2013年10月

ソフトボール

税理士会の支部対抗ソフトボール。

支部報に載せないといけないので取材に行く。

一回戦は緊張のゆえか動きが悪く敗退。

うん、これで予選敗退、写真も記事も今月末の支部報に充分間に合うなと思って、

二回戦は見ないで帰ってきたら、夕方、電話がかかってきた。

「二回戦で勝って、得失点差で決勝進出です」

えっ! 決勝進出!

決勝は一週間後。

うーん、今日撮った写真を支部報の表紙に使うつもりだったんだよな...。

記事は間に合うのかな...。

とりあえず、予選で撮った写真に「決勝進出!」と添えて表紙を組んでゲラに回す。

さて、決勝戦。

めっきり秋らしくなった保土ヶ谷球場。

一回戦、なぜか予選と違って動きのいいうちの支部、ぱかぱかと打つ。

何度かの走者一掃ののちかなりの得点差で勝利。

あ~あ、勝っちゃった。

支部報の表紙組み直しじゃん(^^;

決勝は1時からだって、仕事の予定どうしよう...。

決勝は1時からですから応援よろしくと配られた弁当、この弁当食べてしまうと

帰るわけにいかなくなりそうで、ちょうどやってきた支部長に弁当押し付けて、

とりあえず事務所に戻る。午後の予定を調整して1時にまた球場へ。

決勝はスタジアム、予選で使った少年野球場とか軟式野球場と違って本格的な雰囲気。
電光表示で選手名が出て高校野球みたいにアナウンスもする。

「四番 ショート 〇〇君」

〇〇君ていう歳じゃないけど、ま、そういうふうにアナウンスする決まりなんだろう。

前半でうちの支部は打線爆発、そのあと相手チームに抑え込まれたが、

前半の得点で逃げ切り、強豪で聞こえた相手チームを破り見事優勝!

ま、相手チームに負傷者が多かったのも勝因のひとつである気はするが...(^^;;

優勝を喜んでいるメンバーの横で、

想定外の優勝に支部報どうしようと考え込んでいるのがひとり(^^;;;

支部報の表紙の写真はその日のうちに印刷会社に送り、組み直しを指示。

記事は参加者に2日以内に書いて送ってくれと念を押す。

夕方、ソフトボール大会の打ち上げをしますというFAXが入ってきたが、

こっちはそれどころじゃないよ。仕事のスケジュール狂ったぶんやらないといけないし、

支部報は組み直しだし、まったく(^^

ま、それでも気分のいい秋の一日だった。

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案内文書はないの?

中学生の「税についての作文」というのがある。

国税庁と全国納税貯蓄組合連合会の共催で、

中学生に税についての作文を書いてもらい、

最優秀者には内閣総理大臣賞、他に総務大臣賞とか文部科学大臣奨励賞とか、

ローカルなところでは県知事賞とか、県税事務所長賞とか納税貯蓄組合賞とか

税務署長賞とかいろいろあって、ちなみに税理士会も支部長賞を出している。

昨年度は全国で7,328校、584,661人の応募があった。

なんでも高校の推薦入試とかでそういう賞を取っていると評価が高くなるらしく、

それでかなり学校も生徒も一生懸命やっているとのこと。

私も以前、審査員で行ったことがある。

で、それは別にいいのだが、

それに関して税理士会本会からきた依頼がよく分からん。

税理士会では支部長賞を取った生徒にその作文を朗読してもらい、それを本会のHPに

載せている。また、FMヨコハマでも一部作品が紹介されるとのことで、

つまり、本人が希望すれば税理士会のHPに朗読を載せます、ついては支部の方で

本人の希望をとり、学校と保護者の了解もとれということらしいのだが、

今の時代、ネットに名前載せます、という話をすれば、

大抵の人は「え? なんですか?」と取りあえずは身構えるわけで、

支部にそういう話をさせるのなら、

受賞者や学校に渡せる本会の名前の入った案内文書なりを作るんじゃないの?

表彰式の日に口頭で説明しろというのか、学校に電話しろというのか分からないけど、

口頭で話すより、税理士会としてこういう事業をおこなっています、希望の方は作文の

朗読を当会のHPで紹介します。学校名と名前以外の個人情報は決して出しません。

そういう正式な文書での案内があれば学校の先生も安心するだろうし、

保護者も安心して諾否を決められるんじゃないの?

表彰式から帰ってきた子供に「朗読したのをネットに載せてくれるんだって」といきなり

聞かされただけじゃ、ネットに載せるってなにそれ?と思う保護者もいるだろうに。

案内文書ぐらい作って当然なんじゃないの?

第一、説明しろって言われても具体的なこと分かんないじゃん。

そう言えば以前の本会との会議で、担当者がこの関係の話してたけど、

具体的なこと話してなかったような...。

あるいは話していたのかもしんないけど、租税教育への熱い思いを勢いよく話すから

そちらに気を取られて肝心なことが印象に残らないんだよな...。

で、収録は音声だけ? HP見ても音しか出てこないけどうちのPC壊れてるのかな?

収録はどこでやるの? いつ頃? 学校の先生立ち会うの? 保護者は?

そういう具体的なことも文書で伝えてきていいはずだよね、どうやって説明しろと?

支部に投げてよこしたような仕事の仕方されても担当者としては困るんだよな(^^;

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     ナナカマド

 

津軽から福島へ 歌会

朝、浅虫温泉で海を眺めながらのんびり風呂に入り、福島に向かう。

今回の三連休、福島で歌会があるので、それに合わせて東北旅行を計画したのだった。

それにしても浅虫温泉はなかなかいい。泊まったのは駅から歩いて一分の海鮮閣。

なかなか感じのいい宿で、風呂も良かったし、昨夜の食事も津軽の酒「じょっぱり」も

旨かった。夜は津軽三味線のライブがあった。

新幹線で福島。津軽は曇っていたが南に行くにつれて晴れてくる。途中、岩手山が綺麗。

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福島駅で土産をテキトーにみつくろって送り、

昼食でビールを一杯ひっかけ歌会モードに切り替えてから会場に行く。

今回の福島の歌会、結社外から高木桂子さんという昨年の現代短歌新人賞を受賞した人の参加もあり、出席者は12人。

で、何を隠そう今回は自分が歌を読めなかったという話(^^;

例によって発表前なのでここには出せないが、

お通しが食べ放題なのを喜びつ訝しみつ、まずは食う、というような歌意の歌。

一読して違和感があった。

「この『つ』は完了? 『つつ』の間違い? ちょっとおかしい気がする」と批評したのだが、

これは「追いつ追われつ」のような並列の用法で「~したり~したり」ということだから、

問題はないといいう周囲の意見。ああ、そうなのかと思ったのだが、

なぜ一読したとき違和感があったのかを考えてみた。

「追いつ追われつ」のような並列の用法、

この場合の「つ」は「たり」と同じ用い方になるわけで、

「追いつ追われつ」

「抜きつ抜かれつ」

「差しつ差されつ」

「持ちつ持たれつ」

のように同じ言葉の受動他動を並べるか、あるいは、

「組んづほぐれつ」

「行きつ戻りつ」

「ためつ眇めつ」

のように対照的な言葉を並列にして使われることが多く、形が割りと固定的で、

音的にも3・4のリズムを基本とする成句として使われている感じがある。

それに対してこの歌の場合は「喜びつ訝しみつ」で、受動他動ではなく対照とも微妙に

違いそうで、成句としての使い方とはちょっとずれている気がする。

で、成句として認識しなかった場合どうなるかというと、文法通りで「つ」の完了形が目

につくわけで、それに続いての結句の「まずは食う」という口語現在形との間に微妙な時

制のずれを感じてしまう、というか、感じたわけである。

「~つ~つ」の並列はかなり成句的な使い方をされる言葉である気がして、

あまり成句的でないこの歌の場合、時制が目につかないだろうか?

4句まで文語で来て、成句的でない「~つ~つ」のあとに口語の現在形が来る。

この構成はどうなのか?

歌会ではその辺の指摘は全くなく、並列だから問題なしと簡単に話は終わったのだが、

誤読の原因を考えてみると、もう少し議論したかったところではある。

ま、そんなこんなで楽しく4時間の歌会を終えた。

ちなみに結社外から参加の高木さんは親切な批評が印象的だった。

高木さんの結社には、うちの結社のように爪を研いで詠草を待ち受けるという向きは

あまりいないらしい(^^;;

夜は懇親会。歌会の会場から福島の街に出るとちょうど祭りをやっていた。

提灯を連ねた山車がたくさん出ている。歌会のメンバーが夏祭りだと言っていたが、

10月でなんで夏祭りなんだと思い、帰ってから調べてみたら福島稲荷神社の例大祭だった。

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久しぶりに東北の歌の仲間と楽しく飲んで
9時過ぎの電車で今日の泊りの飯坂温泉へ。

遅い時間で人通りの殆どない飯坂温泉の街を宿までぷらぷらと歩く。相変わらず飯坂温泉

は鄙びた感じで、そこがいい。ところどころ、しけた感じの居酒屋やスナックがまだ店を

あけている。自分としては歌会のあと福島で飲むより、この鄙びた飯坂温泉のどこかで

飲んでいる方が楽しい気はする(^^;;;

 

翌日はのんびり朝風呂につかってから、

秋の青空の下、おそらく芭蕉が歩いたであろう道を医王寺まで歩く。

医王寺は義経の従者だった佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺。

佐藤家は信夫とよばれたこの地方の豪族だった。

静かで趣きのある寺だ。

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寺の横には芭蕉坂という坂があり、芭蕉は医王寺に詣で、この坂を通って飯坂温泉へゆき、そこに泊まってさらに北の奥の細道を歩いた。芭蕉坂の途中からは秋空の下の飯坂温泉の

街並みが見える。しばしまったりと過ごしたあと医王寺を出、静かな無人駅の医王寺前で

二両電車の飯坂線に乗って福島に戻り、

昼過ぎの新幹線で帰京、三連休の東北の旅を終えた。

 

津軽 十三湊

十三湊と言っても知っている人は少ないかもしれない。

シジミで有名な津軽半島西海岸の十三湖、本州の北の果て、現代では人口も少ないこの荒涼とした湖のほとりに、中世、繁栄した港湾都市があった。それが十三湊。

鉄道や高速道路のない時代の物流ルートは現代とは当然異なるわけで、

現代では全く辺鄙な場所が当時は物流ルートにあって繁栄していたということが結構ある。

十三湊もそのひとつである。

岩木川の河口に広がる広大なラグーンの周囲には縄文時代から人々が住んでいた。

湖周辺の遺跡からは新潟のヒスイや北海道の黒曜石が出土しており、
縄文の昔からこの湖の周囲に
住んでいた人々は海を通して交易していたことが分かる。

彼等は丸木舟で海を行き来した。
三内丸山遺跡のヒスイも、あるいは十三湖を経て運ばれたものがあるのかもしれない。

その後も海の交易ルートは絶えることなく存続したのであろう。7世紀、阿倍比羅夫が

180隻の水軍を率いて蝦夷に遠征したというが、おそらく彼はこの交易ルートに乗って

日本海を北上した。使用した船自体、徴用した交易船だったのではなかろうか。

中世になって、安東氏という豪族が十三湊を支配する。

蝦夷やさらに北の地、あるいは日本海を渡った大陸とも交易し、

博多と並ぶ国際貿易の拠点だった。

15世紀、夷千島王の名で朝鮮に使節を送ったのは安東氏だったという説もある。

斜陽館を出て、津軽半島を日本海側に走っていく。距離的にはそれなりにあるのだが、

道路が空いているので一時間もかからず十三湖に着く。風の強い日だったので湖面が波立

ち、湖全体が茶色に濁って見える。水深の浅い海跡湖なので波立つと湖底の砂がまきあげ

られ茶色に濁るのであろう。湖をぐるりと回り込むようにして海沿いの市浦の方へ。

湖の端に浮かぶ中島という小さな島に市浦歴史民俗資料館がある。

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キャンプ場があり、シジミ採りの体験とかも出来るみたいで、訪れる観光客もそちらの方

が主なのではあるまいか、私が行ったときは資料館の方は訪れている人は誰もいず、係り

の人が消してあった照明をつけてくれた。

十三湊の遺跡からの出土品や復元した交易船などが展示されていて、かっての繁栄振りが分かる。十三湊の遺跡そのものはこの資料館からちょっと行った先の、十三湖を海と隔て

ている砂州の部分にあるのだが、その辺りを撮った昭和30年の航空写真があり、それを見

ると畑や家の細かい区画が縦横に走っている。調べてみるとそれが中世の区画そのままな

のだそうだ。安東氏の館のあとは小学校になっていたり、庶民が住んでいた家の区画がそ

のままの形で畑になっていたり、中世の区画がそのまま現代に残っている、十三湊の遺跡というのはそういう稀有な遺跡であるらしい。奥の部屋ではビデオが見られ、
しばらく発
掘当時のテレビ番組の録画らしきものを見ていたが、その間も結局、他には誰も
来なかっ
た。資料館を出て遺跡のあたりに行ってみる。
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橋を渡り砂州の部分に入ると人家が増え
る。
日本海からの風を避けるために家の周囲を木の塀で囲んだ家が多い。

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走っていると遺跡の案内の看板が出てきた。安東氏の館跡の小学校、その近くに土塁の跡

もあったが、土塁だと言われなければ分からない状態。

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  中世の区画がそのまま畑の区画になって残っている

いわゆる遺跡観光地にはなっていない普通のシジミ漁とかの漁業を生業にしている小さな

村である。人通りは殆ど見かけなかった。

この北の小さな村から、かつてここに、国際貿易都市があったと想像するのは結構難しい。

しばらく周囲を見て、来た道を戻る。

橋を渡るとき、日本海の幾重にも寄せる荒々しい波が見えた。今日のような風の強い日、

日本海は荒れる。そういう時、波の穏やかなラグーンは貴重な待避所になったはずで、

ゆえに十三湊は海の交易ルート上の拠点になりえたのであろう。

しかし、大抵、ラグーンは時代とともに埋まってゆく、十三湖も飛砂に埋まり水深が浅く

なっていった。そのゆえか、あるいは造船技術や操船技術の発達のゆえか、やがて北方と

の交易の拠点は陸奥湾の方に移り、その後の十三湊は日本海側の中継港のひとつになり、

かっての繁栄を取り戻すことはなかった。

そして現代の十三湊は、知る人も少ない北の果ての静かな遺跡である。

紅葉の始まった津軽半島を走り、青森に戻りレンタカーを返し、電車で今日の泊りの

浅虫温泉に向かった。三内丸山、斜陽館、十三湊と今日はちょっと盛り沢山だった。

 

 

 

津軽 斜陽館

三内丸山から金木の斜陽館に向かう。

小説家の太宰治の生家で今は太宰治記念館「斜陽館」になっている。

40分くらいで到着。

結構大きな入母屋造り二階建て。

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太宰治の父・津島源右衛門は300人の小作人を持つ津軽の大地主で貴族院議員だった。

青森の長者番付上位の常連で「金木の殿様」と言われたらしい。

その源右衛門が明治40年に建てた一階11室278坪二階8室116坪、敷地は680

坪というたいそうな家である。

太宰治こと津島修治は明治42年、この家で生まれた。

入ると広い土間が奥まで続いていて収穫の時期は小作人がこの土間に米俵を積んだらしい。

左側は広い和室がつながっていて、一番奥に台所と竃につながる板の間がある。

この竃のそばの板の間がこの家では一番気楽な場所であったらしく、

子供の太宰治はその板の間でよく遊んでいたという。

板の間の脇に他よりは少し小さめの和室があり、太宰治はそこで生まれたとか。

確かに産湯を沸かさねばならないわけだから、竃の近くの部屋の方が良かったのだろう。

和室の部屋の襖絵なども見事で、さすが金木の殿様、金を惜しまず作ったのだろう。

二階は和室と洋室でこれも感じよく作っている。太宰は後年、

「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情もなにもないただ大きいのである」

と書いているが、それは屈折した太宰らしい物言いで、風情もある立派な家である。

300人の小作人のいる大地主だから、彼らの運んでくる米俵の管理とか、

小作人への貸付けとか仕事の打ち合わせとか、そういう仕事関係で当然一階の作りは

大きくなるわけで、別に見栄だけで大きく作ったわけではあるまい。

太宰治の使っていたマントとか、彼の手紙とか原稿とかいろいろな展示があり、

なかに彼の略歴があったが、見ると田部あつみとの心中事件とか、その辺は省かれたよう

な書き方。郷土が生んだ大作家の略歴としてふさわしくないと思ったのだろうか。

太宰は生前、何度もの自殺未遂と心中事件を起こしている。

鎌倉の小動海岸での田部あつみとの心中事件は田部あつみだけが死に、太宰は助かった。

心中を装った殺人あるいは自殺幇助だったのではないかという説もあるが、

今となっては憶測の域を出ない。

戦後の農地改革で津島家は多くの土地を失い昭和25年、この家も手放す。

その後、旅館「斜陽館」となり、平成8年まで営業し、

全国の太宰ファンの聖地になったらしいが、

申し訳ないが私は太宰ファンではない。

今日も三内丸山を見てこのあとは津軽西浜の十三湊を見たかった。

斜陽館はその道の途中にあったから立ち寄っただけである。

太宰治の作品は作品として、

人間としての太宰治は恐山のイタコが呼び寄せてくれたなら一時間くらい説教したくなる。

だいたいもって太宰は弱すぎる。

大学で左翼運動に傾倒するのはいいとして、それが実家にばれて仕送りを停めるぞと脅さ

れると、あっさり言うことを聞くあたり、しょせん、お坊ちゃんである。

生活は乱れ、芥川賞の選考で川端康成にそれを指摘されて受賞を逃すと恨みつらみの
手紙
を送り、翌年の芥川賞のときはその川端に「どうぞ私を受賞させてください」
懇願の手紙を送っている。

文学で裏から手を回そうとするな。

何度も何度も心中事件起こすし、あっちこっちで女に手を出すし、

なにが「死ぬ気で恋愛してみないか」だ、まったく。

「走れメロス」という、いかにも教科書向きの作品があるが、

この作品は熱海事件がヒントになっているのではないかと言われているが本当だろうか?

檀一雄と太宰治の二人で熱海に行って散々遊んで、ところが金がない。

檀が人質になって宿に残り、太宰がひとり帰って金を持ってくることになったが、

待てど暮せど太宰は帰ってこない。

とうとう痺れを切らした宿の番頭が、檀を連れて井伏鱒二のところに行き代わりに金を

払ってもらおうとしたら、なんと太宰は井伏鱒二と将棋をしていたという。

怒鳴りつけられた太宰は「待つ身がつらいか待たせる身がつらいか」とつぶやいたとか。

自分は必ず帰ってくるという約束を破って将棋していたくせに、

小説のなかではよくしゃあしゃあとメロスを帰らせたものだ。

まあ、そんなこんなで正直、太宰治はあまり好きではない。

それにしても立派な家だ。

やはり、お坊ちゃんだったんだな...。そういう妙な感慨を抱いて外に出た。

ちなみに太宰は山崎富栄との何回目かの心中事件で今度は本当に死ぬ。38歳。

玉川上水から引き揚げられた太宰の遺体は殆ど水を飲んでいなかった。

首には縄が巻き付けられ、その端が口に突っ込まれていた。

一方、山崎富栄の遺体は恐怖にゆがんだ形相をしていたという。

状況からして太宰は川に入る前に死んでいたか仮死状態になっていた。

後年、遺書が出てきたので、自ら選んで山崎富栄に首を絞めさせたのかもしれない。

でもなぜ、縄の端が太宰の口に突っ込まれていたのか?

あるいは本当の状況は違うのか?

ま、それももう憶測しても仕方ないことである。

駐車場の横の土産物屋で昼食に郷土料理の金木めしを食い、十三湊に向かった。



 

津軽 三内丸山遺跡

JR東日本で三連休パスというのを売っていて、

これを使うと三連休の間、JR東日本の電車が乗り降り自由になる。

13,000円、ただし新幹線は別途特急券が必要。

先日の三連休、それを使って東北に行ってきた。

初日、新幹線で新青森、東京から3時間15分。

この日、東京は久し振りの真夏日だったようだが、本州の北の端は結構涼しくて、

駅前のナナカマドがもう赤くなっていた。

レンタカーを借りて三内丸山遺跡へ。

5900年前頃から形作られ4200年前頃に忽然と消滅した縄文時代の遺跡。

車で10分くらいだから、青森の市街地からそう遠くないところに遺跡はある。

ここに遺跡があること自体は江戸時代から知られていて、

地面を掘ったら土偶が出てきたとか甕が出てきたとか文献に出ている。

県営の野球場を作ろうということで1992年から事前の発掘調査をしてみたら、

大きな建物を建てたらしい跡など次々と遺跡が出てきて、これは野球場どころではない

ということで、遺跡公園として整備された。

駐車場から行くと縄文時遊館という施設があり、そこからトンネルを抜けると遺跡に出る。
広々とした遺跡である。

左の方に歩いていくと、向こうの方に見えてきた。

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三内丸山遺跡のシンボルになっている大型掘立柱建造物と、大きな竪穴式住居。

三内丸山遺跡はそれまでの縄文時代のイメージを覆した遺跡である。

それまでは縄文時代といえば狩猟採集生活の時代で、

人々は食べ物を求めて山野を転々と移動する生活をしていたと思われていた。

ところが三内丸山の発掘の結果、

そこで暮らしていた人々は定住して大きな建物を建て、クリやヒエやエゴマを栽培し、

動物の骨から作ったヘアピンを頭に飾り、交易で遠方から手に入れた翡翠の耳飾りや

ペンダントを持っていた。しかも、幅の広い道路が作られ、建物の配置などから、

三内丸山は都市計画によって造られた街だったことが分かった。

従来の、原始時代に毛の生えたくらいの縄文時代、というイメージとは

全く違う社会がそこにあった。

遺跡のシンボルになっている掘立柱の建造物だが、

吉野ヶ里遺跡のような物見櫓だったのか、建物ではなくストーンサークルのように、

柱だけが立っていたなんらかの宗教施設だったのか、あるいは灯台だったのか、

その辺は定かではない。

復元を請け負った大林組が調べた結果、柱の穴の底への加重などから計算して、

高さ14,7mの柱が立っていたらしいということで、そういう柱が今は立っている。

あるいは壁や屋根があったのかもしれず、あるいは柱だけだったのかもしれないのだが、

いかんせん特定できないので、折衷案ということで、柱を建て屋根と壁のない床を三段

つけるという、なんとも中途半端な復元をした。

こういうふうに復元すると、アホな観光客はその復元された姿だけでイメージを固定して

しまうわけで、本当の姿とはかけ離れたイメージを広げてしまうかもしれない。

実際の復元はせず、映像で幾つかの復元パターンを示す方が良かったのかもしれないが、とりあえず観光施設としては必要だったのだろうから仕方ない。

ちなみにこの14,7mという高さは吉野ヶ里遺跡の物見櫓よりも高く、いずれにせよ

かなり大きな建造物だった。

掘立柱建造物の近くの大型竪穴式住居に入ってみた。

太い柱を使い、しっかりと作られている。大きさからして個人の住居ではなく、

集会所なり作業所なり、なんらかの施設として使われたのだろう。

その向こうには高床式倉庫といわゆる竪穴式住居が並んでいる。

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湿気や鼠の害から食料を守る高床式倉庫がまとめて作られているということは、

農耕がおこなわれていたというだけではなく、

蓄積するだけの余剰生産物があり、それを管理する権力があったということである。

縄文時代には既に社会の階層化があったということであろう。

竪穴式住居ものぞいて見たが昼間でも暗い。夜は囲炉裏の灯りがあるだけで、あとは

真っ暗だったのだろう。どういう家財があったのか分からないが、寝起きできるのは、

雑魚寝で7~8人か、それぐらいのスペース。

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すっかり秋らしい遺跡を歩いて縄文時遊館に戻る。

発掘品を展示しているところがあり、一通り眺める。

この豊かな古代の街は4200年程前、忽然と放棄される。

原因は気象変動であるらしい。

紀元前2200年頃、地球規模の異変があった。

北半球のどこかで巨大な火山噴火があり、

成層圏にまで達した火山灰と霧状の硫酸が太陽の光を遮った。いわゆる「核の冬」である。

地球は寒冷化し、旱魃や大雨という異常気象が起きた。

人々は飢え、当然、社会不安が増大しただろう。そして混乱は王朝の交代をもたらした。

メソポタミアのシュメールではアッカドが滅びウルが台頭し、

エジプトでは古王朝の時代が終わり第一中間期という暗黒の時代に入る。

中国では長江の良渚文化が滅び黄河に夏王朝が生まれた。

この列島でも異変があったのだろう。

最盛期の三内丸山は街の周囲が栽培された栗の林だった。栗は重要な食糧だった。
寒冷化によって栗の栽培が出来なくなり、雪も増えたのかもしれない。

忽然と消滅したということは、あるいは人々は集団で新天地を求め移住したのかもしれない。

縄文時代後期、この列島の人口は中期よりも減少する。厳しい時代が訪れたのである。

彼等はどこにゆき、どこに新天地を切り拓いたのだろうか。

そんなことを思いながら三内丸山をあとにした。

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