ウズベキスタン・タジキスタン4  タジキスタン

サマルカンド3日目、日帰りで隣国のタジキスタンに行ってきた。

現地ツアーを使って車で国境へ、ここで荷物検査、出国審査、入国審査とやって、

歩いて国境を越える。

タジキスタン側に入ると客引きが沢山いて声をかけてくるが、

なんとか現地ツアーのタジキスタン側のドライバーと会えて車に乗る。

タジキスタンといえばパミール高原が浮かぶが日帰りでは行けないので、

近場の通称セブンレイクといわれるファン山脈の渓谷に向かう。

ウズヘキスタンはどこまでも茶色い大地が広がる平野の多い国だが、

隣りのタジキスタンは平野は国土の7%、あとの93%は山である。

車は古代都市のあったパンジケントを抜けて山の方に向かってゆき、

やがて道は禿山に囲まれた渓谷にはいってゆく。

ここから南に200k行けばアフガニスタンである。

テレビの映像に出てきたムジャヒディンが潜んでいる荒々しい岩だらけの大地、

まさにそれと同じ風景が広がっている。

かなり走って最初の湖が出てきた。ここで標高1500m

一番上の七つ目の湖は標高2400mであるらしい。

ひとつひとつの湖は決して大きくはない。

禿山の荒々しい渓谷に湖がつらなっている。

途中の道はかなりダートで対向車来たらどうするんだ? 落ちたらイチコロだ、という感じ

のところもあるが、一昨年行ったヒマラヤのそれと比べれば安心して走れる道である。

一番上の標高2400mの湖でしばらくのんびりする。

見ていると湖面の感じが向こうからまるで生き物のように変わってくる。

たぶん風で湖面の感じが変わるのであろう。なんともいえない感じだ。

しばらくぼっーと湖を眺め、下にくだって途中の湖のほとりにあった建物で昼食を摂る。


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 岩だらけの渓谷を走る
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 最初の湖
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 この車で走った
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 何番目の湖だったか?
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  四番目か五番目か? の湖
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  一番上の湖
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 下に降りる途中、途中には道沿いに小さな集落もある。
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 途中の湖のほとりで昼食。食べているのはポロフ。ピラフの原型になった料理。
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 山羊がいたので写真を撮った。拡大して探すとどこかに山羊がいる。

そのあと渓谷から平野に戻り古代都市ペンジケントの遺跡を見に行く。

かつて繁栄したシルクロードの古代都市。

ソグド人が築いた都市で5世紀には歴史にあらわれる。

しかし、8世紀の末、この都市は放棄される。

進出してきたアラブの圧力で街は放棄されたらしい。

ペンジケントもサマルカンドの旧都城も丘の上である。

防衛上は丘の上の方が有利かもしれないが、水源を絶たれれば終わりである。

古代都市ペンジケントもそうやって放棄されたのかもしれない。

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 ペンジケントの遺跡 このままではたまに降る雨で消えるだろう。
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 建物らしく見えるのは復元されたもの。

最後にサラズム遺跡。

20世紀になってから発見された遺跡で5000年前に溯る遺跡。世界遺産である。

メソポタミアやエジプトの文明と同時期に、

中央アジアのステップに古代都市が生まれていた。

農耕と交易、鉱業生産の拠点でもあったらしい。

遺跡からは身長170㎝の女性の骨が出ている。

きらびやかな装飾を纏い殉葬者とともに葬られたその骨は、

遺跡址の博物館に展示されていて、サラズムの王女、と名付けられているらしい。

博物館にはその復元像もある。

タジキスタンは世界最貧国のひとつである。

遺跡保存の予算も少ないのだろう。ペンジケントの遺跡も風化してゆくままである。

それと比べればホラズムの遺跡はまだ保存されている方なのかもしれないが、

5000年前、このステップにどういう古代都市がありどういう生活があったのか、

荒野で思いを馳せるしかない。


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 サラズム遺跡の入り口
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 ペンジケントと違いまがりなりにも屋根で保護されている。
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 サラズムの王女の墓の跡
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 古代都市の跡は荒野があるのみ

夕方、国境に戻り主国審査・入国審査をやって再びウズベキスタンに入る。

サマルカンドに戻り夕食を食べて外に出たら、

レギスタンの前の道路がホコ天になっていて、凄い人出だ。

身動きできないくらいの人出でなんだろうと思ったら、

レギスタンの上でドローンのショーが始まった。

しばらくそれを見てホテルに戻った。

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  凄い人出で、なんだ? なんだ? という感じ
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 ドローンショーが始まった

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   国旗かな
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 玄奘三蔵か?   彼はサマルカンドに来たはず

ウズベキスタン・タジキスタン3  サマルカンド

サマルカンド2日目。

今日はシャーヒ・ズィンダ廟へ行ってみる。

レギスタンからイスラム・カリモフ通りを歩いていくとアフラシャブの丘が見えてくる。

その突き当りを右に少しいけばシャーヒ・ズィンダ廟である。

昨日のぼったくりドライバーが「Very Far Very Far」と何度も言っていたが、

なにがVery Farだ、30分くらいで着いてしまった。

ちなみにアフラシャブの丘だがシャーヒ・ズィンダへ歩きながら丘を見上げると、

大部分が墓地になっている。アフラシャブの丘はチンギス・ハーンに滅ぼされるまでは

サマルカンドの旧都城があった場所らしいが、その後は葬送の場所になったのだろうか。

その丘の一角にあるシャーヒ・ズィンダ廟は、ティムールの一族やその将軍達が

葬られている墓所である。


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 向こうに見えるのがアフラシャブの丘
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 シャーヒ・ズィンダ廟の入り口

門を入ると階段がある。

天国への階段と呼ばれているらしく、登るときに階段の数を数えて帰りに数えて

数が一致すれば天国へ行けるそうだ。ぼけていなければ一致するはずである(^^;

階段を登り門をくぐると青いタイル張りの廟が道の両側に並ぶ。

青の都サマルカンドといわれるサマルカンドブルー。

道の真ん中でポーズを取って写真を撮って動こうとしない中国人の観光客が鬱陶しく、

彼女たちがいなくなったときを見計らって写真を撮る。

奥へ進んでゆくと青い廟や未完成で青いタイルを張っていない廟などいろいろあり、

一番奥は両側も突き当りも青いタイルの廟である。

なかを見られるところもあって入ってみるが、ここもやはり装飾が美しい。

通路の長椅子に座ってしばく眺める。観光客が途切れた時は静か。

シャーヒ・ズィンダ廟は青い死者の街である。

廟を出てウルグベク天文台に向かう。


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 天国への階段
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 シャーヒ・ズィンダ廟
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 廟の一番奥
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 中はこんなふうになっている

アフラシャブの丘に沿って北東へ歩くのだが、途中、断崖になっている丘の斜面に

幾つもの穴が開いているのに気が付いた。

モンゴル軍に破壊される前はサマルカンドの旧都城があった場所というが、

その遺構なのか?  あるいは古い時代の墓かもしれないと思った。

ウルグ・ベク天文台までは少し遠かったが、ここも歩いていける範囲。

入口にティムール朝の四代目の王であり同時に天文学者だったウルグ・ベクの銅像がある。

天文台の遺跡は地下に巨大な溝状のものが作られていて、向こう側に窓があるので、

大抵の人はその窓から星を観測したのかと思うかもしれないが、そうではなく、

ここには地下部分も含めて高さ40mの巨大な六分儀が設置されていたのである。

周囲にはそれを囲む建物があって、まさに天文台だった。

今残っているのは地下構造の部分だけである。

ウルグ・ベクはここで星を観察し一年の長さを現代との誤差1分という正確さで計算した。

しかし、ウルグ・ベクの死後すぐにこの天文台は保守的なイスラム教徒達に破壊される。

日本では室町時代、応仁の乱より前の話である。


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 アフラシォブの丘 わかりにくいかもしれないが幾つも穴が掘られている
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 ウルグ・ベクの像
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 ウルグ・ベク天文台。昔は巨大な六分儀とそれを囲む建物があったが、
 今は地下構造物を保護する建物があるだけ
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 残っている地下構造物、ここに巨大な六分儀があった

天文台を出てアフラシャブの丘を北から南に抜けるようにして戻る。

チンギス・ハンに破壊される前はサマルカンドの都城だったというアフラシャブの丘だが、

今は茶色い丘で途中にアフラシャブ博物館がある。

博物館に立ち寄り発掘された壁画などを見て市街に戻る。

途中のバザールで買い物と昼飯、ビールで乾いた喉を潤す。

その後ホテルでひと休みし、夕方、食事がてら出かけてライトアップの時間に合わせて

レギスタンの中に入る。中から見たライトアップも綺麗だった。


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 バザールでの昼飯、シャシリク
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 なかから見たレギスタンのライトアップ

ウズベキスタン・タジキスタン2  サマルカンド

タシケントから特急で2時間半くらいでサマルカンド。

シルクロードのほぼ真ん中、紀元前10世紀あたりからソグド人の交易都市として

歴史にあらわれる。その後繁栄を続けるがチンギス・ハンのモンゴル軍に徹底的に

破壊された。その後、そのモンゴルの血をひくティムールによって再建される。

タシケント駅では荷物検査とかいろいろあって面倒とネットには書いてあったので

早めに駅に行ったのだが、荷物検査も簡単で列車に乗るときも駅員はたいして切符の

確認していないみたいで、いたってスムーズだった。

時間通りに出発し、どこまでも広い茶色い平らな土地を延々と走ってゆく。

時々、地平線の向こうの空が茶色く見えるのは砂漠の砂嵐だろうか。

かつてこの茶色い平野を隊商が行き来していたのである。

サマルカンドが近づくあたりから地面に起伏が見えてくるが、

見える山はすべて禿山である。

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  こんな大地が延々と続く

サマルカンド駅に着き、タクシーを探すが、

例によって客引きのドライバーが、〇〇と〇〇を案内するとか言ってくる。

案内などいらないのである。レギスタン広場に行けばホテルまで歩いていけるから

それだけでいいのだが、かなりしつこい。

レギスタンに行くだけでいいと大きな声で言ったら「10ドル」だと言う。

かなり高いと思ったので「2ドル」と答えると、相手は「8ドル」と言ってきた。

それだけならまだしも、案内するからどうのこうのといつまでもしつこい。

いい加減頭にきて「もういい、うるせんだよ!」と日本語で怒鳴って歩き始めるが

追っかけてくる。すったもんだの末にレギスタン広場まで4ドル。

もっとも最後まで5ドルと言い張ってはいたが(^^:

つまり、ぼったくりタクシーも怒鳴りつければ4ドルくらいでレギスタンまで行く。

ちなみにこれを読んで、同じことやって失敗した人がいても責任はとらない(^^;;


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  サマルカンド駅
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  ちなみにこれがタシケント-サマルカンド間の特急アフラシャブ号
 これは帰りのタシケント駅で撮ったもの。ちなみに駅や空港は撮影禁止。
 でもみんな撮ってたよな...。

とりあえず昼飯を食べてからレギスタン広場に入る。

広場の向こうに三つのマドラサが建っていて、

有料で入るところとの境に柵があり、その前まで金を払わなくても入れる。

とりあえず広場の一角に座り込んでレギスタンを眺める。

えらく遠いところまで来たなそんな気がした。

実際はアフリカとか南米とかもっと遠いところにも行っているのだが、

中央アジアは初めてだったのでそんなふうに感じたのだろうか。

そのあと、入場料を払ってなかに入り、美しいイスラム建築を眺める。

かつてマドラサ(イスラムの神学校)だった建物も内側に入ると小さな部屋の

ひとつひとつが土産物屋になっている。たまに「コンニチワ」と日本語で

話しかけてくる店員もいる。ひととおり眺めて広場から歩いてゆけるところにある

ホテルにチェックインし、しばらく休憩してからグル・アミール廟に行く。


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 レギスタン広場
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 イスラムらしいタイルの装飾に覆われている。
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 ウルグ・ベク・マドラサの内側
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 ウルグ・ヘク・マドラサの内側を反対方向から

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  ティラ・コリ・マドラサの入り口
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 すべての区画が土産物屋になっているわけではなく、祈りの場もある。

グル・アミール。チンギス・ハンによって破壊されたサマルカンドを再建し、

既に滅びていたモンゴル帝国の西半分を再統一したティムールの墓がここにある。

霊廟のなかに入ると石の棺のようなものがいくつも並んでいる。

そのなかにひとつだけ黒いものがあるのだが、それがティムールの墓標で、

実際に埋葬されているのはその地下3mあたりらしい。

周囲の壁はイスラムらしい装飾に覆われていて綺麗である。

ティムールは明への遠征の途中で病死してここに葬られた。

彼がモンゴル帝国の再統一を夢見ていたのかどうかは知らないが、

明の永楽帝はティムールの帝国と戦わずに済んだ。運が良かったのかもしれない。

夕方、風に吹かれてレギスタン広場に座ってボッーとしていたら、

日が暮れてからライトアップが始まった。

暗闇に浮かび上がったマドラサは次々と色が変わり綺麗だ。

終わるまでボッーと座っていた。


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 グル・アミール廟の入り口
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 グル・アミール廟
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 霊廟のなか。中央の黒い墓標の下にティムールの墓がある。
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 装飾が美しい
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 レギスタン広場のライトアップ
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ウズベキスタン・タジキスタン

少し遅い夏休みでウズベキスタンとタジキスタンに行ってきた。

シルクロードの真ん中サマルカンドのあたりがウズベキスタンである。

成田から仁川で乗り換えてウズベキスタンの首都タシケント。

仁川からは7時間半で思ったより近い。

タシケントに着いたのは夜8時過ぎ。

両替をして空港タクシーでホテルに向かう。

ちなみに空港からそれほど遠くないタシケント中央駅近くのホテルまでで

空港タクシーは168000スム。

ネットでは空港タクシーが一番簡単とか安心とか書いてあるので、

たいして疑いもなく使ったが、あとで市内のタクシー料金がなんとなく分かってくると、

この空港タクシー、結構ぼったくりである。

ちなみに、我々がタシケントから帰国するときのホテルから空港へのタクシー代は

33000スムだった。

しかも空港タクシー、カウンターで釣り2000スム誤魔化した。

すぐに気付いたが日本円で24円くらいで、少額の釣りはこんなふうに省略するのかなと

思ったので何も言わなかったが、市内の民間の店では釣りはちゃんと支払っていた。

空港タクシーは価格交渉しなくていいから簡単かもしれないが、

あまり使わない方がいいかもしれない。どうりで我々が行ったとき、

他の人達は殆ど空港タクシーのカウンターの前を素通りしていた。

たぶん一番いいのは配車アプリのタクシー、その次にホテルの送迎サービスだろう。


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  成田から出発
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 仁川での乗り継ぎ時間5時間。飲んでるしかない。

ホテルに着いてチェックインしようとすると、

フロントでパソコン画面を調べていたホテルマン、「No Booking

!?  「マジ!?」思わず日本語で聞いてしまった。

Booking.comから取ったはずだが、ホテルマンが言うにはBooking.comからの予約が

入っていないと。時間は既に夜の10時である。

唖然としつつジタバタしてもしょうがないので、付近のホテルを幾つか聞いてタクシー

を呼んでもらう。幸い向かった一軒目で部屋が空いていてその日の宿を確保できた。

これも後日談があり、日本に帰国してからメールを調べてみると、

宿泊当日の午後1時過ぎにそのホテルから「オーバーブッキングしていました。

申し訳ありません宿泊はキャンセルします」というメールが入っていた。

こちらは既に飛行機に乗っている時間である。

タシケントのManor Hotel やってくれるよ。

ホテルの側のオーバーブッキングである。

それが分かっていれば、空いているホテルを探させてタクシー代も払わせて当然だろうが、

フロントの説明は「Booking.comからの予約が入っていない」だった。

この件については今現在、Booking.comとの間でやり取りをしている。

なにはともあれ宿を確保してウズベキスタンの最初の夜を無事に過ごした。

なにやら前途多難を感じつつ、翌朝、タシケント中央駅から特急列車でサマルカンドへ。

長くなるので続きはあとで。


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 タシケント駅での朝食、これでひとり440円くらい。

『中東 世界の中心の歴史』

『中東 世界の中心の歴史』(202411月初版発行)を読んだ。

著者のジャンピエール・フィリユはパリ政治学院の教授。中東の近現代史が専門。

フランス外務省で中東政策を担当したのち学者に転じた。

日本人は、中東というとイスラム教の世界で豊かな産油国がある、くらいの

大雑把な認識が主流のような気がする。

中国史のように多くの歴史小説などで触れる世界ではなく、

遠い砂の世界のように漠然としている。

過激派のテロの影響もあり、宗教でなぜそこまで対立するのか、宗教が根っこに

あるから対立は消えないとか、やおよろずの神々の国の人間はえてしてそんなふう

に思うわけである。

しかし、本当に宗教があるから、あるいは宗教だけで対立しているのか?

パレスチナの問題はなぜあそこまで破滅的にこじれてしまったのか?

以前から疑問に思っていたとき、本屋でこの本を見つけた。

ローマ帝国の東西分割から現代までの1600年の中東の歴史、

三つの大陸の交差点、文明の発祥地とその交易路の中心であり、

三つの一神教の発祥地である中東について、

西側中心史観を脱却して描き出されている。

十字軍の時代にしても宗教を越えて共通の敵と戦うことは当たり前にあったわけで、

キリスト教とイスラム教の対立という西欧的あるいは紋切型の歴史観では理解できない

ことがあるわけである。

本書はそういう日本人には馴染みの薄い中東の歴史を紐解いてゆく。

歴史を学ぶということはその歴史の延長線上に未来を見るということである。

化学兵器を使うのはレッドラインだとオバマはシリアのアサドに示したが、

実際、アサドが自国民に対し化学兵器を使ったとき、

アメリカは結局なにもしなかった。

それを見たプーチンが、西側は結局座視するだろうと踏んでクリミアを併合した。

現在のウクライナの戦争は、

プーチンがオバマを見切ったとき既に芽を吹いていたと言っていいのかもしれない。

同じことはトランプについてもいえるだろう。

オバマの戦略的忍耐もトランプのディールも、

相手への間違ったメッセージになるかもしれない、あるいはなったのかもしれない。

そう思うとき、ウクライナについてもパレスチナについても、あるいは暗澹とした

未来しか当面は描けないのかもしれない。

ひさしぶりに読み応えのある一冊だった。

一読を勧めたい。


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ハラスメント

税理士会の研修会、今回は税法とかではなく「ハラスメント防止研修」。

ハラスメントって結構難しい。

顧問先でもハラスメントの問題は起きるわけで、税理士としてはその辺も理解して

いなければ、適切なアドバイスができないわけである。

職場でのハラスメントは、えてしてお互いの認識の差異から生じるわけだが、

とりあえず相手がハラスメントと受け取ればハラスメントだという。

正直言うと、その辺はいささかの違和感は覚える…(^^;

一方の認識だけでジャッジするというのは本来は危険を含んでいるのだが…。

それはそれとして、それが現状だということで研修を聞く。

まず、いろいろなハラスメントがあるということにあらためて驚く。

パワーハラスメント

セクシャルハラスメント

モラルハラスメント

アルコールハラスメント

マタニティハラスメント

カスタマーハラスメント

この辺は知っているのだが、

パタニティハラスメントとか、ハラスメントハラスメント、マルハラスメント。

パタニティハラスメントは男性が育休を取ろうとして職場で嫌がらせを受けるとか

不利益な扱いを受けるとかいうもの。

ハラスメントハラスメントは正当な言動や指導に対し過剰にハラスメントだと

反応すること。

マルハラスメントはメールとかの末尾に句読点があるとそれが怖いと感じる若者が

いるらしい。う~ん…。とりあえずそれもハラスメントなのね…(^^;;。

実際の事例を聞くとなかなか難しいのもある。

セクハラを受けていると会社の担当者に相談した女性が、周囲がセクハラといわれるのが

嫌で話しかけなくなり職場で孤立し、今度はモラハラ(無視)を受けていると相談して

きたという事例。

職場のコミュニケーションが成立していないんだろうな…。

面白いと思った事例は、

仕事でミスをした若い社員のために上司が土曜日に一緒に出社して、

何件かの取引先を手分けして電話で謝ったのだそうな。

そうしたら、若い社員、自分に振り分けられた分への電話が終わり、その社員の

代わりにまだ謝罪の電話をしている上司に「終わりましたから帰ります」と言って

帰ろうとしたらしい。

上司は当然怒るわけである。

「おまえのミスを謝罪しているのに帰るとは何事だ!  そんなことなら会社を辞めろ!」

と怒鳴ったそうな。

そしたら、その若い社員、次の日から出社しなくなり、5日後に会社に

「上司のパワハラで精神的苦痛を受け…云々」という医者の診断書が送られてきたという。

結局、金で和解したらしいが、講師の社会保険労務士は、

「医者の診断書が送られてきたら、もうダメだと思ってくたさい。

ただ、このケースは出社しなくなってから5日後に診断書が届いていて早すぎます。

そういう人だったのかもしれません…」と言っていた。

ちなみに「会社を辞めろ」は絶対言ってはいけない言葉であると。

昔は平気で言っていたよね。「そんなことなら辞めてしまえ!」。

そういうのもあるのかと思った事例は、

妊娠して退職した女性社員、講師の社会保険労務士の顧問先で、労務士自身が本人に

面接して自己都合での退職と確認したのだが、職安から電話がかかってきて、

「本人は会社に辞めさせられたと言ってます」と。

職安の話では本人は「自分は退職したくなかったが社長が怖くて言えなかった。

心の中で辞めたくありませんと言っていました」と。

職安というのは心の中で言ったという声が聞こえなかったのは違法だと言うのだろうか?

ただ、そのときその労務士はふと気づいて社長に聞いたそうな。

「社長さん、彼女が子供が出来たと言ったとき、嫌な顔とかしました?」

社長さん、仕事が出来なくなるなと思って嫌な顔をしてしまったらしい。マタハラである。

この事例について、講師の社会保険労務士が言うには、

「最近はネットにいろいろな情報が溢れていて、こういうふうに言えば通るとか、

お金が取れるとか、そういうのを読んで言ったのではないか」と。

う~ん、そういう事例があると、

ハラスメントの問題は同時に会社の危機管理の問題でもあるということである。

ハラスメントは当然排除されるべきもので、

良い職場環境の確保は重要である。

同時にハラスメントの問題は別の側面として職場を委縮させる可能性もあるわけで、

その辺の兼ね合いが難しいのだろう。

なかなか面白い研修だった。


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  研修会風景

道はひとつではない

アーチェリーの射場、4番の15mの小的を射って、次の的へ歩いていくとき、

なにかいつもと風景が違うなと思った。

見慣れた森のなかの道を大きな木が横たわって塞いでいる。

この木は道の右側の斜面にかなり前から枯れたまま立っていた大木である。

上の方の枝は折れてなくなっていたが、それでも高さは10mくらいあっただろうか。

幹は大人ひとりではとても抱えきれないくらいの太さだった。

枯れたままコースの脇に立っているので、

いずれ倒れてきたら危険だということで伐り倒そうという話も出たが、

太すぎてプロが使うような大きなチェンソーでなければ伐れそうになく、

そのままになっていたのだが、

文字通り、ある日突然倒れていた。

根元のあたりを見てみると根が浅いところで折れている。

大木でしっかりしたように見えていたが、地面の下は根が腐って支えきれなく

なっていたのだろう。ぽっかりと空いた根元の穴の土はまだ湿っていたし、

倒れたときになぎ倒されたのだろうヤマユリはまだ白い花が開いたままだったので、

それこそ、数日前とかではなく昨夜とか、倒れてまだあまり時間は経っていないのでは

なかろうか。倒れたときはかなり大きな音がしただろう。

それにしても、コースを歩いているときに倒れてこなくて良かった。

コースを歩いているときにこの木が倒れてきて下敷きになっていたら即死だろう。

「とても伐り倒せないと思ってた大きな木が、地面の下の見えないところは弱くなって

てあっけなく倒れるんだ。まるで中小企業の倒産だな」

と言ったら、自分で会社を経営している常連仲間のS、なにやら苦笑いしていた。

心当たりでもあるんだろうか(^^;?


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さて、この大きな倒木どうしたらいいのだろう。

このまま道を塞いだままにしておくのは困る。女性の会員は乗り越えられないだろう。

人が通れるようにその部分だけでも切らなければならないが、切るのもかなり大変である。

切ったあとの木材は背負って運んで下の練習場で火を燃やすときに使うのだが、

それを運ぶのもことである。

大仕事だな、と話しながらコースを回って練習場にくだり、下にいた会長達長老に

事の次第を報告。長老達は早速現場を見に行った。

そのあと昼食を食べながら、

「どうやって切るんだ、大きなチェンソーでないと切れないぞ」

「斜めに切って、また斜めに切って、そういう感じで切っていけば〇×▽」

などと話していたら長老達が戻ってきた。

どうしますかと聞いたら、

「簡単だよ、あの木はそのままだ。迂回する道作ってそこを通ればいい。

あんな大きな木切れやしないよ。道を変えればいいんだ」

・・・・・・。なるほど(@@

道を塞いでいる倒木を切って道を再び通れるようにすることばかり考えていたが、

倒木はそのままにして道を迂回させればいい。

言われてみれば確かにそれが一番簡単である。

発想の転換というやつか。

さすが射場の長老達、無駄に歳は取っていない(^^;;

道はひとつではない。

進もうとした道が通れなければ別の道を探せばいいのである。



マッチ擦るつかのま海に霧ふかし

NHK短歌を読んでいたら、寺山修司の歌についての紹介があった。

 

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

                         /『空には本』昭和33

 

この歌について文章を書いている桑原優太郎は、塚本邦雄の次の賛辞を紹介し、

「寺山修司のデビューは・・・燦燦たる光に包まれた、戦後九年目の希望の象徴で

あった。老い朽ちようとする韻文定型詩は、まさしくこの寵児の青春の声によって、

一夜にして蘇った」。

しかし、その映像性についてはたぶんに作られたもので、

演出がほどこされたつくられたきらめきと記している。

で、表記の歌については、

「場面は、異国船が乗り付ける波止場、スクリーンには、主演の二枚目俳優が大写しに

なる。マッチを擦るのは、もちろん口にくわえた煙草に火をつけるため。炎によって、

霧にけぶる海がぼうと浮かび、そののち、無国籍を気取る主人公は、煙をくゆらせながら

捨てたはずの祖国を思う。もう、とびきりのハードボイルドである。こうした、詩歌作品と

しての演出に裏打ちされた映像性が、寺山修司の作品の大きな魅力といえるだろう」。

と評している。

確かに、寺山の歌は作られていて、その歌は映像的である。

それはしかし、寺山の歌の一面ではないのか。

ハードボイルドという印象になるのかもしれないが、

この歌が詠まれた昭和30年代前半、

寺山は戦争で父を失い、母は米軍基地で働いていた。

そういう背景から浮かびあがってくるこの歌は「とびきりのハードボイルド」という

ものだろうか。もっと陰影のあるものなのではないか。

もちろん、背景に引きずられすぎた読みも問題があることは分かっている。

そうだとしても、桑原のこの歌についての紹介は寺山の歌の既存の評価の一面だけを

伝えていて雑である。

寺山のこの時期の歌については俳句からの剽窃とか、いろいろ問題があるわけだが、

寺山が短歌の一時期を画したのは事実である。

その瑞々しい青春性も作り物として単純に否定されるものではないと思う。

雑誌の原稿の字数制限ということは分かるのだが、

もう少し深みのある文章を読みたいと思ったので書いてみた。

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  今日はアーチェリーの射会、45mの的を狙う常連仲間2人


「アジア・太平洋の戦跡訪問」写真展

友人の写真展に行ってきた。

「アジア・太平洋の戦跡訪問」写真展。

お茶の水のシェイクスピア・ギャラリーで614日~622日で開催。

お父さんが近衛師団で従軍したということで、

太平洋戦争の戦跡を訪ね慰霊をしているという友人。

一緒にガダルカナルとインパールに行った。

会場はお茶の水の駅から歩いて10分くらい、ビルの一階の小さな会場。

共通の知り合いの仲間達と待ち合わせて会場に行くと本人が迎えてくれて、

展示している写真の説明をしてくれた。


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  会場入り口

最初に目に入ったのがインパールの写真。

何年か前、その友人と一緒にインパール、コヒマ等、日本軍が戦った跡を訪ねたのだが、

あぁ、この慰霊碑あったなと思った。

写真はその後、彼が再びインパールに行ったときに撮ったものらしく、

私の記憶より少し綺麗になっていたが、慰霊碑そのものはそんなに変わっていない。

激戦地のひとつコヒマの風景も見覚えがあった。

インパールそのものはマニプールだが、

日本軍がビルマから山岳地帯を突破したのはその東のナガランド。

我々が行くしばらく前まで外国人は入れなったところだ。

ナガの人達はモンゴロイドで我々日本人によく似ている。

私自身、インパールの空港で地元のナガ族に間違えられた。

ナガランドのあたりはインドからの分離独立運動もあったりして、

行動中、自動小銃を持ったインド軍の兵隊が結構目に付き、

この地域の不安定さは感じられた。


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 インパール 左上の写真が慰霊碑

その次にあったのはガダルカナル。

ルンガ飛行場(ヘンダーソン飛行場)を奪還しようとした一木支隊が壊滅した

イル川の写真があった。

戦いのあとのこの海岸で砂に半分埋もれた日本兵の写真を小学生の時に本で見たことが

あったのだが、まさか将来、自分がその現場に行くとは思っていなかった。

イル川は小さな川で日本兵が突撃した砂浜は狭い砂浜だった。

一木支隊は飛行場に突入すべくここから夜襲をかけたのだが、

当然、アメリカ軍は照明弾で周囲を照らしただろう。

なんの遮蔽物もない狭い砂浜である。

しかも、私は小さなイル川の対岸に行ってみたが、少し高くなっていて、

そこに機関銃を添えておけば引き金を引くだけで、

遮蔽物のない砂浜を突撃してくる日本兵をなぎ倒せただろう。

近代戦を戦えない日本軍。

そういう評価を受けたのが現場を見てよくわかった。

兵士達のために言うが、

近代戦を戦えなかったのは兵士ではない、指揮官である。


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 ガタルカナル
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 イル川の写真
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 ガタルカナルの戦争博物館、日本軍の重砲。
 ちなみに、この写真に自分も写っている。

コレヒドールやタイ、インド国民軍のチャンドラ・ボースの写真などいろいろあって、

その写真の説明をひとつひとつしてもらい、しばし歓談ののち会場を後にした。

それにしてもつくづくと思うのだが、あの人のエネルギーは凄い。

一緒にガダルカナルとインパールに行って、なんとなく分かるわけだが、

あのエネルギーは凄いね(^^;

歳とってもあのエネルギーあったら大丈夫だよ。

これからも頑張ってください(^^

そういえば、ザンビアに誘われたのだった。

インパールの戦いのとき、イギリスは植民地の兵隊も動員したわけで、

ザンビアのアフリカ兵もインパール戦に参加している。

その関係で向こうに戦争博物館があるらしく、

その戦争博物館から誘われているんだそうな。

ザンビアね

そういえばキリマンジャロ以来、アフリカ行ってないな,,,

ビクトリアフォールとかザンビアだっけ。

ひさしぶりにアフリカ行ってもいいかな


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  帰るときに会場入り口で本人と。
 エネルギー凄いです。頑張ってください。

霧ヶ峰 車山 八島湿原 トレッキング

霧ヶ峰から車山、そこから八島湿原を歩いてきた。

このあたりは北の美ヶ原とともに、本州の中央高地の一角で、

登山というより高原のトレッキングという感じのルート。

霧ヶ峰自然保護センターの駐車場に車を停め、高原状のなだらかな尾根を車山へ登る。

カッコウの声がよく聞こえ、レンゲツツジの橙色の花が綺麗である。

それにしても梅雨の晴れ間というのか、梅雨がどこかに行ってしまったというのか、

暑い(^^;


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     霧ヶ峰から車山へ
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 レンゲツツジが咲いてる

車山肩に45分ほどで着き、そこから気象観測ドームの見える車山へ。

高原からの眺めは良くて歩いていて気分がいい。

車山の頂上は反対側のスキー場のリフトを使って登ってくる観光客が大勢いるので、

写真だけ撮って八島湿原方面への道に進む。

蝶々深山との鞍部にある車山湿原はコバイケイソウの白い花が沢山咲いていて綺麗だ。

ここもカッコウの啼き声がよく聞こえた。

蝶々深山に軽く登り直し、そこから物見岩、八島湿原がよく見え、のんびり昼飯でも

食べるのにいいところだ。


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 車山肩から車山
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 車山山頂
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 車山から蝶々深山
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 物見岩と八島湿原

鳥の囀りを聞きながら八島湿原に下り、湿原の縁を歩いて霧ヶ峰に戻る。

八島湿原沿いの道を歩いていたとき、向こう右側に見える山の斜面に、

なにか人工的なものを感じるなと気になって、写真を撮った。

あとで調べてみたら、旧御射山遺跡という鎌倉時代に信濃・甲斐・関東の武士が

集まり諏訪大明神に奉納する笠懸、相撲、武者競馬などの試合をした場所らしい。

多いときは十万人の人が集まったらしく、鎌倉時代のオリンピア競技みたいな

もんだったんだろうか。

このあと、少し登り返す感じで霧ヶ峰自然保護センターの駐車場に戻った。

行動時間は4時間45分。

ピークを目指さず、高原をこんなふうにトレッキングするのも楽しい。

少し遅い昼食を摂って今日の泊まりの石和温泉に向かった。


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 八島湿原

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 八島湿原から霧ヶ峰へ
 右の森が途中で切れている山、左側の草の斜面に微かな段状の跡がある、
 というか、そういう感じがしたので写真を撮った。そこが旧御射山遺跡。

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