歌会

スケジュールがなんとか空いたので東京の平日歌会へ行ってきた。

忙しくて歌会に出られなくなって久しい。

ちなみに6月に横浜歌会に出たのが2年ぶりの歌会出席で、今年は今回で2回目の歌会。

多いときは月に3回歌会に出ていたことを考えれば天地雲泥の差である。

ちなみに以前は、平日歌会に出るときは午前中に東京の街歩きをしたり

博物館や美術館を訪ねたりしていた。

そうやって常に新しいものをインプットしていないとアウトプットが細る気がする。

忙しいと歌会に出られないだけでなく、そういうことも出来なくなるのである。

今回は両国のすみだ北斎美術館に午前中行ってきた。

葛飾北斎が生まれたあたり? に作られた小さな美術館で、

今は「北斎が紡ぐ平安のみやび」という企画展をやっている。

海外での浮世絵人気のゆえだろうか、日本人より海外の人の方が多かった。

子供の頃から浮世絵が好きで、小学生の頃、当時の永谷園のお茶漬けの袋におまけで

入っていた富嶽三十六景や東海道五十三次の小さな浮世絵のカードを集めていた変な

ガキだったので、ひさしぶりに北斎の絵が見られて楽しかった。

そのあと昼食を食べ回向院の前を通り墨田川を渡って歌会の会場に行く。


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  すみだ北斎美術館

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  歌会の前、両国の定食屋で昼食。
 歌会の前に禊のビールを飲んで戦闘モードに切り替えてから歌会に行く。

当日の出席者は10人と少なく、こじんまりとした歌会だった。

以前の平日歌会は30人くらいの出席者がいて選者も出ていたのだが、

新型コロナでリアルの歌会が出来なくなり、

それを機に歌会に出なくなった人もいるようで、すっかり出席者が減ったらしい。

選者があまり出席できなくなったというのも大きいのかもしれないが、

いずれにしろ、新型コロナは短歌の世界にもなにがしかの影響を及ぼしたのだろう。

で、例によって気になった歌。

誌面発表前なのでここには出せないが、

公園の墓標の前に凹みがある 墓の前に額づいたシューベルトの額

というような歌意の歌。

というような歌意というか、意味の分かりにくい歌である。

この歌、詠草の第一番でいきなり批評を指名されたのだが、まず、情景が分かりにくい。

公園の墓標というのは、霊園のようなところか?

墓標の前に凹みがあるって?  普通そんなところに凹みあるの?

額ずいたシューベルトの額とは?

読みとしてはシューベルトが額ずいているんだろう。

しかし、それと凹みがどう関係あるの?

シューベルトが額ずいたから額の形に墓標の前が凹んでいる?

ありえるの?  そういうこと…?

作者にはわかっているいろいろなことがこのままでは伝わらないのではないか、

という批評をしながら気づいた。

当日の歌会に出席していたK氏の歌だなと。

分かるわけないよ、K氏の歌なら…(^^;

変わった歌を詠む人で、なんというか、独自の仮想空間を表現しようとしているのかな

と思うわけだが、それすら違うのかもしれない。

虚構の世界を詠った歌人と言えば寺山修司である。

寺山修司は虚構のなかに人間の真実を浮かび上がらせようとした。

そういう表現を追い求めた寺山が短歌から演劇の世界に軸足を移したのは、

ある意味必然だった。

しかし、K氏の場合は違う気がする。

虚構の世界そのものを描きたい?

しかし、そうだとすればそれは難しいのである。

人間ではなく虚構の世界そのものを描くとすれば、

その歌はかなりの部分でその世界なり情景の説明にならざるをえないわけである。

それを一首の歌として成功させるのはかなり難しい。

そもそも現実との接点が一首のなかになければ読者には伝わりにくいだろう。

もしK氏が望む表現を短歌で成功させるとしたら、

それは一首の歌としてではなく、

短歌と散文の組み合わせ、

そういう歌物語のようなものでないと難しいのではなかろうか?

そんなことを思いながら他の人たちの批評を聞いていた。

ちなみにくだんの歌、歌会後の作者の話によると、

オーストリアのベートーヴェンの墓の隣にシューベルトの墓があって、

シューベルトが生前、ベートーヴェンの墓に額ずいてシューベルトの特徴のある

額の形に土が凹んでいるのを想像してみたとか...。

読めるわけないよな...(^^;;

 

10人と出席者の少ない歌会だったので予定の時間より早く終わったが、

ひさしぶりの歌会は楽しかった。

東京の平日歌会は以前は並んでいる順番に批評が指名されていたが、

今回は批評の順番はランダムの指名だった。

並んでいる順番での批評だと、なかには自分の当てられる歌だけを読んで、

その批評を考えている人がいたりして歌会としては良くない。

ランダムに指名されて瞬発的に批評を問われる方が力はつくはずである。

平日歌会少しはましになったんだなと思いながら批評を聞いていたなどと書くと、

また嫌われてしまうんだろうな…(^^;;;


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  歌会風景

岡部史歌集『海の琥珀』

あと少し飛べば百万年前の空 かのメデューサに魅入られた身は

                           / 『海の琥珀』岡部史

 

岡部史の歌集『海の琥珀』のなかの一首。

この一首だけではわかりにくいかもしれない。この歌のある一連の最初の歌は、

 

凍てつく夜プロシアの沖に流れ着き琥珀はうすく潮の息吐く

 

北海沿岸に打ち寄せる琥珀は古代のバルト海沿岸に繁茂していた針葉樹の樹液が

固化したものである。

そのなかには虫が閉じ込められていることがある。

樹液に捉えられて動けなくなった虫は数万年の時を経て虫入りの琥珀になった。

あと少し飛べば百万年前の空を飛んだはず。

しかしその虫は樹液に捉えられた。

目の合ったものを石に変えるというギリシア神話のメデューサ。

そのメデューサに魅入られたように虫は琥珀になった。

この歌が琥珀の歌の一連のなかの一首ということを知らなくても、

なにがしかの鑑賞はできる気がする。

ちなみに、この『海の琥珀』の一連を読んだとき思い出したのは、

しばらく前に読んだバリー・カンリフの『ギリシャ人ピュテアスの大航海』。

2300年前、ブリテン島がローマ帝国に組み入れられるより数百年前、

琥珀のもたらされる北の海を旅したギリシャ人の物語である。

ローマ帝国による支配がまだ成立していない地域だったが、

野蛮がすべてを支配していたわけではない。

交易ルートが存在し、その交易をなりわいとする人たちが既に存在していた。

ピュテアスはその交易ルートを使って未知の北の世界を旅した。

未知の世界を旅した冒険者。

その遥かな北の世界から琥珀はもたらされた。

その世界を詠った歌に出会ったのは新鮮な驚きだった。


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   射場の彼岸花が咲いた
 

 

質問応答記録書

何年か前の税務調査。

取引先の担当者に配った御礼が問題になった。

仕事を受けたときや受けた仕事が終わったときに御礼を配っていた

わけだが、会社の方は配った先をすべて記録していた。

だから、調査でも一件一件の明細を出すことが出来たわけだが、

調べにきた若い調査官は反面調査をすると言う。

相手方にほんとに受け取っているかどうかを確認するわけだが、

それなら取引先の会社の方に分からないように調べてくれと会社の方は頼むわけである。

御礼を受け取っているのは担当者個人。

担当者は大抵、そういう金品を受け取ったということを会社には言わないので、

会社に知れると担当者は場合によっては首になったりするわけである。

しかし、調査官は会社に聞くと言う。

業務によるものだから会社に帰属するべきものかもしれず、

会社に聞かなければならない、と。

会社に聞かれて困るのなら否認する、重加算税の対象だ、と言い出した。

重加算税が課税されるのは仮装・隠蔽があった場合だが、そのいずれにも該当しない

のではないかなと思いつつ、話を聞いていたらくだんの若い調査官、

「ほんとは全部社長がポケットに入れて、配ってなんていないんでしょ。

そういうことにしてくれれば他のところは調べないから。そうでないと言うんなら、

徹底的に調べちゃおうかな~」となにやらチャラい感じで言いながら、

質問応答記録書を書き始めた。

質問応答記録書というのは、税務調査で調査官がこういう質問をし、納税者がこう答えた

ということを記録するものだが、重加算税をかけるような場合に作成される。

正直、私は今まで調査で作成されたことがない。

それに文書の性格からして調査が終わるときに作成するのが普通だろうと思うわけで、

いきなり書き出すというのは珍しいのではなかろうか。

そもそも自分の想像で頭から決めつけているわけで、

徹底的に調べたいなら調べればいいんじゃないかなと思いつつ黙って見ていたら、

「私は税金を払いたくなかったので取引先に御礼を配ったように経理しましたが、

実際は全部自分で使いました」という趣旨のことを書いた。

それも鉛筆で。

もちろん社長も会社の人間も誰もそんな話をしていない。

とりあえずその場はもう時間がないからとお引き取り頂いた。

後日、その若い調査官と上席がふたりで事務所に訪ねてきた。

上席が言うには、やはり取引先の担当者に配った御礼の金品は否認されるべきで

重加算税対象だと言う。

ふたりと向かい合って座り、上席に聞いた。

「あの質問応答記録書はどうしたんですか?

「あれは無しです。いくらなんでも鉛筆書きの質問応答記録書なんてまずいと

いうことで既に破棄しています」

「そうですか、それでは質問応答記録書を作り直していただけませんか?

「は?

「誰も話していない虚偽の話を作り上げ、それで納税者に課税を強いようとした。

質問応答記録書は公文書ですよね。今回の調査でどういうことがおこなれようとしたか、

公文書で記録に残して頂きたい・・・」

「えっ!?  えっえっ!!

話の途中からくだんの若い調査官が叫びだした。

で、続けて思いもよらないことを大きな声で言い出した。

「私は脅されたんだ!  脅迫されたんです!  社長に〇×▽〇▽と言われました!

先生にも言われたっー!

〇×▽〇▽の部分はかなりやばい言葉である。

ほんとに言ったのなら犯罪ものの言葉だが、

社長は一言も言っていないし、まして私が言うはずもない。

人が言ってもいないことを大声でこう言われたなどと怒鳴るのは

立派に刑事罰の対象だろう。

「おいっ! これはどういうことだっ!」

私の怒鳴り声に上席が反応してそれで調査は終わった。

否認されることも重加算税などかけられることもなく。

なんで今頃こんなことを書いているのかというと、

何年か前のその調査に限らず、最近の若い調査官に危ういものを感じるのである。

納税者の権利を軽視しているような

最近の若い人は学校で権利について学び、そういうことには敏感だろうと思って

いたのだが、自分の権利には敏感だが他者の権利にはそれほど敏感ではない、

そういう人が多いのかもしれない。

しかも、マニュアル優先で柔軟性がない。

他者の権利には敏感でないから強引なことも平気でやる。

というか、本人は強引だということにも気づいていないのかもしれない。

で、他者に対して敏感でないために相手を怒らせるということに鈍感である。

何年か前のあの若い調査官はそういう部分を突かれパニックになったのだろう。

そういう人間たちが増えるとどうなるのか、

税務行政の未来にちょっと危ういものを最近感じている。


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  アーチェリーのクラブで毎月やっている射会で優勝。
 ハンデに助けられての優勝だが、賞品の商品券5000円をゲットした(^^

恐山

少し遅い夏休みで東北に行ってきた。

八甲田山に登るつもりで酸ヶ湯に泊まったのだが、

出発前日になって、八甲田山は6月に山菜採りの人が熊に襲われて以来、入山禁止に

なっていることに気付いた。

もっと早く気付けという話ではある(^^;

そういうわけで八甲田山には登れないので、とりあえず岩木山に登ることにしたのだが、

酸ヶ湯で飲んでいるうちに、岩木山より恐山に行ってみたいということになった。

恐山、日本三大霊場のひとつでイタコが死者の口寄せをするという。

ということで下北半島目指してひたすら走る。

北の大地は走っていて空が広い。

途中、今日登るつもりだった岩木山が見える。

以前行ったとき、麓のリンゴ畑の広がりが爽やかだった。


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  酸ヶ湯

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  岩木山

ちなみに恐山という山があるわけではなく、宇曽利湖のほとりの火山性の荒れた土地が

恐山という聖地になっている。

下北半島の平らな土地をひたすら走り、

やがて恐山へと登り、そのうち道が下り道に変る。

外輪山を越えてカルデラの内側に入ったということが分かる。

そのまま走ると恐山に着く。

荒涼とした地に寺があるという感じで、京都や奈良の寺とはちょっと雰囲気が違う。

総門をくぐると向こうに山門とその脇に赤い本堂が見える。

なぜか本堂は脇にあるのである。

山門をくぐると地蔵堂があり、その左側には火山性の荒涼とした地が広がっている。

地蔵堂への参道の両側には湯屋があり参拝者は自由に温泉に入ることが出来る。

硫黄の匂いの強い濁り湯である。


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  恐山 総門

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  総門をくぐると向こうに山門、横の赤い建物が本堂

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  山門

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  山門をくぐると地蔵堂とその左の荒涼とした広がりが見えてくる。
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  境内の湯屋、こちらは男風呂


地蔵堂から岩のごつごつとした荒涼とした地に入ってゆく。

ところどころから火山性のガスが噴き出していて、

小石が積まれ、風車があちこちの石の間にさしてある。

見ると子供向けの小さな玩具とかも石の間に置かれている。

昔、この地を訪れた人は荒涼とした風景のなかで火山性のガスを吸い、

幻覚を見たかもしれない。

そしてそこは死者を思う地になった。

歩いていくと向こうに宇曽利湖が見えてくる。

恐山は死火山ではない。宇曽利湖は生きている火山のカルデラ湖である。

周囲に人の営みはなく、酸性の強い水が不思議な美しさで広がっている。

川が流れこんでいるが、その川も火山の硫黄がびっしり堆積した川である。

生者を拒むような静謐で美しい湖のほとりを歩いていて、ふと思った。

死んだら、この湖のほとりに骨を捨ててもらえればいい。

いずれ骨は風に飛ばされるか酸性の湖に溶けて消えるかするだろう。

狭い墓になどいれられたくない、最後はそんなふうに消えるのがいい。

そんな気がした。

荒涼とした地を歩き、再び海沿いを走り八甲田に戻った。


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  荒涼とした地に石が積まれ、ところどころに地蔵がある
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  こんな荒涼とした広がり
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  太子堂 風車がたくさんあった

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  賽の河原から宇曽利湖

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  宇曽利湖

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  砂浜に風車が差してあった

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  硫黄の川が流れこんでいる

メロンの味噌汁

買ってきたメロンを切ってみたら、まだ熟していなかった。

食べられなくはないが、ちょっと固くてあまり甘くない。

切ってしまったメロンは冷蔵庫に入れるしかないが、

そうするともう追熟はしない。

そういうメロン、加熱すれば甘くなる。

瓜と同じように切って他の野菜や肉と炒めると甘くなって美味しい。

で、加熱すれば甘くなるのならということで、試しに味噌汁に入れてみた。

これが結構いけた。

メロンが甘くなり柔らかくなって、味噌汁のなかに入っていても

しっかりメロンの味がする。

あるいはメロンは味噌と合うのかもしれん。

電子レンジで温めても甘くなるのかもしれない。

熟していないメロンを切って電子レンジで温め、

そのあともう一度冷蔵庫で冷やして食べると甘くなるんじゃなかろうか?

今度試してみる。

というか、食べ頃を見極めて切って冷蔵庫に入れれば、

そういう面倒くさいことをしないで済むのではある(^^;


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 メロンの味噌汁

調整給付金

6月から始まった定額減税。

今年中に引ききれなければそれで終わりという話だったが話が変わり、

引ききれないと見込まれる人には「調整給付金」が支給される。

令和5年の収入をもとに計算して引ききれないと思われる金額を地方公共団体から

給付するのだが、顧問先の社長のところに送られてきた資料を見て、首を傾げた。

引ききれないかどうかは今年一杯経ってみないと分からないはずである。

それをどうやってまだ今年が終わらないうちに「引ききれない金額」を支給するのか?

その社長の場合、高齢で収入がかなり少なくなっているのだが、

それでも毎月の給与から定額減税は多少引けている。

で、送られてきた書類を見ると、引ききれないと見込まれる金額を計算して、

その金額の1万円以下は切り上げるので、

ひとりあたり所得税3万円と住民税1万円の合計4万円を支給してくれるという。

支給してくれるのはいいが、たぶん本来の定額減税も多少は引けるので、

切り上げで支給される4万円+本来の定額減税で他の人よりも多く引けるというのか、

つまり得をするわけである。

税金でこういうことあり? と首を傾げたのだが、

どうも「調整給付金」というのは減税ではなく、

減税を受けられない人への「給付金」であるらしい。

定額減税は引ききれなければ引ききれないままで終わり、

それでは最初から税金の少ない低所得者は恩恵を受けられないという批判があった。

結局、その批判を受けて「減税」ではなく引ききれないだろう金額を「給付金」として

支給することにしたのだろう。

現場で実務をやっている立場としては、

最初は引ききれなければ終わりという話だったのに、いつのまにか話が変わった、

という感じだった。

国はかなり批判を気にしたのであろう。

「減税」ではなく「給付金」なので、令和5年は収入少なくても6年は多かったという

ケースの場合、6年の収入から「定額減税」を受けてさらに「給付金」を受け取り、

別に多かったからといって返す必要もない。

かなり雑と言えば雑な「給付金」ではある。

それはそれとして、その仕事を回された地方公共団体も大変だろう。

定額減税の事務をやらされている会社・事業者も大変である。

あまり振り回してほしくないよね(^^;

ちなみに「減税」ではないため、

国の方では「調整給付金」は非課税という措置を取っている。

「調整給付金」は受け取っても今年分の確定申告の収入に入れる必要はない。



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 さくっと箱根まで走ってとろろ定食で昼飯
 

カンボジア 4

カンボジア3日目、今夜の飛行機で日本に帰る。

今日はシェムリアップ市内をトゥクトゥクで回ることにする。

まずはアンコール博物館。

10年前に来たときもあったはずなのだが、入ったことはなかった。

割と綺麗な建物でカンボジアとアンコールワットの歴史が展示されている。

展示室内は撮影禁止。ホールや廊下に展示してあるものしか写真には撮れない。

市内にはシアヌーク博物館もあるのだが、運転手に聞くとアンコール博物館と

展示しているものはたいして変わらないというので戦争博物館へ。


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  アンコール博物館

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  ホールとかしか写真は撮れない

カンボジアはベトナム戦争がもう終わるあたりから内戦が始まった。

勝利したのはポル・ポトの率いるクメール・ルージュ。

ポル・ポト自身はフランスに留学した秀才である。

しかし彼は原始共産制の実現を目指して知識層や技術者・教師もすべて殺した。

彼の理想社会に必要なのは愚民だった。

このとき殺されたカンボジア人は国民の25%200万人が犠牲になった。

この虐殺はベトナムの介入で終わる。

戦争博物館は屋外に戦闘機や戦車・大砲が展示されている。

すべてUSSR、旧ソ連製である。

敷地内に小さな展示家屋があり、そのなかには地雷についての展示があった。

ベトナムの枯葉剤、ラオスの不発弾、カンボジアの地雷はインドシナ戦争が

この地域に今も残している深い傷跡である。


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  ミグ戦闘機

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  対空機関砲

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  戦車

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  水陸両用の兵員輸送車が多かった。

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  地雷とその被害の展示

このあと、知り合いに紹介してもらったラーメン屋・宮崎で昼食。

あまり海外で日本のラーメンとか食べないのだが、折角の紹介なので食べに行った。

結構おいしかった。シェムリアップ在住の日本人が食べにくるようで普通に日本語が

聞こえてくる。ちなみにビールは中ジョッキ1ドル。

昨日夕食を食べたパブストリートでは3ドルから4ドルだった。

これが地元の本来の価格なのであろう。

パブストリートとかは観光客向けの観光客価格の店が並んでいるところ。

それにはっきり言ってあまり美味くない。雰囲気で飲みに行くところである。


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  シェムリアップのラーメン宮崎 美味しかった。

このあとオールドマーケットで土産を買い、3時くらいに宿に戻った。

知り合いのゲストハウスなので融通をきかせてもらい、出発直前まで部屋を

使えて、シャワーを浴びて着替えることが出来たのは助かった。

着替えてさっぱりして知り合いに礼を言って空港に向かう。

ちなみに「また来ますと言ってほんとに来たのは関野さんだけです」と言われた(^^;

シェムリアップ・アンコール国際空港からハノイ、乗り継ぎして成田。

五泊六日の短い旅だったが楽しかった。


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  シェムリアップ・アンコール国際空港

カンボジア 3

カンボジアに着いて2日目、

今回の旅はスケジュールを殆ど決めていなかったので、ゆきあたりばったり。

とりあえず昨日は行ったことのなかったコー・ケー遺跡群に行った。

今日は10年前に行ったアンコールワットを再び訪れることにした。

10年前、始めてアンコールワットを訪れたとき、

遺跡の一部は修復中で無粋なブルーシートに覆われていたが、

それでも異質な古代の文明の遺跡はインパクトがあった。

そのときは乾季だったのだが、今回は雨季。

10年前と違い、遺跡の周囲の緑がとても鮮やかである。

気温は日本と比べて特に高いわけではないが湿度が凄い。

低温サウナに入ったままのような気分でアンコールワットへの橋を渡る。

シーズンオフで平日ということも関係あるのだろうか、今日は空いてる。

空いているのはいいのだが、低温サウナ状態で汗だくである。


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  アンコールワットへ

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 10年前とこの辺は変わらない

アンコールワットのなかに入り、回廊のレリーフを見て歩く。

戦車や象に乗って戦っているレリーフが回廊の壁一面に彫られている。

それを見ながら内側に入ると塔の上に登る階段があり行列している。

そういえば10年前も行列があった。一番上まで行くと確かに景色はいいが、

修学旅行らしい一団がいて足の踏み場もないような混雑だった。

そんなことを思い出しつつ、今回はパス。こんな汗だくでさらに階段を登ろうと

いう気にならない。

建物の外に出て店が並んでいるところでペットボトルを買う。

ともかく水分とらないと倒れそうである。

カンボジアは現地通貨が信用なくてドルの方が通用するので、

外人観光客に対しては水のペットボトルは1ドル。現地の人が買うときはもっと安い

はずだが、これくらいは仕方ない。

お茶は2ドルで2本で4ドル。高いと言ったら1ドルの水を1本サービスしてくれた。

10年前は子供の物売りが大勢いたのだが、今日は見かけない。

平日で学校に行っているのか、10年経って経済的に発展していなくなったのか。


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 ま、こんな感じかな

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  レリーフが一杯

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  こちらもレリーフ

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  雨季は遺跡の緑が濃い

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  こんな感じで水も溜まっている

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  お猿さんもいます

アンコールワットを出て待っていたトゥクトゥクに乗りアンコールトムへ。

トゥクトゥクが走り出すと風が気持ちいい。低温サウナから抜け出せたようで、

ああ、もうどこにも行かなくていいからこのまま走っていてくれという気分になる。

アンコールトムに入るには門を通り抜けるのだが、10年前はトゥクトゥクに乗った

まま通り抜けられたが、今回はトゥクトゥクを降りて歩いて橋を渡り門を潜り、

向こうでまたトゥクトゥクに乗らないといけない。

10年の間にいろいろ変わったのだろう。

寺院の横から入るような感じでアンコールトムに入る。

10年前、確かこういうところ歩いたなということを思いつつ、遺跡のなかを歩く。

ここもレリーフが美しい。バイヨンの塔の人面はあんな感じだっただろうか

遺跡を出るところでお猿さんが座っていて、近づいてきたと思ったら、持っていた

パンフレットをおもむろに掴み、ページを器用に開けてガブッと噛り付いた。

ページの間を少し齧り取って向こうに行ったがパンフレットって美味しいんだろうか?(^^;


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  トゥクトゥクで移動

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  アンコールトムの橋 

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 アンコールトム
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 船のレリーフ
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 バイヨン
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 バイヨン

そのあと幾つかの遺跡を回り、というか、熱中症一歩手前の状態になりなから、

「ここ、前にも来たよな」とか「10年前見たからいい、パス」とか、

そんな感じで見て回る。

しかし、アンコールワット。何回来てもいい場所である。

一回や二回で見尽くすことのできる場所じゃない。

それは分かっているのだが、

いかんせん、熱中症一歩手前の人間にはどうすることも出来ん(^^;;

このあと、遺跡を回って宿に戻り、ひと休みしていると案の定というか、

スコールが激しく降ってきた。

雨季は4時過ぎにはスコールが来ると思って間違いない。

それが1時間ほど続き、そのあとどのくらいで落ち着くか、という感じ。

夜はナイトマーケットに行って食事。

パブストリートもさすがにシーズンオフなのか空いていた。


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 ともかく遺跡が次々と出てくる

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 左側の木は10年前は枯れていなかった気がする
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 どこだっけ?  東メボン?
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  何か所も遺跡を回ってるともはやどこか分からん
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 タ・プローム
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 こちらもタ・プローム
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 同じ木の反対側
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 今日の夕飯
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 シェムリアップのパブストリート

 

 

 

 

 

カンボジア 2

コー・ケー遺跡群はシェムリアップの北東100k、アンコールワットより古い都城と

して築かれた遺跡だが、都城として使われた期間は短かったらしい。

今はジャングルのなかにある。

シェムリアップから遠いのでトゥクトゥクでは行けず車をチャーター。

市街を抜けカンボジアの農村風景のなかを走る。

昔のままの高床式の建物があり、

ところどころの道端では10年前にも見たペットボトルのガソリンスタンドがある。

走り続けベンメリアの脇を通ってさらに北東へ。

このベンメリアも印象的な廃墟の遺跡である。

車で2時間かかってようやくコー・ケーに着く。

オフィスがあってそこで入場券を買い、さらに車で進むと道は途中途中の遺跡を

巡るように続いている。

最初にあったのがプラサット・プラム。

3基の塔が並び、熱帯のジャングルの木がそこに巻き付いている。

かつて栄えた文明が自然の力に屈服しやがて姿を消してゆく、

その最後の姿のような廃墟である。

ふと足元を見ると花が咲いていた。

小さな雑草だが、ランのような花。

この花はほかの遺跡にも沢山咲いていた。

雨季のカンボジアは乾季と違いこういう花を見ることが出来る。


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  プラサット・ブラム

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 熱帯の木が巻き付いている。

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 足元に咲いていたランのような花

次に車を停めたのはブラサット・ダムレイ。

四方に石の象がいる遺跡だが、形を残しているのはひとつだけで、

あとは鼻が欠けてしまっていたり、下に落ちてしまっていたりする。

ここに限らず遺跡が崩れないよう補強をしているのだが、

いかんせん予算が足りないのだろう。このままでは崩れて失われてゆく遺跡が

多いような気がする。

ここにも足元にランのような花を咲かせている雑草があった。


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 プラサット・ダムレイ
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 壊れていない象はこのひとつだけ


次にあったのがプラサット・チュラップ。

崩れた塔の内側が黒い遺跡。

不思議な印象がある。

さらに進むと道の途中途中に既に崩れてしまった小さな遺跡があり、

そういうのをいちいち停まっていると何時間かかるか分からないので、

テキトーに車から見るだけで通り過ぎる。

そのあともひとつふたつと遺跡があり、

なかには崩れかかった塔のなかに大きな円筒があるものがある。

運転手にあれはなんだと聞くと「リンガ」だと言う。

リンガってなに? と聞くと、男根のことだった。

農耕社会では生殖と豊穣の祈りとして男根崇拝があったわけで、

それは古今東西に共通し日本にもある。


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 プラサット・チュラップ
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 リンガのある遺跡


最後に一番大きなプラサット・トム、プラサット・プラン。

ここは入口に店が並んでいて人もそれなりに多い。

進んでいくと最初にあるのがプラサット・トム。

崩れた回廊があり、そこを進んでいくと向こうにプラサット・プランが見えてくる。

いわゆるコー・ケーのピラミッドである。

36mの高さがあるらしく裏に回ると階段が付いていて一番上まで登ることが出来る。

試しに登ってみたが、上から見渡せば周囲すべてジャングルである。

かっては街が広がり人々が住んでいたのかもしれないが、今は熱帯の自然に

呑み込まれている。

このコー・ケーのピラミッドの一番上にもかつて大きなリンガがあったらしい。

日本の男根崇拝はアニミズムの伝統を残した土俗のものだが、

ここでは国家レベルの信仰として都城の真ん中のピラミッドの天辺に

巨大なリンガ(男根)があったのである。

なんか凄いなと思った(^^;

プラサット・トムの入り口に戻り、

そのなかの店の一軒でとりあえず冷たいビールで渇きを癒して昼食。

しばらくのんびりとして再び2時間かけてシェリアップに戻った。

コー・ケー遺跡群。

シェムリアップから少し遠いが一見の価値のある遺跡群である。


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 プラサット・トム
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 プラサット・トムの崩れた回廊
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 向こうにプラサット・ブラムが見えてきた。
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 プラサット・プラム  コー・ケーのピラミッド
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 天辺に登るとこんな感じ。周囲はジャングル
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 下におりて違う角度から。確かにピラミッドである。
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 プラサット・トムの入り口の店で昼食。カンボジア料理は美味しい
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 昼食中の足元は猫の群れ

カンボジア

ハノイからカンボジアのシェムリアップまで飛行機で1時間半。

10年前行ったときには市街に近いところに空港があったのだが、

その後、シェムリアップ・アンコール国際空港が新しく作られ、

作られたのはいいが、この空港、シェムリアップの市街から45k離れていて、

市内まで車で1時間ほどかかる。はっきり言って不便になった。

イミグレーションを通過して空港の外に出て左に行くとタクシーチケットの販売所がある。

そこでチケットを買うのだが、市内まで35ドルの定額である。

乗ったタクシーの運転手は

「帰りのタクシー、自分を呼んでくれれば25ドルでいい。10ドルは中国人に取られて

しまうんだ」と言っていた。

シェムリアップ・アンコール国際空港は中国の資本により作られたが、

完成後も中国企業が55年間運営する権利を持っている。

中国が世界中でやっている支援の裏側で港湾や鉄道・空港の権利を手にする方法である。

シェムリアップに住む知り合いが「カンボジアは政府は親中だが国民は中国が嫌いだ」と

言っていたが、運転手の「空港に取られる」ではなく「チャイニーズに取られる」という

言い方が、なんとなくそれを反映しているような気がした。

シェムリアップに住む知り合いは「かぐや姫」という食堂兼ゲストハウスをやっている

のだが、到着したのは随分遅くなって夜の10時くらい。電気が消えて入口が閉まっていて、

一瞬、入れないのかと思ったが鍵はかかっていなかった。

入ると知り合いが出てきて、ちょっとホッとした。

会うのは10年ぶり、しばし歓談。

ちなみにゲストハウスの宿泊代は115ドル。

シェムリアップの宿泊代の相場から考えても安い。

ただ、泊まりに行く人は蚊取線香を持って行った方がいいかな(^^;

食堂の方は今は客があまり入らず、カンボジア人の養子の家族がやっているキッチンカーが

家族の仕事の中心になっているらしい。

もう遅いのでとりあえず部屋に入りシャワーを浴びて寝た。

翌朝、どういう予定かと聞かれたが、なんにも考えていなかったので、

とりあえず行ったことのないコーケー遺跡群に行くことにする。

100kほど離れているのでトゥクトゥクでは行けず車をチャーターしてもらう。

長くなるので続きはあとで。


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 今は仕事の中心になっているキッチンカー。
 夕方、市内の川沿いで店を開くらしい。
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 コーケー遺跡群へ

 

 

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