2014年02月

反省会

税理士会の支部でおこなっている租税教室。

講師を引き受けてくれた会員達を招いて反省会をしようということになった。

今年度の租税教室について報告してもらい来年度の租税教室に生かせるものは生かし、

提言や意見があれば承ろうと。

で、ボランティアでやってもらっているので、

反省会については会費無料でやろうということになった。

ところが支部の方から横やり(^^;

「支部会員から預かっている会費を使う以上、会議の飲食代は1人1500円まで、

あとは会費として参加者負担とするように」

とのお達し。

と言われても既に「会費無料」ということで

講師を引き受けてくれた会員達には案内している。今さら変更できない。

そもそも会議のお茶代食事代等が1人1500円までという話も、

おぼろに聞こえてきたことはあるが、ちゃんとした形で周知された記憶はない。

執行部で決めるのは結構だが、決めたなら会員に周知するべきだろう。

あるいは以前からそう決まっているから周知する必要がない?

そういうもんじゃあるまい。

会社だって、以前から決まっているから周知する必要がないなんてやってたら、

新入社員はどうしたらいい?

第一、そういう周知がされていないから、今回、部内でこの件を話したときも、

会費無料について、「予算を使うのは1人1500円が限度」という話は誰からも

出なかったのではないか。

周知することなしに、「こう決まっているから」というのが気にくわないし、

既に案内を出している以上、今さら変更はできないのである。

この商品は〇〇〇円です、という案内を一度出しておいて、

あとになってから、やはり△△△円ですと変更するようなことは

真っ当なビジネスマンはやらない。

ならば仕方ない。

支部の予算からは出ず、参加者からは徴収しない以上、

部長が全部払えばいいのだろう。

まったく...(^^;

こっちは会議のお茶代の予算もたいして使わずに会務をこなしているのである。

予算使ってタダ酒飲もうというわけじゃなし、

ボランティアで講師を引き受けてくれる会員達と会議をして、ついでにささやかな

慰労をしようってのは、そんなおかしな金の使い方ではあるまい。

ちょっと杓子定規じゃありませんかって。

いいよ、この件についてはケチくさい支部の金などビタ一文使わん。

支部の金使わない以上、ああこう言われる筋合いもない。

「来年の予算のこともある。会費をとれ」と支部長言ってきたけど、

来年のことなど知るか(^^;;
で、どうでもいいけど全部で幾らになるんだ...(^^;;;


 101105_150446
   本文とは関係ない写真
   携帯のなかにあった写真だが、どこだったか...。
   奈良の興福寺? 

中央アフリカ

アフリカのことをあまり日本人は意識しません。

エジプトのピラミッドも広大な緑のサバンナもキリマンジャロの雪も、
記憶のなかの風景はすべて美しいままですが、
そのアフリカで再びジェノサイドが起きています。
ルワンダの時も日本人は無関心でした。
今、中央アフリカで起きていることに目を向けてみてください。

   国連UNHCR協会のHP↓

  http://www.japanforunhcr.org/activities/em-centralafrica_01






二週間続けての雪。

あちこちで影響が出ている。温暖化すると空気中の水分が増えるので、

大雨が降ったり大雪が降ったり、大変である。

金曜から雪が降ったのでその日の予定は他の日に移し、

どこにも出かけず事務所に泊り込んで仕事をした。

どうせ帰れなくなるだろうと思って、

登山で使う寝袋を持ち込んで一晩過ごしたのだが、

案の定、金曜の夜、事務所の外に出てみると、横浜とは思えない雪景色。

雪明りで深夜でもあかるい街というのを久し振りに見た。

土曜もそのまま事務所にこもって仕事。

おかげで抱えていた相続の事案、予定より早く終わらせることが出来た。

確定申告の前に終わらせることが出来てホッとした。

日曜、家の周りの雪掻きをしてからアーチェリーの射場へ。
先日、歌会で福島に行ったとき、土産に笹かまぼこを買ったので、
それを届けるために出かける。
仙台の笹かまぼこの店、鐘崎 → http://www.kanezaki.co.jp/
ここの笹かまぼこが美味しくて、以前、仙台から土産に買ってきて以来、
アーチェリーの射場で人気なのである。
福島にも店があるので、歌会で福島に行くと大抵、土産に買ってくる。
なにしろその日の朝わざわざ電話してきて、雪が消えてないけど笹かまぼこ持って
くるのかどうかと確認してきた常連もいるぐらいの人気なのである。
そんなに気に入っているならネットで注文すればいいような気がするし、
東京の大丸にも店が出ているらしいから、そこで買えば良さそうなもんだが、
やはりタダで食うものほど美味いものはないのであろう(^^;
雪がかなり残った道を走って射場へ。
射場も雪に覆われたまま。
暖かい日差しのなか、皆で笹かまぼこを食う。
残ったものはテキトーに持ち帰ってもらう。
せっかく射場に来たので、コースを一回り。
足下が運動靴なので、やめた方がいいと皆が言うのだが一向に気にしない。
高校生のときから冬山を登っていて、
雪が降ると、なんとなく楽しくなる。
大学生の冬、仲間と山小屋にしばらく泊り込んでいたことがある。
食糧の調達に下の町に降り、買い物を終えてから再び山小屋に戻るとき、
店の裏の学校を横切って行けば山小屋に戻る道に早く出られるだろうということで、
冬休みで無人の学校の敷地に入り、校舎を回り込んで校庭に出た。
目を見張った。
校庭は一面の雪原だった。
生活道路は除雪するわけだが、冬休みで人がいない学校の校庭は雪が降っても
除雪などせず、深い雪がそのままなのだった。
雪原と化している校庭を横断しようと足を踏み入れると、
我々は首まで雪に埋まった。
必死になってラッセルし、ようやくの思いで校庭を横断したのだった。
雪原を首がふたつ、もがきながらだんだん前に進んでいく図を想像してもらえればいい。
他の人が見たら笑っただろう。
しかし、雪のなかでもがきながら我々はなにか無性に気持ちが良かった。
若いときというのはそういうことが出来る。
そんなことをふと思い出し、
このぐらいの雪でびびっている射場の連中の忠告には耳を貸さず、コースに入る。
部分的に歩きにくいところはあったが、どうということもなく、
雪のなかでアーチェリーを楽しんだ。
楽しい一日だった。

 140216_130651
  50m先の的を射つ。ここで若干一名、雪のなかに射ち込んで、
  「ない! ない!」と焦って矢を探していた。
 

歌会

日曜、福島にて歌会。

土曜日かなり雪が降ったので行けないかと思ったが、

幸い日曜は東海道も新幹線も動いたので、

ゴールデンレトリバーのさくらを雪の上で散歩させてから、予定通り福島に向かう。

途中、今夜の宿泊を予定していた飯坂温泉の宿から、

温泉が止まってしまったのですが予定通り宿泊されますか、という電話。

昨日の雪のせいかなんなのか分からないが、飯坂温泉の源泉が止まってしまい、

今、飯坂温泉全体で大騒ぎしているとか。

今さら市内のホテルを探すのも面倒なので予定通り泊まると伝える。

今回の大雪であちこち混乱しているらしい。

で、歌会、例によって誌面発表前なのでここには出せないが、

役に立たない涙といえど流した、鉄骨の庁舎の前で。

そんな歌意の歌。

南三陸町の鉄骨だけが残った庁舎。そこでなにがあったかは震災時の報道でかなり

伝えられているので、いちいちここには書かないが、

その鉄骨だけが残った庁舎を訪ね、涙を流したという歌である。

微妙な歌だと思った。

作者の表現したいことは分かる。

震災のとき、そこで起きたことに思いを馳せ、涙するのは人として自然かもしれない。

しかし、それを表現するとして、一首の表現としてはどうか?

私には幽かなひっかかりがあった。

「役に立たない」とか「涙といえど」という表現に、ことさらなものを感じたのだ。

言わなくてもいいことなんじゃないのか? 

なぜ、ことさら「役に立たない」とか「涙といえど」とか、そういう言い方をする?

そういう疑問を感じたのである。

厳しい言い方をしてしまえば、

そういうことさらな表現に、作者の良心のアピールを感じた。

これは他の参加者が言ったのだが、「教会で懺悔するような」。

それに近いかもしれない。

教会で懺悔をして、おのれの罪を認める。

しかし実はそれは自己の安心感のための行為であることがあるわけである。

私は懺悔した → 私は良き人だ。

教会で懺悔をした新大陸のスペイン人の騎士がインディオを虐殺したことも、

懺悔の翌日、ユダヤ人をガス室に送ったナチスの将校がいたことも、

我々は知っている。

懺悔も良心のアピールも、他者のためではなく自己の安心感のためであることが、

往々にしてあるわけである。

「役に立たない」「涙といえど」とことさらに言っている表現が、

「私は震災に心を痛めています」→「私は良心の持ち主です」。

そういう自己の安心感のための言葉であるような感じを誘ってしまうわけである。

作者の気持ちは分かるとして他の表現は出来なかったのか?

で、この歌は米川千嘉子のこの歌を踏まえたものだという話が出た。

 

  被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは役に立たざる涙流さず

                         /米川千嘉子

 

それを聞いた他の参加者からは「米川は自覚がない」という話があったのだが、

私はそうは思わなかった。

むしろ米川は、安易な涙の向こうにある自己満足に気づいていたのではないか?

だからこそ米川はこういう表現をしたのではないか?

米川の歌を踏まえたとしたならば、

その踏まえ方はいささか底が浅いかもしれない。

いずれにせよ、震災を詠うことの難しいところである。

歌会後、福島でしばし飲んで、温泉が止まってしまったという飯坂温泉へ。

幸い温泉は復活していて、源泉かけながしのいい風呂を楽しめた。

 140209_080055

  雪の上を散歩するさくら
 

大宰府 水城

吉野ヶ里を訪ね、今日は志賀島に泊まる。

福岡に引き返して海の中道を通って志賀島に向かう。

砂州で九州につながった平らな島かと思っていたら、結構、山が立っている。

海岸沿いを回り込むようにして志賀島休暇村へ。

まずはのんびり温泉に入る。ここの温泉からは玄界灘が望める。

この海の向こうからモンゴルはやってきた。

日本軍は博多の沿岸に防塁を築きモンゴルの上陸を阻止したが、

この志賀島には防塁を築かなかった。

モンゴル軍はこの島の周囲に船を集め島に上陸、砂州を渡って九州本土に侵入しようと

したが、大軍の活動が困難な狭い海の中道で日本軍に阻止され、さらに志賀島の周囲に

集まった船団は日本軍の舟艇の攻撃にさらされる。

神風で日本は救われたように後世の人は言うが、

少なくとも二回目の元寇のとき、日本軍はかなり綿密な作戦を立てている。

志賀島を無防備のままにし、あえてここにモンゴル軍を誘いこんだ。

自らの戦いやすいところに敵を誘い込む。こういう防衛作戦を立てた優れた指揮官達の

名はその後の神風の誇張で忘れられてしまった。

翌日、休暇村を出て、太宰府天満宮に行きたいのだが、その前に、島内にある漢委奴国王の金印が出た跡にある金印公園に立ち寄ってみる。

海岸ぷちの小さな公園で説明板がある程度の特に見るほどのものもないところで、

なんでこんなところに金印が埋まっていたのか? つくづく不思議になる場所である。

金印の使用目的からして外交あるいは交易に使ったのだろうが、古代の志賀島にそういう

拠点があったのか? 仮にあったとしても、金印公園のあたりはそういう場所ではなさ

そうである。そもそも湊がない。

あるいは、流転ののちにこの島の海っぷちに埋もれたのか?

結局その辺が不明で発掘当時の状況もわからないので偽造説が消えないわけだが、

一応、国宝になっている。現物は福岡市博物館にある。

さて、太宰府天満宮。

志賀島から一時間かからないくらいで着く。

参道に土産屋が並び結構繁盛している。

場所柄、韓国からの観光客が多いのだろう、あちこちから韓国語が聞こえてくる。

浄土式庭園の造りで池にかかる橋を渡り境内に向かう。

なにやら本殿の前に人が一杯いて、普通なら参拝が終わったらさっさとどきそうだが、

皆どこうとしない。邪魔なやつらだなと思いながら参拝して周囲を見て回り、本殿のところに戻ると豆まきをしていた。そうだった。節分である。本殿の前に陣取っていた人達はこれが目当てだったのだ。

天満宮で経営しているらしい幼稚園の子供達と父兄も沢山集まっている。

そういえば、本殿の後ろの方を見て歩いていたら、赤鬼と青鬼が出番を待っていた。

たぶん、このあと幼稚園の子供達の前に出て豆を投げられるのであろう。

IMG_0390
  大宰府天満宮
IMG_0391
  大宰府天満宮の飛梅

大宰府天満の駐車場に車を置いて、頭に入れた地図を頼りに南西に歩く。

大宰府の跡を訪ねる。

大宰府天満に来て、ここが古の大宰府と勘違いする観光客はかなりいるかもしれないが、

遠の朝廷と言われた大宰府はここから南西に歩いて30分ぐらいのところにある。

歴史の散歩道とかいう案内があったのだが、歩いていく道筋にはあまり標識は出ていない。

それでも感じの良い田舎道をテキトーに歩いていたら大宰府政庁跡に出た。

地図がなくてもなんとかなるもんてある。

礎石が残り、遥か向こうに碑が立っている、そういうだだっ広い史跡公園。

隅の方に小さな資料館があるだけで、あまり観光客向けの施設とかは作られていない。

古代から中世にかけて、大和政権の九州支配の中心となっていた場所だが、

今ではひたすらだだっ広い空間である。

この大宰府の南に街が広がっていたはずで、史跡公園の入り口の信号のところから南に

伸びている道はおそらく昔の朱雀大路だろう。当然、面影は全くなし。

IMG_0396
  大宰府政庁跡
IMG_0395
  大宰府の礎石
IMG_0397
  たぶん、いにしえの朱雀大路

ここからさらに北西に歩く。

今回の北九州の旅でもうひとつ見たかったもの。

水城。

663年、白村江の戦いで敗れた日本は唐の侵攻に備えて、九州の各地に防人を置き、

城を築き、さらに大宰府を守るために水城を築いた。

高校の歴史の時間にそんなことを授業でやっていて、

「大宰府を守るために長さ1,2k、幅60mの大きな堀を作ったんだ」とか教師は教える

わけだが、こちらはそれを聞きながら「そんなもん左右から回り込まれれば終わりじゃん」と思うわけである。

で、そういう想定外の質問をされると教師は怒るので黙って聞いていたわけだが、

その辺が不思議だった。そんなものでどうやって守るんだ?と。

今回、その現場を見に行った。

太宰部から平坦な道を北西に歩いて30分くらい。向こうに横に連なる森が見えてくる。

水城跡である。

1,2kの長さに幅60mの堀を作り水を湛え、その大宰府側には高さ10m、幅80mの

堤を築いた。その堤が今では横一線の森になっている。その堤の一角が公園になっていて登ってみる。登ってみると分かる。福岡平野はここで漏斗の口のように狭くなり南の筑紫平野につながるのである。水城はその平野のもっとも狭隘になった部分を横一線に塞ぐように作られていて、太宰府側から見てその右の端は古代の城、大野城のある山の尾根につながっている。水城の左の端も向こう側の尾根につながっており、つまり左右から回り込みたくても回り込めないのである。古代の防衛施設、水城は地形を巧みに利用して作られていた。

学校の授業ではそういう周囲の地形を教えず、知識として「水城を作った」ということしか
教えないから、そんなもんで守れるのか?という疑問を抱いてしまうわけである。
やはり古代の人は頭がいい。無駄なものを作っていない。

高校の授業のときに抱いた素朴な疑問ひとつ、現地を訪ねて解消。

もと来た道を引き返し、途中から西鉄に乗って大宰府天満に戻り、

参道でちょっと遅い昼飯に博多ラーメンを食べ、

明太子を土産に買って夕方の飛行機で帰った。



 IMG_0398
   水城跡、向こうに横一線の森がずうっと続いている
   左が博多方面、堀のあったところは水田になっている
IMG_0400
   大宰府側から見た水城跡の森

吉野ヶ里

マイルが貯まったので、それを使って福岡へ。

源泉事務や法定調書などに追われた1月が終わった2月最初の週末、ひと休みしてきた。

福岡は初めてだったので空港がどうなっているのか知らなくて、第3ターミナルに

到着するのに第1ターミナル前のレンタカー屋に予約してしまった。

おかげで空港に着いてからレンタカー屋まで遠かったこと。

車を借りて今日は吉野ヶ里へ。

吉野ヶ里は紀元前3世紀あたりから紀元後3世紀あたりまで栄えた環濠集落のあと。

福岡空港からは高速にのって一時間くらい。

佐賀県の端、背振山地から伸びる丘陵が筑紫平野に消えていくあたりに吉野ヶ里はある。

この丘陵地帯に縄文晩期あたりから人は住み始めたらしいが、

弥生時代に入って環濠集落として発展し、ムラからクニとなった。

魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の記述と似ていることから、

ここが邪馬台国だったのではないかという説もあるらしいが、

九州に幾つもあったクニのひとつという説が有力になってきているらしい。

遺跡全体が公園として綺麗に整備されていている。

結構広くて無料バスが走っているのだが、ま、歩けないことはない。

なかに入ってまず目を引くのは、木の柵に囲まれた堀とその掘の内側の逆茂木。

なにか西部劇の時代のアメリカの砦みたいな印象。

こういう防御施設で村全体を囲んだということは、

彼等が戦乱の時代に生きていたということである。

農耕の発達は余剰生産物を生み出し人口の増加をもたらした。

人口が増加すれば不作や飢饉のときに飢える人間も増える。

飢える人間が増えれば他の余剰生産物を奪おうとする。

奪うものがない社会では戦いもたいして起こらないわけで、

豊かになるとともに戦いは生じた。

弥生というのはそういう時代だった。

IMG_0374
 環濠と内側の逆茂木

環濠のなかは結構広い。掘に囲まれた狭いところで暮らしていたという感じではない。

かなり大規模な工事をやって広い丘陵を掘で囲んでいる。

もちろん一度に作ったのではなく、数百年の間に拡大していったのだろうが。

ずうっと歩いていくと、環濠のなかにさらに環濠があり、そこが南内郭。

環濠と塀に囲まれた広場を囲むようにして櫓と竪穴住居が並んでいる。

庶民は丘陵のさらに南の方に住んでいたらしく、この南内郭はクニの支配者層が住んで

いたところらしい。しかし、竪穴住居そのものは庶民のそれとたいして変わらない感じ。

それにしてもこの広場、なんに使ったのだろうと思う。

案内には儀式や閲兵が行われたとあるが、あるいは市がたったりもしたのだろうか。

IMG_0375
  南内郭
IMG_0381
  南内郭 物見櫓から

ここからさらに北に行くと北内郭がある。

環濠で囲まれた北内郭の建物は他の竪穴住居とは全く異なる古代では先進的であっただろ

う建物である。弥生時代の土器に描かれていた高楼。

まさにそれと同じものがここにあったらしい。

高床式の三階建てでなかに入ってみると結構広い。

二階は王と家臣達が集まるような場所だったらしく、

三階は窓がなく巫女が宗教的な儀式をする場所だったという説明がある。

その高楼の北にもうひとつ建物があり、巫女がそこに住んでいたとか。

あるいは卑弥呼のような存在だったのだろうか。

IMG_0376
  北内郭 高楼
IMG_0378
  高楼二階で王様以下会議中

その北内郭のさらに北には大きな墳丘墓がある。他の庶民の墓と異なり、身分の高い者達

の墓域だったらしい。墓が沢山あるので人骨も沢山出ている。吉野ヶ里の人達の平均身長

は同じ時代の他の地域より10㎝くらい高かったらしく、これは生活環境によるものなのか、あるいは血が違う、つまり大陸からの移住者が多かったということか。

秦の始皇帝を騙した徐福が来たという説もあるが、別に徐福に限らなくても

中国の戦国時代の混乱から逃れた難民が古代のこの列島には沢山きたはずで、

吉野ヶ里の住民のなかにも結構そういう人達がいたのかもしれない。

全部見ようとすると半日はかかりそうな大きな遺跡である。

ただ、綺麗に復元しすぎた感はある。

実際の弥生はどうだったのか。

歩いていて思ったのはトイレがないという不思議。

人が住めばトイレは必要なのである。しかし、竪穴住居にトイレはなかっただろう。

衛生を守るために竪穴住居から少し離れたところにトイレを作ったのではないか?

まして農耕が始まり糞尿は堆肥の材料に使っただろうから、

トイレは堆肥の材料を溜める施設としてそれなりのものが作られていたはず。

しかし、どこにもそういうものがない。

弥生の風景を本当に再現してはいないのかなという気はする。

吉野ヶ里が話題になったとき、ここが邪馬台国ではという話になったので、

それを意識しての再現になっているのかもしれない。

ま、それでも充分一見に値する遺跡であり、

この列島の古代に思いを馳せることが出来る空間である。

見渡すと環濠の向こうの平野には田圃が広がっている。

弥生の時代も人々はこの丘陵の環濠のなかに住んで、

昼は環濠の外に田圃を作りに行ったのだろう。

吉野ヶ里の人達は広やかな風景のなかで暮らしていたようだ。

 IMG_0379
  北内郭遠景
IMG_0383
  南のムラから遠景

アーカイブ