八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を
/素戔嗚
スサノオは八岐大蛇を倒し、櫛稲田姫と暮らす宮を建てる。
その喜びを詠った「八雲立つ・・・」の歌は日本最古の和歌といわれているが、
たぶん、日本最古の和歌ではなく、日本最古の記録に残った和歌というのが正確なところ
だろう。現代短歌の母胎となった和歌は、かつて共同体の集まりや祭祀で実際に歌われて
いた古代の歌謡が原型であり、そのなかで初めて文字の形で残されたのが、
「八雲立つ・・・」の歌ではなかったのか。
出雲の空を見上げ、あの雲のように美しい八重垣の宮を私は妻のために建てる。
戦いが終わったあとの高揚のなかでスサノオは喜びをそう詠う。
かつて勾玉の生産地であったらしい玉造は、古事記の時代から温泉が出ていたらしい。
今日の泊りは長楽園。なんでもここの露天風呂は日本有数の大きさの混浴露天風呂なんだ
そうな→ http://www.choraku.co.jp/
ま、しかし、混浴に目がくらむ歳でもないので、
宿の仲居さんがあそこは美味しいと教えてくれた蕎麦屋に夕食を食べに行く。
行ってみると、蕎麦屋というより完璧に温泉街の場末の居酒屋である。
ま、一杯ひっかけたかったので、むしろその方がいい。
テキトーに飲んでいると、周囲の客が年配の女性の一人客が多いことに気が付いた。
互いに知り合いであるらしく、他の客と話をしながら軽く飲んで食事をしている。
この時間に一人で居酒屋に来るということは、夕食をともに食べる家族がいないという
ことであろうか、おそらく、温泉街で働く住み込みの仲居さん達なのだろう。
彼女達の話を聞くともなく聞きながら酒を飲み、勧められるままに焼きガニなどを食い、
最後は宍道湖のしじみラーメンで〆、なかなか美味かった。
酔って宿に戻りフロントで鍵を受け取ったところまでは覚えているがそこから先の記憶がない。しかし朝になったら、ちゃんと浴衣に着替えて布団に入っていたのだから、
結構しっかりしていたのだろう(^^;
翌朝、早い時間なら日本最大の混浴露天風呂にも人がいないだろうと思って行ってみた。
なるほど確かに大きな露天風呂で気持ちがいい。
早い時間ならと考える人間はやはりいるみたいで、十人くらい入っていたが、
女性は巻き布なるものを着用し、男性は手ぬぐいで前を隠すようにというルールのもとに
入る。混浴というのは初めてだったが、そういうルールのもとに入っていると、
案外どうということもない。いい風呂だった。
朝食のあと、川沿いの玉造温泉の街並みを散歩して子供達に勾玉の土産など買ってから
チェックアウトし、須我神社に行ってみる。
スサノオが八岐大蛇を倒し、櫛稲田姫とともに暮らす宮を建てたのがこの辺であるらしい。
玉造温泉から初冬の出雲の田園のなかを走っていくと須我神社がある。
そう大きくない神社で、日本最古の和歌の詠まれた地という碑がある。
2kぐらい山道を登ったところに奥社があるらしく、片詣りせずに奥社へもどうぞという
看板が出ているのだが、空がどんより曇っているのでやめておく。
そのあと昼前にざっと降ってきたのでやめておいて正解だった。
須我神社
須我神社を出て、帰りの飛行機まで時間があるので出雲大社に行ってみようと思うが、
その前に田和山遺跡に立ち寄ってみる。
宍道湖のほとりの市街地の真ん中にある古代遺跡。
松江市立病院の隣にある丘で、形としては環濠集落だが、竪穴住居は環濠の外にあったら
しいので、どうもいわゆる環濠集落ではないらしい。
なんのために造られたのかよく分からない。時代は紀元前後の弥生時代。
砦だったという説もあり、宗教施設だったという説もある。
行ってみると丘の斜面に掘を掘って囲んだような形の異様な遺跡である。
市街地の真ん中に古代遺跡。丘に三重の堀を掘ってめぐらしている。
頂上部分に登ると宍道湖や周囲の風景がよく見える。
そう広くもない頂上部分には建物の柱のあとが残っている。
掘の一部から鏃やつぶてが沢山出てきたので、砦で戦闘があったのではないかと言われた
が、調べてみると鏃はみな普通よりも小さく、実戦用ではなかったのではないかという。それらが出土する場所も一部のところに偏っているので、実際の戦闘ではなく宗教的な
模擬戦のようなことがおこなわれたのではないかともいう。
確かに頂上に立ってみると砦という感じはしない。
一見、堀をめぐらしているので砦のように思うが、砦として使うには小さく兵士がこもる場所も限られるし、水も確保できないので、
敵に囲まれれば砦という名の捕虜収容所になってしまうだけである。
頂上部分、建物の跡がある。向こうに見えるのは宍道湖
あるいは頂上には出雲大社の原型のような建物が立っていて、神を祀る場所だったのでは
ないか、そういう説もあるらしいが、そちらの方が説得力がありそうな気がした。
面白いのはこの田和山遺跡と古代の出雲大社の高さが48mで同じだということ。
出雲大社については現代の倍の高さのある高楼だったという話があったが、
伝説だとして一笑にふされてきた。
ところが平成になって高楼を支えていた宇豆柱が発掘され、
どうも本当らしいという話になっている。
あるいは田和山の宗教施設をその後出雲大社の方に移したということだろうか?
丘の上で見ていると、小学生がひとり自転車を下に置いて登ってきた。
歴女ならぬ歴少年だろうか。それと入れ替わるようにふたりで語らっていた高校生の
カップルが降りてゆく。古代の遺跡が生活のなかにフツーにあるという感じ。
向こうで草刈り作業中
田和山遺跡を出、宍道湖沿いに走って出雲大社へ。
まずは出雲の割子蕎麦で昼食、なかなか美味い。
去年は60年に一度の修理とかで工事の幕に覆われていたのだが、
今年はその幕も外されてちゃんと見ることが出来る。
出雲大社
ちょっと後ろから
国譲りのとき、国を譲るかわりに大国主が建てさせたという出雲大社。
大国主は若いとき、根の国のスサノオのもとを訪れ、
スサノオから幾多の試練を受けさせられる。
スサノオの娘、須勢理比売の助けでその試練を乗り越えた大国主は、
須勢理比売とともにスサノオのもとから逃げる。
気が付いたスサノオは怒り、ふたりを追いかけ、黄泉比良坂を逃げるふたりに大声で叫ぶ。
「お前が持っている生大刀と生弓矢で、お前の兄弟たちを坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払って、おぬしがオオクニヌシ神となり、またウツシクニタマ神となって、吾が娘スセリビメを妻とし、宇迦の山の麓に、底つ石根に、宮柱ふとしり、高天原に氷椽たか
しりて住め。こやつめ」
自分のもとから逃げる娘と娘を奪おうとする男に追いついたとき、
スサノオはふたりを連れ戻すのではなく祝福した。
日本神話でもっとも美しい父性原理の発露である。
戦前は軍国主義者らによって国家神道として歪められ、
戦後はマルクス史観の徒に不当に貶められたが、
日本神話は右や左の輩がとやかく言えるような安っぽいシロモノではない。
日本神話は美しい神話である。
その美しさに惹かれ、
去年今年と2年続けて出雲を歩いた。
そろそろ終わりにしないとスサノオやオオクニヌシに、
いつまで出雲にかかずらっているのだと笑われそうである。
この辺で終わりにしよう。
今年のつれづれ日記への書き込みは今日で終わります。
読んで頂いた方に御礼申し上げます。
また正月明けからぼちぼちと書いていきます。
良い年をお迎えください。