2013年12月

出雲その4

八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を

                      /素戔嗚



スサノオは八岐大蛇を倒し、櫛稲田姫と暮らす宮を建てる。

その喜びを詠った「八雲立つ・・・」の歌は日本最古の和歌といわれているが、

たぶん、日本最古の和歌ではなく、日本最古の記録に残った和歌というのが正確なところ

だろう。現代短歌の母胎となった和歌は、かつて共同体の集まりや祭祀で実際に歌われて

いた古代の歌謡が原型であり、そのなかで初めて文字の形で残されたのが、

「八雲立つ・・・」の歌ではなかったのか。

出雲の空を見上げ、あの雲のように美しい八重垣の宮を私は妻のために建てる。

戦いが終わったあとの高揚のなかでスサノオは喜びをそう詠う。

かつて勾玉の生産地であったらしい玉造は、古事記の時代から温泉が出ていたらしい。

今日の泊りは長楽園。なんでもここの露天風呂は日本有数の大きさの混浴露天風呂なんだ

そうな→ http://www.choraku.co.jp/

ま、しかし、混浴に目がくらむ歳でもないので、

宿の仲居さんがあそこは美味しいと教えてくれた蕎麦屋に夕食を食べに行く。

行ってみると、蕎麦屋というより完璧に温泉街の場末の居酒屋である。

ま、一杯ひっかけたかったので、むしろその方がいい。

テキトーに飲んでいると、周囲の客が年配の女性の一人客が多いことに気が付いた。

互いに知り合いであるらしく、他の客と話をしながら軽く飲んで食事をしている。

この時間に一人で居酒屋に来るということは、夕食をともに食べる家族がいないという

ことであろうか、おそらく、温泉街で働く住み込みの仲居さん達なのだろう。

彼女達の話を聞くともなく聞きながら酒を飲み、勧められるままに焼きガニなどを食い、
最後は宍道湖のしじみラーメンで〆、なかなか美味かった。

酔って宿に戻りフロントで鍵を受け取ったところまでは覚えているがそこから先の記憶がない。しかし朝になったら、ちゃんと浴衣に着替えて布団に入っていたのだから、

結構しっかりしていたのだろう(^^;

翌朝、早い時間なら日本最大の混浴露天風呂にも人がいないだろうと思って行ってみた。

なるほど確かに大きな露天風呂で気持ちがいい。

早い時間ならと考える人間はやはりいるみたいで、十人くらい入っていたが、

女性は巻き布なるものを着用し、男性は手ぬぐいで前を隠すようにというルールのもとに

入る。混浴というのは初めてだったが、そういうルールのもとに入っていると、

案外どうということもない。いい風呂だった。

朝食のあと、川沿いの玉造温泉の街並みを散歩して子供達に勾玉の土産など買ってから

チェックアウトし、須我神社に行ってみる。

スサノオが八岐大蛇を倒し、櫛稲田姫とともに暮らす宮を建てたのがこの辺であるらしい。

玉造温泉から初冬の出雲の田園のなかを走っていくと須我神社がある。

そう大きくない神社で、日本最古の和歌の詠まれた地という碑がある。

2kぐらい山道を登ったところに奥社があるらしく、片詣りせずに奥社へもどうぞという

看板が出ているのだが、空がどんより曇っているのでやめておく。

そのあと昼前にざっと降ってきたのでやめておいて正解だった。

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  須我神社

須我神社を出て、帰りの飛行機まで時間があるので出雲大社に行ってみようと思うが、

その前に田和山遺跡に立ち寄ってみる。

宍道湖のほとりの市街地の真ん中にある古代遺跡。

松江市立病院の隣にある丘で、形としては環濠集落だが、竪穴住居は環濠の外にあったら

しいので、どうもいわゆる環濠集落ではないらしい。

なんのために造られたのかよく分からない。時代は紀元前後の弥生時代。

砦だったという説もあり、宗教施設だったという説もある。

行ってみると丘の斜面に掘を掘って囲んだような形の異様な遺跡である。

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 市街地の真ん中に古代遺跡。丘に三重の堀を掘ってめぐらしている。

頂上部分に登ると宍道湖や周囲の風景がよく見える。

そう広くもない頂上部分には建物の柱のあとが残っている。

掘の一部から鏃やつぶてが沢山出てきたので、砦で戦闘があったのではないかと言われた

が、調べてみると鏃はみな普通よりも小さく、実戦用ではなかったのではないかという。それらが出土する場所も一部のところに偏っているので、実際の戦闘ではなく宗教的な

模擬戦のようなことがおこなわれたのではないかともいう。

確かに頂上に立ってみると砦という感じはしない。

一見、堀をめぐらしているので砦のように思うが、砦として使うには小さく兵士がこもる場所も限られるし、水も確保できないので、

敵に囲まれれば砦という名の捕虜収容所になってしまうだけである。

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 頂上部分、建物の跡がある。向こうに見えるのは宍道湖

あるいは頂上には出雲大社の原型のような建物が立っていて、神を祀る場所だったのでは

ないか、そういう説もあるらしいが、そちらの方が説得力がありそうな気がした。

面白いのはこの田和山遺跡と古代の出雲大社の高さが48mで同じだということ。

出雲大社については現代の倍の高さのある高楼だったという話があったが、

伝説だとして一笑にふされてきた。

ところが平成になって高楼を支えていた宇豆柱が発掘され、

どうも本当らしいという話になっている。

あるいは田和山の宗教施設をその後出雲大社の方に移したということだろうか?
丘の上で見ていると、小学生がひとり自転車を下に置いて登ってきた。

歴女ならぬ歴少年だろうか。それと入れ替わるようにふたりで語らっていた高校生の

カップルが降りてゆく。古代の遺跡が生活のなかにフツーにあるという感じ。

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 向こうで草刈り作業中

田和山遺跡を出、宍道湖沿いに走って出雲大社へ。

まずは出雲の割子蕎麦で昼食、なかなか美味い。

去年は60年に一度の修理とかで工事の幕に覆われていたのだが、

今年はその幕も外されてちゃんと見ることが出来る。

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 出雲大社
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 ちょっと後ろから

国譲りのとき、国を譲るかわりに大国主が建てさせたという出雲大社。

大国主は若いとき、根の国のスサノオのもとを訪れ、

スサノオから幾多の試練を受けさせられる。

スサノオの娘、須勢理比売の助けでその試練を乗り越えた大国主は、

須勢理比売とともにスサノオのもとから逃げる。

気が付いたスサノオは怒り、ふたりを追いかけ、黄泉比良坂を逃げるふたりに大声で叫ぶ。

「お前が持っている生大刀と生弓矢で、お前の兄弟たちを坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払って、おぬしがオオクニヌシ神となり、またウツシクニタマ神となって、吾が娘スセリビメを妻とし、宇迦の山の麓に、底つ石根に、宮柱ふとしり、高天原に氷椽たか

しりて住め。こやつめ」

自分のもとから逃げる娘と娘を奪おうとする男に追いついたとき、

スサノオはふたりを連れ戻すのではなく祝福した。

日本神話でもっとも美しい父性原理の発露である。

戦前は軍国主義者らによって国家神道として歪められ、

戦後はマルクス史観の徒に不当に貶められたが、

日本神話は右や左の輩がとやかく言えるような安っぽいシロモノではない。

日本神話は美しい神話である。

その美しさに惹かれ、

去年今年と2年続けて出雲を歩いた。

そろそろ終わりにしないとスサノオやオオクニヌシに、

いつまで出雲にかかずらっているのだと笑われそうである。

この辺で終わりにしよう。



今年のつれづれ日記への書き込みは今日で終わります。

読んで頂いた方に御礼申し上げます。

また正月明けからぼちぼちと書いていきます。

良い年をお迎えください。


出雲その3

去年、古事記に黄泉比良坂として書かれている伊賦夜坂を歩くために揖屋神社を訪ね、

そこで偶然会った老人にいろいろ話を聞かせてもらった。

揖屋神社の本殿の前の木に巻き付いている藁の大蛇が荒神であることもその老人に

教えてもらった。

荒神とは西日本に昔からある信仰であるらしく、東日本ではあまり見かけない。

荒ぶる神であり、強い力を持ち畏怖し畏敬しなければ祟りがある。

しかし、畏れ敬うとき、その異形の力はむしろ敬う者を守ってくれる。

天神を考えると分かりやすいかもしれない。

菅原道真は政敵に失脚させられ筑紫に流され、失意のうちにそこで死ぬ。

怨霊となった道真の祟りを恐れた人々は彼を鎮魂し敬う。

そして道真は学問の神になる。

怨霊を畏れ敬いその魂を鎮めたとき、祟るほどの異形の力、悪霊の力が自分を守ってくれるという考え方は、およそ西洋的な宗教観では理解できないだろうが、

日本人は違和感なく受け入れる。

現代でもアフリカやアマゾンの狩猟民族のなかに、ライオンやピューマのような強い動物を畏れ敬うことでその力を得ようとする、そういう信仰があるが、現代日本人の宗教心のなかには、そういうアニミズム的な伝統が今も残っている。

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  揖屋神社、向こうに銅鏡がある。昨年、ここで手を合わせ顔をあげたとき、
  向こうからこちらを見ている男の顔があり驚いた。
  よく見たら、銅鏡に映った自分の顔だった。
  古代の祭祀でなぜ銅鏡が神聖なものとして扱われたのか実感できた瞬間だった。
  ここで後ろを振り向くと、藁の大蛇の荒神がいる。

去年、揖屋神社の境内でその老人に教えてもらった藁の大蛇の荒神についての話。

昔から毎年、藁で荒神を作り敬っていて、揖屋の荒神は婦人病に霊験があるということで

遠くからお参りに来る人が大勢いたということ。

その話を聞いたとき、うん? と思った。

揖屋神社は古事記に出てくる伊賦夜の社であり、すなわち、黄泉比良坂で千引の岩で封印されたイザナミの鎮魂のために建てられた社である。当然、イザナミを祭神としている。

その揖屋神社の境内に祀られている荒神は婦人病に霊験あらかたな神だという。

蛇神信仰そのものは他のところにもあり、揖屋の荒神が大蛇であるのは蛇神信仰との結びつきもあるのかもしれない。しかし、蛇神信仰が通常、豊穣や繁殖と結びついているのに対し、揖屋の荒神が婦人病に霊験あらかたというのは、黄泉の国に封印されたイザナミを鎮魂し畏れ敬うことで、原初の母としてあまたの神を生んだその異形の力に守ってもらうという信仰だったのではないか?

すると、目の前の藁の大蛇は遥かな歳月のなかで変容したイザナミということか?

そういう疑問を抱いたのだった。

ちなみに、荒神が蛇の形をしているのは出雲と鳥取のあたりだけらしい。

昨年のその老人に聞かせてもらった話が印象に残り、

帰ってから、日本神話を何度か読み直し、千引の岩で黄泉の国に封印されたはずの

イザナミがその後の神話のなかに再び姿を現すことに気付いた。

今年はそれでスサノオの跡を訪ねてみたのだった。

スサノオは髭が伸びる歳になっても死んだ母を慕って泣き喚いた。

あげくに追放され、母のいる根の国に向かい、鳥髪に降りたところで櫛稲田姫に出会う。

生まれて初めて若い女性に恋したスサノオは彼女のために八岐大蛇と戦い、

それを殺して彼女とともに暮らす。

スサノオは母に会いたくて鳥髪に降りたのではないのか?

しかし、八岐大蛇と戦って以降、

スサノオはあれほど会いたがっていた母のもとに行かず、櫛稲田姫とともに暮らす。

その後、根の国に行ってもそこにいるはずのイザナミはいない。

イザナミはどこに消えたのか?

八岐大蛇との戦い以降、あれほどスサノオが慕っていた母イザナミはふつりと姿を消す

のである。これはどういうことか?

八岐大蛇の神話の遠景にあるのは古代の斐伊川の治水かもしれず、

遠い昔の戦いの記憶であるかもしれない。

しかし、八岐大蛇の神話の骨格になっているのは間違いなく、

ユングのいうところのネガティブグレートマザー(否定的太母)としてのイザナミと、

自我を確立しようとする青年スサノオの葛藤である。

髭が伸びる歳になっても母を慕ったスサノオは、

若い櫛稲田姫と初めて恋をして葛藤ののち母の呪縛を脱する。

そして、八岐大蛇を打ち倒したとき、母イザナミは姿を消す。

少年から男へ、ひとりの若者の成長の過程が八岐大蛇の神話には象徴されている。

そんな簡単なことに気付かなかったのだ(^^;

神話におけるドラゴン退治のモチーフが通過儀礼を象徴していることは知っているが、

八岐大蛇が否定的太母としてのイザナミの投影であることに気が付かなかった。

ちなみに古事記には、イザナギが黄泉の国で火を灯したとき目の前に現れたイザナミの姿は、体に八つの雷神がとりついていたと書かれている。

この姿はなにか八岐大蛇に通じるものがある。

あるいは古事記を記した者はヒントを残したのだろうか?

古事記によって整理された日本神話。

日本神話はただ自然発生的に成立したのではない。

もともとあった神話を人為的に整理し、おそらく加工している。

あるいはその背景に政治的な要請があったのかもしれないが、

そうだとしてもこの日本神話の整理すなわち古事記編纂をやった人間は、

間違いなくその辺の間抜けな現代人など足元にも及ばない知性の持ち主である。

古代の知性に思いを馳せ、印象的な藁の大蛇の荒神をしばらく眺めたのち、

社務所にいる婦人に挨拶して揖屋神社を出た。

今日は玉造温泉に泊まる。

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  荒神、アングルを変えて。写真に写っていないが右側奥に
  もう一匹の藁の大蛇の荒神がいる。
  地区ごとに別々に作って祀るらしい。

出雲その2

葦舟に水蛭子を乗せる伊耶那美の姿に白き朽木は傾ぐ



水蛭子(ヒルコ)はイザナミとイザナギの最初の子供、いうならば長男。

しかし、成育が悪く三歳になっても歩けなかったため葦船に乗せられ流された。

一方、スサノオは二人の一番末の男子。

スサノオは死んだ母イザナミを慕って髭が生える歳になっても泣き喚いていたので、

とうとう父親に追放され、さらに高天原からも追放される。

つまり、日本神話では二人の男神が追放され、

父であるイザナギもまたいつのまにかフェイドアウトするように消えてしまう。

一方、イザナミの娘アマテラスは母の退場後、八百万の神の中心になる。

これは、日本神話を育んだ集団の社会が、

母系社会であったことを暗示しているのかもしれない。


今日はまず、宍道湖から佐太神社へ。

佐太神社は出雲でもかなり古い神社のひとつで出雲風土記にも登場する。

宍道湖から日本海側に北上、それほど離れていないので割りと早く着く。

鳥居をくぐった先が駐車場、その向こうの佐蛇川を挟んだところに三殿並立の珍しい形を

した佐太神社がある。正殿、北殿、南殿があり、ちょうど南殿が修理工事中で覆われていて、ちょっとそれが無粋なのが残念。

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 佐太神社 南殿が工事中で覆われている

祭神はいろいろあるみたいでよく分からん。

もとは佐太大神が祭神だったらしいが、その後、イザナギ、イザナミ、アマテラス、

スサノオなど12神を祀るようになったとか。祀る神が増えたから最初はひとつだった

社が増えて三殿並立になったのであろう。

出雲でも古い神社のひとつと言われるだけあって、

なんというか神寂びているとでもいうのか、なんとも言えない雰囲気はある。

正殿は重要文化財らしいが、そういう神社があちこちに当たり前の顔をして残っている

のが出雲の凄いところだ。

ここから美保神社へ。

美保神社は出雲では出雲大社と並んで有名な神社で、

昔から「出雲大社だけでは片詣り」といわれ、

出雲大社と一緒に美保神社もお詣りする習わしだったらしい。

中海沿いに走って行き半島の先端の方に行くと美保神社がある。

漁港を前にした狭い入り江の奥に神社がある感じで、駐車場が少ない。

休日とか観光客の多い日は車を停める場所を探すのに往生しそうな気がする。

出雲大社と並ぶ出雲の古く大きな神社というだけあって、なかなか立派である。

佐太神社は三殿並立だったが、こちらは後ろの方が左右二殿の並立になっている。

一方に大国主の子の事代主、もう一方に大国主の后だった美穂津姫が祀られているとか。

国譲りのさい、大国主が美保関にいる息子の事代主に諾否を聞いてくれと言ったらしいが、

「事代」という名は「託宣」を意味する。

事代主というのは、本当の息子ではなく、シャーマンだったのではないか?

アテネがペルシャに攻められたとき、

アテネの市民はデルフォイの神殿に神託を請い、籠城か海戦かを決めたが、

それと同じように、出雲の王は美保関にいたシャーマンに神託を請うたのかもしれない。
事代主が国譲りを受け入れ、自分はさっさと海の底に沈んでしまったという神話は、

シャーマンが神託を命がけで求めたことを意味するのかもしれぬ。

そんなことを考えつつ美保神社を出て弓浜半島に向かう。

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 美保神社

弓浜半島は今でこそ陸続きだが、昔は砂州の島だったらしく。夜見の島と呼ばれていた。

夜見の島、すなわち黄泉の島である。
なぜ黄泉の島と呼ばれていたのかは分からないが、
中海の向こうにある砂州の島が古代の葬送の地であった可能性はあるのかもしれない。
この弓浜半島、走っていると「夜見町」という表示が交差点に出てくる。
古代の夜見の地名が現代まで残っているのである。
弓浜半島を渡り、落ち着いて感じの良い米子の街でひと休みして、中海沿いに出雲に戻る。
途中、去年も来た揖屋神社に立ち寄る。
黄泉比良坂の原型になった伊賦夜坂が近くにあり、去年そこを歩いたときの話はこの
ブログにも書いた。印象的だったので再び立ち寄る。
境内に入り、取りあえずお詣り。そこで後ろを振り向くと今年もあった。
揖屋の荒神。
去年、ここで会った老人にいろいろ話を聞かせてもらった。

荒神の謂れを聞きながら、「これはイザナミか?」という疑問を心の底に抱いたのだった。
長くなった、続きはまたあとで。

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  揖屋神社
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  揖屋の荒神
   藁の大蛇が二匹、木に巻き付いて頭をこちらに向けている。
   去年は口を開けていたのでもっと迫力があった。


出雲

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ

                            /山中智恵子


高天原を追放されたスサノオは船通山の麓、鳥髪の地に降り立つ。
山中智恵子は神話の世界のスサノオを生身のひとりの若者の姿に浮き上がらせた。
生きる者が宿命的に負わなければならないかなしみ。
自我を確立しようとする若者が通過しなければならない苦しみと孤独。
鳥髪の地に降る雪の向こうからあらわれた若者。
彼はこれからもかなしみを負わなければならず、明日も雪は降り続くだろう。
日本神話の世界をこの世に美しく蘇らせた山中智恵子の秀歌である。

その歌の地を尋ねて出雲に行ってきた。
鳥髪のあたりを歩き、船通山に登り、さらにスサノオの跡を訪ねて出雲をあちこち
歩くつもりで出かける。
たまったマイルを交換して飛行機はタダ。宿泊はしんじ湖温泉と玉造温泉に取った。
空港からレンタカーで船通山へ。宍道湖のほとりから鳥取との県境の方に登ってゆく。
一時間くらいで着く山間の開けた土地が鳥髪。
日本神話でスサノオが高天原から降りた地も21世紀の現代では普通の田園である。
数日前に降ったのであろう雪が田畑の上に少し残っている。
そこからさらに山の方に登って行くと斐乃上温泉があり、そこから船通山に登る。
ちなみに、なぜ船通山かというと、スサノオが高天原から降りたのは、鳥髪だという話と、
船通山に降りてから鳥髪へ下っていったという話がある。船通山ではなく鳥髪山といって
いるものもあり、ちょっとややこしい。で、一応、船通山の1142mの頂上にはスサノオを祀る祠と八岐大蛇の尻尾から出てきた剣の標柱とかがあるらしい。
林道に入ると回りの雪が増えてきた。
斐乃上温泉まであと1kのところで路面にも雪が出てきた。
上の方には雪があるかなと思っていたのだが、
この時期このくらいの低山でアプローチに雪があるとは思っていなかった。
レンタカーはノーマルタイヤでチェーンも積んでいない。
スサノオの降りた船通山にさくっと登ってくる予定だったが、
レンタカーでスリツプして修理代払うのも馬鹿らしいので、ここであっけなく諦める。
ちょっと考えが甘かったか。

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 斐乃上温泉まであと1K。
 この先はもっと雪が増えそうなので断念

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 鳥髪のあたり

仕方なく引き換えし、鳥髪から斐伊川沿いに下る。

スサノオの神話で有名なのは八岐大蛇の退治である。

彼は八岐大蛇を倒し櫛稲田姫を娶り、須賀の地に宮を建てる。

八岐大蛇の原形について、斐伊川の氾濫をおさめた古代の治水事業が神話のもとになったという説、船通山のあたりでおこなわれていたらしい製鉄との関わりが背景という説、

北陸の勢力との戦いという説などいろいろある。

いずれにせよ、遠い古代の話で、結局は空想の域を出ないのだが、

現地に行ってみないと分からないことというのも結構あるわけで、

それで今回、スサノオの神話の現地を見たかったのである。

で、車で現地を走ってみると、鳥髪から先は田畑が広くなってゆくのだが、その先でまた谷あいの流れになったりするので、治水するならもっと下流だろうなという気がする。

そうすると、なぜ上流の鳥髪が神話に出てくるのか? 源流だからか?

また、船通山に製鉄を業とする集団がいたとすれば、

位置的に鳥髪のあたりは彼等の食料供給地になったはずである。

出雲の豪族の勢力争いのなかで、製鉄集団を勢力下に取り込もうとする豪族がいれば、

当然、製鉄集団の食料供給地を抑えようとしただろう。あるいは八岐大蛇とスサノオの戦

いは、そういう豪族と製鉄集団の戦いを遠い背景にしているということはあるかもしれないと思った。ただ、出雲の製鉄というのは時期的にはいつ頃から始まったのか?

その辺はどうなのだろう?

ま、そんなこと考えても結局分からないということは分かっているわけで、

そんなことをつらつら思いつつ斐伊川沿いに宍道湖へ車を走らせている観光客というのは、

かなり変な観光客ではある(^^;

途中、須佐神社に立ち寄る。

出雲風土記によればスサノオが出雲の各地を開拓し、最後にここを開拓、その地が気に入って、自分の名前をその土地に付けたとか。一時期、出雲のパワースポットとして評判に

なり観光客が増えたらしいが、平日のゆえかそれ程人は多くはなかった。

静かな神社である。社殿は出雲らしい大社造り。

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 須佐神社本殿

そこから立久恵峡を抜けて宍道湖に出る。

ずうっと走ってきた斐伊川は宍道湖にそそぐあたりでは結構川幅が広くなる。

川自体は蛇行していないのだが、川のあちこちに砂州があるので流れは蛇行している

ように見え、なるほど確かに大蛇のようにも見える川である。

斐伊川にかかる橋を渡り今日の泊まりのしんじ湖温泉へ向かった。

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  宍道湖 冬の夕陽


大山&小川家

首を突っ込んでいるNPOの毎年恒例の忘年ハイキングで大山へ。

本厚木に集合しバスで広沢寺温泉入口。

バスにはいわゆる中高年登山者が大勢乗っていたがバス停でぐずぐすしている彼等を

尻目にさっさと出発。広沢寺温泉を抜けて畑のなかの道を登り林道を不動尻へ。

周囲は紅葉が終わりかけた里山。

不動尻は以前はキャンプ場があったのだが今はキャンプ場はなくなっている。

ここに限らず東丹沢のキャンプ場はかなり閉鎖されている。

ヒルが多くなりキャンプに来る人が減ったのも原因のひとつらしい。

広沢寺のバス停からここまで一時間半。

今日はここから尾根を登って大山と三峰の間の稜線に出、そこから大山に登る。

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  不動尻のキャンブ場跡にあったミツマタ
  今月末くらいになると花穂が白くなってミツマタらしくなる

登り始めは結構急登が続く。不動尻までがちょっとゆっくりペースだったので、

少しペースを上げたのだが、息が切れる。

登っていくと右の方、冬の木立ちの向こうに大山三峰の稜線が見える。

あの高さまで登れば稜線に出るわけだから、もう少し。

登り始めて40分で稜線に出る。コースタイムは一時間となっているから頑張った。

冬枯れの稜線を大山に向かう。

しばらくすると稜線の左に相模湾が広がり、向こうに大島が見える。

さらにその向こうに見えるのは新島?三宅島?

空は雲っているのだが割と見通しの効く日である。

それにしてもこの不動尻からのルート、大山の他のルートと比べて人が少なくて、

静かで落ち着いた尾根歩きという感じ。なかなかいいルートである。

それにしても、久し振りの山登りのせいか足に来る。

ちょっとつらいなと思いだしたあたりで頂上に着いた。ホッとする。

見晴らしのいいところで昼食。

曇っているのだが、だんだん日が差してきているようで、座って見ていると、

眼下の関東平野、東京の西半分は日があたっていて、東半分は日が陰っている。

それがだんだん東の方に伸びていくのが分かる。

もうしばらくすればこのあたりも日が差しそう。

遥か向こうに横浜のランドマークタワー、その左の方にずっーと行くと東京の高層ビル群

が立ち並び、よく見るとスカイツリーが細い棒のように立っている。

しばし休憩のあと、阿夫利神社奥の院で手を合わせ下山。

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登りは足にきたが下りは割りと軽快に下れた。

一時間かからないくらいで阿夫利神社下社に着き、時間がないのでここからはケーブルで

下る。今日は大山ハイキングのあと大山参道の小川家で、豆腐料理を食べる。

それが2時半からの予約になっているので、歩いてくだっていると遅れてしまう。

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  阿夫利神社下社

ちなみに大山豆腐の小川家、人気があるらしく予約していないと一杯で入れないことが

多いようだ。

昔、大山に参詣した人達が大豆を奉納する習わしがあったらしく、奉納された大豆を

豆腐にして、修行している神職や山伏達が食べたのが大山豆腐の始まりらしい。

何年か前、やはりこのNPOの懇親ハイキングでふらっと小川家に立ち寄り、

予約していなかったのだが、運よく30分くらいの待ち時間で入れた。

そのときに食べた豆腐料理が美味しく、また美人女将のもてなしがすっかり気に入って、

以来、毎年、大山に登り小川家で豆腐料理を食べるのが

うちのNPOの年末行事になったのだった。

奥の個室を取っておいてくれて、そこでまずは下山祝いのビール。

料理はごま豆腐から始まって豆乳の湯豆腐、ゆばの刺身、野菜と卵の煮つけと続き、

最後は猪鍋のコース。

湯豆腐は火をつけて豆腐がふるふると震えだしたところで食べる。

そうすると、豆腐の外側は熱く内側は冷たいままで、

火が通って豆腐がすっかり熱くなった湯豆腐よりも豆腐の甘味が出て美味しい。

ビールを日本酒に変えていい気分。

最後は猪鍋の残った汁でおじやにして〆。

うん、満足。

また来年どうぞという美人女将の挨拶に送られて、すっかり暗くなった参道を

ぷらぷら歩き伊勢原行きのバス停へ。

伊勢原でさらに二次会になだれ込み、いい気分で帰路に着いたのだった。

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  豆乳の湯豆腐
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  猪鍋

会議

成年後見の会議。

なんでも税理士の成年後見受任を助成するために助成金を出す仕組みを作るんだそうで、

その枠組みについての打ち合わせ。

事業案を読むと、一読してこういうケースはどうなるの?この規約では対応できないよね、というのが出てくる。

それについて指摘すると、そのあと会議紛糾(^^;

プロジェクトチームなるものを作って事業案を作ったのだが、

それにしては...。

規約に余計な言葉が入っていて問題が生じることに気が付かないというのは、

検討が尽くされていないとしか言いようがないし、

成年後見の報酬対象期間が一年未満になるのはレアケースだという発言は、

成年後見の現実を知らないとしか言いようがない。

以前、研修会でも話が出ていたが、成年後見の期間は概ね3年とか5年、そのくらい。

認知症の高齢者が対象になることが多いので、

本人死亡によりそれくらいで終了することが多い。

私が以前、法定後見をやった時も一年半で本人死亡により終了した。
終了すれば家裁に報告し、それまでの報酬付与の審判申し立てをするのであって、
報酬付与の審判申し立てを一年単位でしていれば、
最後の年の報酬対象期間が一年未満になることは当たり前に生ずるはず。

会議の途中で、「これはもう本会で議決したの?」という質問が出て、また混乱(^^;;
もし議決しているのなら、今さら話しても仕方ないという部分もあるわけで、
どっちなんだと聞くと、決めることが決まったとか、議論することが決まったとか、
よく分からん。
だいたいもって、本会の事業なのだろう。
本会で議決した事業案に従ってサポートセンターが事務の委託を受けるのならば、
本会で決まった大本に従うのが当たり前。
その大本の本会の事業案の方には、
「計算対象期間は家裁への報酬付与申立の申請期間とします」と書いてあるのに、
サポートセンターの方では対象期間は家裁の申請期間と一致しなくていいとか言うのは、
どういうこと?
一回の申請につき一年を超えては助成しないとかいう話も、
大本の本会の事業案に書いてないじゃん。

そういう重要なこと運用の細則で決めていいの?
事務を委託された方が運用の細則で委託した方の大本の規定を否定するわけ?

議論を尽くしたとか言っていたけど、
これで議論を尽くしたと言えるのかね?
会議の場にはなにやら議論を厭う雰囲気が流れていたようで、
議論を戦わせることに慣れていない向きには、
そういう役目は向いていないのかもしれないが、
引き受けた以上はしっかりとやる。
仕事ってのはそういうもんじゃないのかね?
だから会議のあと忘年会に行く途中で、「叩き台が半端だから会議が紛糾するんだ」
という冷たい言葉を受けるわけだよ(^^;;;

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  銀杏もそろそろ終わり

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