置いていない店が多く、

昼食夕食ともに、ビールを飲める店を探して歩き回らねばならないのだった。

明日の出発は早いので今日は早めに寝る。天気は良さそうだ。

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  夕食は酒の飲めるところを探して結局、スリアサバのなかの鮨屋。
 正体不明の鮨とたこわさ?

『氷結の岩』溝口徹

知人から紹介された『氷結の岩』溝口徹。

1996年2月10日、積丹半島でトンネルの崩壊事故があった。

通りがかったバスと乗用車が巻き込まれ、20人が死亡した。

救出作業の模様はテレビで中継され、

はかどらない作業に非難の声が沸き上がった。

テレビ画面に映し出された崩落現場に浮き上がった、まるで人の顔のような岩陰を

今でも思い出すことが出来る。

あれから18年。

その事故を扱った本が出た。

書いたのは当時、事故の取材に当たった北海道新聞の記者。

20人の犠牲を出した事故の悲惨と、そのあとの訴訟における国の姿勢を

浮かび上がらせた力作である。

完成後わずか12年でなぜトンネルは崩壊したのか、骨太の読み物が少なくなった昨今、
こういう本がもっと出てきてくれるといい。

最初読んでいて思ったのは、

この事件はノンフィクションとして書くべきものではないのか?

なぜ作者は小説にしたのか?

という疑問。

読んでいるうちになんとなく分かった。

作者は、事故の悲惨はもとより、その後の裁判における国の姿勢、そのなかの人間模様、

そういうものを浮かび上がらせるために、小説という表現様式を選んだのであろう。

作者の表現意図は分かる気がしたが、

しかし、どうなのだろう。

ノンフィクションでもそれは出来たのではないか?

事実を提示し、読者にその判断を委ねる。

こういう重い事実を扱う表現には、情緒性はむしろマイナスであり、

やはりノンフィクションの分野である気がする。

犠牲者に寄り添うという作者のジャーナリストとしての姿勢は理解できる。

しかし、犠牲者に寄り添うということは、情緒に流れるということではないはずだ。

ジャーナリストとしての作者にはそんなことはないのだろうが、

小説としての『氷結の岩』を読んでいると、

ところどころの表現の甘さのゆえか、その辺の危うさを感じる。

そういう意味では、小説の終わりの夫婦の会話のあたり、一冊の小説の終わり方としては

習作のような終わり方であり、不要な情緒性を多少感じなくはない。

こういうとき表現者に必要なのは冷徹さであろう。

熱い心を持ち、しかし表現は冷徹に磨くという姿勢は、短歌の世界では当たり前に求めら

れることだが、ノンフィクションや小説でも同じであろう。

新聞記者という経歴を生かし、良質な作品を書ける、そういう新しい書き手であって

欲しいと思う。作者の今後の活躍を期待したい。

アマゾンで注文できる。1728円。

 hyoketu

 

山の辺の道3

天理から北、山の辺の道は北コースに入る。

古代、北コースとか南コースとかの区分はないわけだが、

現代では三輪から天理までか山の辺の道の南コース、

天理から奈良までが北コースになっている。

天理で一晩泊り再び石上神宮に戻る。

北コースはここから奈良に向かう。

それにしても天理という街、一晩泊まっただけだが、いささか異質な街である。
千と千尋の神隠しに出てくる湯婆婆の湯屋をばかでかくしたみたいな建物が並び、
訳のわからぬ巨大煙突が立っている。
なんだろうと思ったら、全国から集まってくる天理教の信者を受け入れる施設で、
宿泊する信者の給食を作るためにあの巨大煙突があるのだとか。
すっごい量のお湯沸かすんだろうな...(^^;
天理教というのは幕末に生まれた神道の一派だが、
日本で宗教都市といえるのはここだけなのかもしれない。
石上神宮を通り抜ける感じで、向こう側の集落に出る。
春のやまとの昔のままの集落、そういう感じの道を歩いてゆく。
しばらく行くと谷沿いの集落のなかで道は沢を渡る。
そこにかかっている橋のたもとに碑文があった。

  石上布留の高橋高々に妹が待つらむ夜ぞふけにける

                        /作者不詳


万葉集の歌。いとしい妻は布留の高橋のように高く爪先立ちして私の帰りを待って

いるだろう。そんな内容。
布留の高橋と古代に詠われた橋は当然残ってはいない。
同じ場所に現代の橋がかかっているが、谷底からの高さが多少ある。
布留の高橋とは文字通り、谷底から高いところに架かっている橋という意味である。
こういうことも現地を実際に歩いてみると分かる。

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  現代の布留の高橋

この先、山裾のくねくねした道をゆくとやや大きな道に出、そこをしばらく行って再び細い田舎道に入り、だんだん山の中に入ってゆく。果樹園がありそこを過ぎると周囲に竹林が広がる。ところどころ猪が筍を掘ったらしい跡がある。山の中で猪に出くわすと猪突猛進してくるので結構危ない。しばらく行くと石上大塚古墳という小さな木の標識があったので、その標識の方に行ってみる。道というより踏み跡で、森の中にはいり、少し登ると目の前に古墳の石室が現れた。盗掘されたのだろうか、前方後円墳の後円部分が半分掘り出され石室が剥き出しになっている。上の方でがさがさと音がしたので猪かと思ったら、地元の人が筍を探しているのだった。後円部分に登ってみると、木立ちの向こうに後円から前方につづく地形が見てとれた。山を切り拓いて作られたこの古墳は歳月ののち再び山に戻ったのである。道に戻りさらに行くとその先にウワナリ古墳がある。この古墳は周囲の傾斜地と一緒に果樹園になっていて、前方部分に果樹が植えられ全体がビニールの屋根で覆われている。墓地になったり山に戻ったり果樹園になったり古墳もいろいろである。

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  こんな道をゆく
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  石上大塚古墳の石室

この先で名阪国道の下をくぐり、白川ダムの貯水地の縁を歩き集落を抜けて弘仁寺。

この寺には江戸時代の算学の額がかけられていて、49桁の問題を解いてあるのだが、
その計算がちゃんと合っているのだそうだ。
49桁って、どのぐらいの数字なのだろう、見当もつかぬ。

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  弘仁寺

ここからさらに田園風景のなかを歩いていくのだが、

円照寺のあたりで山裾から一度、平野の広い道に出る。
ここで遠くに小さく興福寺の塔と若草山が見えた。
直線距離にしたら4~5kだと思うのだが、ずいぶん遥かに見える。
あそこまで歩くのか...、という気になる。
この先で道は再び山の方に入るのだが、ここから先の道はかなり不自然である。
分かりにくい畔道を歩いたりして、ハイキングコースとしての「山の辺の道北コース」を無理して奈良までつなげたという感じがする。ま、ところどころ桜が綺麗だったり由緒のある寺があったりするので良しとはするが、古代の道という感じはしない。最後にひと山
越える感じで歩いていくと、奈良公園の南側の古い住宅地のなかに入る。そこをしばらく
歩けば新薬師寺である。道から新薬師寺に出るところに、「ここから山の辺の道」という
石の標識があった。山の辺の道踏破終了、2日間で35kほど歩いたか。
新薬師寺の十二神将を見、奈良公園の桜を見、興福寺で八部衆を見る。


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  新薬師寺

   あおによし奈良の都は咲く花のにおうがごとく今さかりなり

                           /小野 老

万葉の昔に詠われたとおりの奈良である。

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  猿沢の池と興福寺

さて、山の辺の道だが、実際に歩いてみて思ったのは、
古代の「山の辺の道」と現代の「山の辺の道」はおそらく違うということ。
古代、奈良盆地にあった湖の湖岸にあった道が山の辺の道とも言われているようだが、
そういう湖があったとしても湖岸はもっと平野寄りだったはずである。
日本最古の部類の箸墓古墳は湖のなかに作られたわけではあるまい。
古代の「山の辺の道」は現代のようなハイキングルートとしてではなく、
実用の道として存在したはずである。
邪馬台国があったのではないかといわれる政治の中心、纏向。
大王家のもともとの領域である三輪。
大和朝廷の有力氏族・物部氏の本拠地であり王権の武器庫でもあった布留・石上。
この三点をつなぐ実用の道として古代の「山の辺の道」はあったのではないか。
つまり、現代の山の辺の道よりもう少し西側、部分的にはその後の「上つ道」にかぶる
のかもしれない。
山の辺の道の途中の景行天皇陵や崇神天皇陵のあるあたりは奈良でも有数の古墳の密集地
帯である。現代の古墳は森に覆われているが作られた当時の古墳は木など生えておらず、
葺石で覆われそれが日を反射して光っていたという。

古代の山の辺の道を歩く人々は、
道の東側に点在する日を反射して光る王達の墓を見ただろう。
それは王権の力を誇示するものであったはずだ。
現代のようにくねくねと古墳の後ろに回り込んだり、そんなふうに道はついていなかった
のではないか。道をゆく人々にその威容が見えるように大王の墓は作られていたはずで、
その配置を考えれば本来の「山の辺の道」の位置も浮かび上がってくる気がする。
もちろん、現代の山の辺の道が古代のそれとは違うハイキングルートだとしても、
そこには遺跡や歴史的風景があり、充分に価値のある道である。
天理から奈良の間の北コースより天理から三輪までの南コースがお勧め。
私は奈良に向かって北上したが、天理から南下した方が歩きやすいかもしれない。
特に桜や紅葉の季節がいいだろう。
万葉集の舞台を直に見ることのできる道でもあり、
歌詠みは一度くらい山の辺の道を歩いてみてもいいかもしれない。

山の辺の道2

奈良盆地東端の山裾に続く「山の辺の道」。

森のなかを通ったり集落を通ったり畑中を通ったり、歩きやすい感じの良い道である。

ただ、結構、屈曲も多く、

本当にこの道が古代からの道なのかなという疑問は歩いていて感じる。

古代から残る道というのは、本来の道としての存在価値が高かった道ということだろう。
要所をつなぐルートとか、交易ルートとか、おそらくそういうものであるはず。

山裾を屈曲して続く細い「山の辺の道」を歩いていて、

古代の人達はこういう屈曲した道を歩いただろうか? 

軍隊が移動するにも不便なはずで、必要があればできるだけ真っ直ぐな道を

作ったのではないか?

そういう疑問は抱くわけである。

どうも、歴史的な風景や史跡、そういうところをつないでいる道を歩いているようで、

古事記に記されている「山の辺の道」と現代の「山の辺の道」はちと違うのかもしれない、

そんな気はしてくる。

それはそれとして、山裾の道から落ち着いた感じの集落に入るところで、向こうに大きな

古墳が見えてきた。渋谷向山古墳、景行天皇陵と比定されている大型の前方後円墳。

ちなみに景行天皇は倭建(ヤマトタケル)の父である。

周囲と植生が違うので目に入ったときにすぐに古墳と気付いた。

そこだけが照葉樹のこんもりとした森になっている。

山から伸びている尾根の先端を切って古墳にしているのだが、

人の入る里山は焚き木や落ち葉を取ることで、だんだん地味が痩せてゆく。

そうすると痩せた地に強い松が増えるようになり、もともとの照葉樹の森は消える。

古墳は人が入らないことで照葉樹の森が残り、そこだけ島のように植生が違って見える。

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  渋谷向山古墳 景行天皇陵 巨大古墳である

この古墳を回り込む辺りで反対側から山の辺の道を歩いてきたらしい人とすれ違った。

向こうも同好の士と見たのか、「あまり降らなくて良かったですね」と挨拶してきた。

景行天皇陵の向こうには崇神天皇陵がある。

景行天皇の祖父だからこちらの方が古いはず。

今から1600年~1700年くらい前の古墳だろうか。

こちらも、こんもりとした照葉樹の森になっていて、周囲の堀が綺麗。

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  行燈山古墳 崇神天皇陵

そこを抜けてゆくと菜の花の畑があった。向こうには奈良の盆地と二上山。

景行天皇の子、倭建の歌を思い出した。

   やまとは国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる倭しうるわし
 
                            /倭建

                 
遠征からの帰路、病に倒れ、ついに故郷を見ることなく建は死ぬ。
建はこの辺りからのやまとの風景を見たはずである。
たたなづく青柿山ごもれる倭しうるわし。
なるほど、建の詠いたかった故郷の情景がよく分かる気がした。

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  菜の花 向こうに小さく二上山 やまとは国のまほろば
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  落ち着いた家並みの道

落ち着いた感じの集落を抜けると長岳寺のトレイルセンターがあり、ここで休憩。

この近くには魏から卑弥呼に贈られた三角縁神獣鏡がたくさん出てきた黒塚古墳がある。
しばし休憩ののちさらに行くと畑の向こうに寺があり、その向こうに妙なものがある。
妙と言っては失礼で、つまり寺の後ろの墓地なのだが、どうもその墓地、普通と違う。

近づいて気付いた。

古墳である。

前方後円墳の前方部分がそのまま現代の墓地になっている。

後円は墓地の向こうに丘のように残っている。

うーん、つまり墓が墓になったわけか...。

おそらくはかなりの権力を持っていた人物が葬られていたのだろうが、

千数百年ののち、自分の墓に未来人の墓が沢山並ぶとは思わなかっただろう。

ここを過ぎて、中世の環濠集落のあとに立ち寄ったりしながら先に進む。

向こうに見えてきた桜の綺麗な神社は夜都伎神社。

ちいさな神社だが感じの良い神社である。

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  夜都伎神社

それにしても歩いていて気持ちの良い道だ。

桜は思ったほど多くないが、それでも途中、てんてんとあらわれる桜は綺麗で、

紅葉の季節に歩くのもいいかもしれない。

この先、内山永久寺の跡があるが残っているのは池だけ、周囲の桜が綺麗で写真を撮りに

きている人が何人もいた。

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  内山永久寺跡の池の桜

内山永久寺の先で一瞬、道を見失いそうになるがうまいぐあいに石上神宮の杜に入ることが出来た。ちなみに、山の辺の道、標識の立て方はいまいち感心しない。

歩いてくる方向から見えにくいところに標識があったり、ポイントになるところ、たとえ

ば分岐とか、そういうところに標識がなくてしばし迷ったりする。

石上神宮は古代の有力氏族物部氏の氏神として祀られていたところ。杜を抜け、拝殿の方

に行くと鶏が沢山いる。石上神宮の神鶏であるらしく放し飼いにされている。

猫が狙いにこないのかと心配してしまう。

拝殿で手を合わせ、天理の市内の方へ。昼から歩きはじめて4時間。

今日は天理のビジネスホテルに泊まる。



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  石上神宮
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  石上神宮の神鶏
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   天理の桜並木

山の辺の道

山の辺の道は古事記にも出てくる古代の道。

南は三輪山から北は春日山まで、奈良盆地の東側の山裾を南北に続いている。

古代、奈良盆地には湖があって、その湖岸沿いの道がのちの山の辺の道だというが

真偽は知らない。

3月の仕事が終わったところで、桜も咲いているだろうと思い、歩きに行ってみる。

新幹線で京都、在来線に乗り換えて奈良、さらにそこから奈良盆地の南、三輪へ。

途中、纏向を過ぎたあたりで電車の窓から箸墓古墳が見える。
卑弥呼の墓という説もある古墳。
三輪の駅の辺りは静かな雰囲気であまり観光地的な感じがしない。
道が分からずちょっと戸惑うが、大神神社という小さな案内があったので、そちらの道に
入ってみると、細い道の両側に小さな土産物屋などが並んでいた。
名物の三輪素麺の店が多いようだ。
この道を抜けて右の山の方に行けば大神神社。
大物主を祀り、三輪山を御神体とする。
大物主とは出雲神話の大国主の和魂であるらしい。
ちなみに京都の八坂神社の祭神は素戔嗚で、これも出雲神話の神である。
ヤマトの王権が成立する前、出雲となんらかのつながりのある勢力がこの地に
あったのかもしれない。
参道を歩き本殿に向かう。
三輪山の森を背にした社は、神寂びた静かな佇まいだ。

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  大神神社
そういえば、山中智恵子が三輪山の月を詠っている。彼女もこの神寂びた地を歩いた

のであろう。
 

  三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや

                            /山中智恵子


しばし辺りを歩き、いよいよここから山の辺の道を北に向かって歩き出す。

大神神社の境内を左に抜けて細い石段の道を登っていくと山道に出る。

この山道を歩いていくと狭井神社がある。小さな神社だが趣きのあるところである。

ここから道は畑や家々の間を抜けるように続き、結構屈折する。

ところどころ桜や木蓮が咲いていて綺麗。

しばらく歩くと桧原神社に出る。

祭神は天照大神。最初ここに祀られていて、その後、各地を移動ののち伊勢神宮に

落ち着いたらしく、それで、この桧原神社は元伊勢といわれるらしい。

本殿はなく、囲いの向こうに三輪鳥居という鳥居があり、その向こうになにかあるのだがよく見えない。昔は本殿や拝殿があったらしいが消失し廃墟になり、

その廃墟で祭礼が続けられ、現在の本殿のない神社の姿になったらしい。

この神社からは奈良盆地の眺めがよく、向こうには二上山が形よく見える。

昔、謀反の疑いをかけられ殺された大津皇子は二上山に葬られたという、

姉の大伯皇女が二上山を遠く望んで詠った歌が万葉集に残っている。


  うつそみの人なる我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む

                          /大伯皇女


大伯皇女が弟を思い眺めた二上山は美しい山容の山だった。

ここの茶店で昼食を摂り、再び山の辺の道を北へ。

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 桧原神社から二上山を望む 左は茶店
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 茶店で昼食に三輪素麺のにゅーめんを食べる。美味しかった。

開けた山裾の道を歩いていくと道の西側に奈良盆地が広がり、

振り向けば香久山や畝傍山、耳成山、箸墓古墳がみえる。
 

  春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天香久山

                         /持統天皇


本でしか読んだことのない万葉集の世界を実際に目の前に見る感じがする。

歌詠みは一度くらいこの山の辺の道を歩いてみてもいいかもしれない。

実際の風景を見ることで歌が理解でき、その世界が広がるということもありそうだ。

長くなったので続きはまたあとで。

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  右のこんもりしたのが箸墓古墳 真ん中の小さな山が耳成山。その左の小さいのが畝傍山。
  そのまたさらに左に低く香久山が少し見える。背景の山は金剛山地。
 

 

 

 

 

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