総会

税理士会支部の総会。

監事をやらされているので出席しないわけにいかない。

半年に一回、会計監査と業務監査をして総会で監査報告をする。

それが監事の仕事。

ま、監査報告と言っても議案書の監査報告文を読み上げるだけである。

書いてあるものを読み上げるだけというのもつまらないもので、

「議案書の監査報告に書かれていますのでお読みください。以上、報告します」とか

一度でいいから簡単に済ませてみたいのだが、

たぶん、それやったら顰蹙買うんだろうな…(^^;


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   総会風景

議案審議が順調に進んでもう終わりと思ったら、会場から質問が出た。

ある部の来期の予算についての質問。

いやな質問だなと思った。

監査のときにちょっと問題になった部分。

しかし、執行部がうまく説明して質問者もあっけなく納得して終了。

総会が終わると懇親会があるのだが、出席しないで帰る。

この頃、支部の懇親会のようなものはパスすることにしている。

若い頃親しかった税理士仲間もひとり減りふたり減りしてきたし、

それに、必要以上には顔を出さないようにしていれば、

そのうち役員選挙で落としてくれるだろう。

もう支部の仕事はいろいろやってきた。そろそろ御役御免にして欲しい。

支部の活動も若い人達が頑張ってくれればいいのである。

懇親会はパスして会場のホテルを出、そのあとは馴染みの蕎麦屋で軽く一杯。

入れてあった白州、少し日にちがあいたが無事を確認。

ちょっといい気分になって家に帰った。


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  白州の無事を確認 しばらく御無沙汰だったが取っておいてくれた。

全国大会

短歌結社の年に一度の全国大会。

昨年までは夏に開催されていたのだが大雨とか異常気象的なものが増えて、

とうとう昨年は京都での大会が台風直撃で他の地域からの参加者が飛行機飛ばなくて

行けなかったという事態になり、今年から時期を変えて開催することになった。

いつもの通り、一般公開のプログラムだけ参加。

全国大会そのものは一泊二日で歌会をやったりするのだが、

出席者が多すぎて一首一首についてじっくり批評できない。

ま、年に一度会員が集まって親睦を深めると思えばいいのだろうが、

不完全燃焼の歌会に出たいとは思わないので、

一般公開の講演とか対談とか、そういうものだけを聞きにいくことにしている。

山下公園の近くの会場に行くと建物の入り口に永田淳と永田紅がいた。

なんでこんなところにいるんだ?  この二人が会場の案内してるの?  と思ったのだが、

あとになって考えたら、一般公開のブログラムの前半、永田和宏との対談の相手の

馬場あき子がタクシーで来るのを迎えに出ていたんだろう。

会場に入ると知ってる顔が何人かいて話しかけられたのだが、

「ああ、どうも久しぶりです、歌会に出ていなくてすみません」とか、

「地元での開催だけど、忙しくて手伝いしていなくて」とか、

不良会員なので謝ってばかりだ(^^;

面倒くさいので知ってる顔を避けるようにして歩く(^^;;

実際、昨年は歌会には2回しか出ていない。

忙しいから仕方ないのだが

ただ、白状してしまうと、歌会に出ない状態が続くとそれに慣れてしまい、

出ていくのが面倒になる

これはちと良くないなと自分でも自覚している。

今年はもう少し歌会に出られるようにしたいと思っている。というか、思ってはいる(^^;;;

会場の一番後ろの方に座ったが出席者はかなり多そうである。

プログラムの前半は永田和宏と馬場あき子の対談。

これが面白かった。

現代短歌を牽引してきた歌人達の青春が浮かぶような話で、

昔は短歌の話をしているとすぐに「外に出ろ!」と喧嘩になったらしいが、

今はみな分別? があっておとなしいのである。

対談で出た話ではないが、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」あたりからだろうか、

青春は恥ずかしいものみたいに言われるようになった。

しかし、青春といういささか無様でみっともない時期を通過して人は大人になる

のであって、青春が否定されるようになってから、

器用で小奇麗になった代わりにつまらなくなった人間が増えた気がする。

だから、歌人達の青春の話は面白かった。

それにしても馬場あき子は凄い。

話はうまいし、受け答えも鮮やかである。

しばらく前まで「かりん」の主宰をし、「鬼の研究」などの著作でも有名である。

御年97歳。

人によって年の取り方は違うがそれにしても凄い。

話を聞いているうちに「このオバチャン、バケモノだな」と思った(^^;


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   永田和宏と馬場あき子の対談

対談のあとは、大森静香、竹内亮、森山緋紗、なみの亜子による、

新仮名から旧かなへ、という座談会。

引用されている一首一首についての話も内容があり、この座談会も面白かった。

1時から4時半までのプログラムを終え、

来年の全国大会でまた会いましょうという閉会の挨拶を聞いて会場を出た。

来年は島根で開催するらしい。

さてさて来年はどうしようか、また講演だけ聞きに神話の国・出雲まで行くか


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 大会が終わってから、みなとみらいまでぷらふらと歩いて帰った

乗鞍岳

乗鞍岳に行ってきた。

積雪期は若い頃にスキーを担いで頂上まで行き、滑り降りてきたことがある。

日本の山が一番きれいな残雪期。最後の残雪を追っかけて行ってきた。

家を早朝4時に出て4時間半で乗鞍スカイラインのほおのき平バスターミナルに着く。

そこから畳平へ。855分のバスに間に合った。

最初、天気がイマイチだったが、登るにつれて段々天気が良くなり、

車窓から穂高のあたりが見えるようになってきた。

畳平は子供達が小さい頃に連れて登りに来て以来で久しぶりである。

確かあちらの方が登山道だったなという程度の感じで歩き始める。

肩の小屋への道は途中から残雪に埋まっていて、ハイキングらしい人たちは

そこで諦めていた。我々は残雪の斜面をそのまま進み、肩の小屋から頂上へ向かう。

もう5月も中旬過ぎなので残雪も少なくなってきているが、それでも残雪の照り返しで

サングラスをしていないと目が眩しい。

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  ほおの木平のバスターミナル
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 畳平を振り返る
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 肩の小屋への道は途中から残雪
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 肩の小屋
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 頂上へ残雪の斜面を登る

頂上に近づいたあたりでカエルが鳴くような声が聞こえた。

「カエルか?」と言って振り向いたら後ろにいた登山者が「雷鳥です」と教えてくれた。

3000mの残雪の山にカエルがいるわけはないので、アホな奴だと思っただろう(^^;

畳平から1時間35分で頂上着。

鳥居をくぐり乗鞍神社で手を合わせ、周囲の山々を眺める。

頂上直下のドラゴンアイくずれのような池の向こうには白山が見える。

ぐるりと見まわすと雪の多い笠ヶ岳、その隣に穂高の吊り尾根。

南の方にあるのは御岳である。

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 頂上はすぐそこ。雷鳥の鳴き声が聞こえたのはこの辺り
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 頂上
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 ドラゴンアイくずれのような池と遠く向こうに白山
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 笠ヶ岳と右に穂高の吊り尾根

明日からは天気が悪そうで、ちょうどいいタイミングで登ることが出来た。

しばらく3000mの風景を楽しんでから下山。

その日は平湯温泉で泊まり、

翌日、岐阜城に立ち寄り、

ミズキ、ニセアカシア、トチノキ、朴の木の咲く5月の森を眺めながら横浜に帰った。

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  山の上に見えるのが岐阜城

 

階段教室

NHK短歌を読んでいたら河野裕子の歌があった。

 

  木いちごの緑葉照れる木造の階段教室に初めて逢ひき

                         『桜森』

 

河野裕子が生涯の親友となる人との大学での出会いを回想している歌だが、

読んでいてふと思った。

河野裕子の回想の場所は階段教室の中あるいは外?  どっちだ?

「階段教室に初めて逢ひき」という表現からは階段教室のなかで出会っているシーンを

思い浮かべるわけだが、

「木造の階段教室」という表現からは木造の階段教室の講義棟を外から見ている

感じがある。

「木いちごの緑葉」はどこから見ているのか?

木いちごはそんなに背が高くなる木ではない、せいぜい12mか。

階段教室の内側を回想しているなら教室の窓から木いちごを見下ろしているのだろう。

建物の外側にいるなら、建物の脇に植わっている木いちごを見ているわけである。

「木造の」とわざわざ言っているところからすると、

河野裕子は木造の階段教室の講義棟を外から見て詠っているような気がする。

建物のほとりには木いちごの緑の葉が日に照っている。

そしてその回想は、建物の外から階段教室のなかへとめぐっていく。

人がなにかを回想するとき、ただひとつのシーンだけを思い出すのではない。

映画のタイタニックの一番最後のシーンのように回想は自由に駆け巡るのである。

ほとりに木いちごの茂る建物の外から、そして階段教室のなかへ、

河野裕子の回想を少し追っかけてみた。

 




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    アーチェリーの射場に植えた木苺(ラズベリー)
 植えて2年ほどだが、そんなに大きくならない。


射場キャンプ

GW後半はアーチェリーの射場でのキャンプ。
ここ数年、GW前半は残雪の山に行き、後半は射場でキャンプをして
バーベキューとアーチェリーを楽しむという感じで過ごしている。
毎月第一日曜が射場の山の整備の日で、コースの壊れた的や階段を直したり、
木を伐ったりしているのだが、今の季節は草刈りである。
何班かに分かれ担当の場所を決めて草刈り機で草を刈る。
コースの途中にはエビネやキンランが咲いていたり、出てきたばかりのヤマユリが
あるのだが、絶滅危惧種のキンランも雑草も区別がつかない連中が草刈り機を
振り回して草を刈るので切ってしまわないか心配である。

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     エビネ
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 絶滅危惧種のキンラン

1時間ほどで終わらせ、昼はバーベキュー。
肉を焼き、射場で採ったタケノコを天婦羅にし、ダンボールで作った燻製器で燻製を
作ったりして楽しむ。泊まりなのでアルコールもOK。
バーベキューを楽しんだあとはコースに入ってアーチェリー。
ひと汗流したら飲んでいないメンバーの運転で近くの日帰り温泉でひとっ風呂浴び、
戻ってきたあとは暮れてゆく射場でのんびりする。
他愛無い話などしながら酒を飲み、夕食後はそれぞれのテントへ。

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 山の作業が終わり、バーベキューの支度
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 いろいろと焼く
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 射場で採ったタケノコの天婦羅
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 ダンボールで作った燻製器
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 こんなふうに出来る
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 テントを張る
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 食って飲んだらアーチェリー

翌朝はウグイスの鳴き声で目が覚めた。
鳴き始めた頃はケキョケキョと下手くそに鳴いていたが、
ホーホケキョと綺麗に鳴いていた。
ダンボールの燻製器で昨日作っておいたベーコンと卵でベーコンエッグを作り、
飯盒で炊いたご飯で朝食。なかなか美味い。
幸い天気が良いので午前中にテントを乾かしたりして片づけを済ませてから、
コースを一回りした。キャンプ疲れで前日よりちょっと点数出なかったかな(^^;
毎年こんなふうに季節を楽しめるのが嬉しい。
さて、GWが終わったら仕事である。5月は法人の3月決算の申告で忙しいのだ。

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 自家製のベーコンで朝食のベーコンエッグ
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 45m射ち下ろし

山本長官機の翼

GW前半で日光白根山に行きそのあと越後湯沢の温泉に泊まったが、

三国峠を越えて帰る前に一日、新潟県内を少し観光した。

そのとき立ち寄ったひとつが長岡の山本五十六記念館。

太平洋戦争のときの連合艦隊司令長官だった山本五十六は長岡の出身である。

山本五十六は前線視察中の昭和184月、ブーケンビル島で撃墜されて戦死して

いるが、その時に搭乗していた一式陸攻の左の翼がパプア政府の協力でジャングルから

回収され、日本に戻ってきてここに展示されている。

それを見た時、正直驚いた。

「なんだ! この薄い翼

山本長官機の左翼の破断した表面の鋼材は、

破断部分を手で持って力任せに引っ張ればめくれそうな気がするくらい薄かった。

「一発で翼を貫通するな

そう思った。

しかもその翼の内側は燃料タンクである。

アメリカ軍から機銃の一斉射で火を噴くワンショットライターと綽名をつけられる程に

防御力が弱かったらしいが、

その翼の鋼材の薄さを目の当たりにすると暗澹とした気分になった。

「こんな兵器で戦わされたのか

実際に戦う兵隊はたまったもんじゃない。

戦争後期に、航続距離を減らしてでも防御力をあげてくれという前線からの要望で

一式陸攻は改造され落ちにくくなるわけだが、山本長官が搭乗していた一式陸攻は、

最初の量産型、つまり防御力無視で作られた機体である。

こんな飛行機しか作れなかったのなら戦争はするべきではなかった。

一式陸攻を作ったのは三菱だが、三菱の責任ではあるまい。

海軍の性能要求を満たすためにこういう飛行機になったのである。

性能のために防御力は無視した。

しかし、それでは訓練に時間も金もかかる搭乗員を失うことになり継戦能力を

失うはずだが、一式陸攻を発注した海軍のお偉いさん達にはその辺があまり

分からなかったのであろう。

別に戦前だけの話ではない。

学校の勉強は出来るが社会に出たら役に立たないという人間は結構いるもので、

民間だとそういう人間は出世しないことで排除されるのだが、

役人の世界はそういう排除機能が働ない。

結果、役人の世界ではリーダー的地位にふさわしくない人間がそういう地位につく

ことがあるということは、戦前も戦後も変わってはいないのである。

戦後の日本のエリートが就職先に大蔵省・通産省を目指したように、

戦前の日本のエリートは陸軍・海軍・内務省を目指したのである。

明治以降の日本はエリートの養成に失敗して国を滅ぼしたんだろうな

イギリスやアメリカのエリート養成の仕方をもう一回謙虚に学んだ方が

いいのかもしれない。

GWのさなか、山本長官機の破断した翼を見てそんなことを考えたのである。


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  山本長官機の左の翼、館内は撮影禁止。
 この写真は山本五十六記念館のパンフレットの写真である。

 

名胡桃

越後湯沢からは三国峠を越えて帰った。
関越トンネルを通って帰るのが一番早いわけだが、
春の三国峠越えの道は残雪と桜と新緑が綺麗だ。
群馬側に入るとハナモモと林檎も沢山咲いている。
いつからか春は好んでこの道を通って関東に帰るようになった。
今回も三国峠を越えて帰ってきたわけだが、
途中にある名胡桃城に立ち寄ってきた。
どう見ても道路沿いのイタリアンかなにかの店にしか見えない建物が
名胡桃城の案内所である。
城の由来については諸説あるらしいが確実なのは信州の真田が上野に進出した
ときに作った城ということである。
なかに入るといろいろな展示があるのだが、そのなかに馬場あき子の歌があった。

 名胡桃城址われは本丸の草にゐて草の時間の深さに酔へり

 三の丸二の丸越えてはるかなる本丸までを夏草の城

 人間の時間植物の時間と争ひし城址つくづくと青空はみる

 ほろびたる名胡桃城址の四百年青バッタ赤バッタ飛ぶ野となれり

今は草に覆われている名胡桃城。
その城址ではるかな時の流れを思うわけで、
芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」ともちょっと違う感じがする。
「青バッタ赤バッタ」とか、馬場あき子の目はかなり細かいところにも向けられている。
この城址で馬場あき子はこういう歌を詠ったのかと思いながら歩いた。

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    名胡桃城の案内所
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 馬場あき子の歌があった
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 案内所から名胡桃城址に入る

一番奥、本郭の奥がささ郭である。
ささ郭に立つとこの城がよく分かる。
本郭がむき出しにならないようにささ郭を作ったとか、脱出口として作ったとかの
話があるが、たぶん違う。
利根川の河岸段丘に作られた名胡桃城。
ささ郭に立つと沼田盆地が一望に出来る。
沼田城も当たり前に見えてその辺での軍勢の動きも容易に把握できただろう。
名胡桃城は守るために作られた城ではない。
沼田を攻めるための拠点として作られた城である。
真田はそのためにこの城を作った。ささ郭に立てばそれがよくわかる。
春の青空と新緑の沼田盆地を見ていると、そういう歴史も文字通り遥けく思えてくる。
ところどころに咲いている八重桜やツツジが綺麗だ。
思いがけないところで馬場あき子の歌と出会って帰ってきた。

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 ささ郭から望む沼田盆地

日光白根山

ゴールデンウィーク前半、日光白根山に行ってきた。
丸沼高原スキー場のロープウェイで山頂駅へ。
天気が良くて正面に白根山がでんと聳えている。
鳥居をくぐって10時に出発、樹林のなかの雪道を登る。
白根山の山腹を右へ右へ巻いてゆくような感じで何度も雪の沢を横断する。
何回目かの沢の横断のとき、視野の端に黒いものがふっとあらわれた。
そちらに顔を向けて足を止めた次の瞬間、目の前30㎝くらいのところを拳大の石が
ビュッーと落ちてゆき、下の斜面にぶつかり大きな音をたてて転がっていった。
落ちてきたときはまったく音がしなかった。
休憩を終え歩き始めてしばらくのことだったので、
あと数秒早く休憩を切り上げていたら頭を直撃していたのかもしれない。
落ちてくるときに音がすればわかるのだが、音もなく落ちて来る落石は怖い。
そのあとは沢を横断する度に沢の上の様子を窺い足早に渡った。

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    ロープウェイから日光白根山

そうやって登り続け、山腹のトラバースから直上にルートが変わってしばらくすると
森林限界を越え、頂上直下の雪の斜面が見えてくる。
それを越えて雪の消えたところを少し行けば白根山火口の奥白根神社のピークに出る。
ここまで2時間半。
それほど大きくはない火口の向こう側に岩のごつごつした2578mの山頂がある。
奥白根神社のピークからは10分かかるかかからないかである。
実は、今回の登山の数日前から腰が痛くなっていた。
幸い行動中は腰に違和感は感じなかったが、それを気にしながらの登山。
それともうひと気にしていたのはロープウェイの終了時間16時。
ロープウェイが終わってしまうと直線のロープウエェイで15分くらいかかるところを
1時間以上かけて歩いて降りなければならない。
今日の泊まりは関越トンネルの向こうの越後湯沢、あまり遅くなるのは嫌なのだ。
10時スタートだったので、登り3時間でタイムアップにしようと思っていた。
通常、登り3時間のところを下るのに3時間はかからないが、
痛い腰で下山に時間がかかればロープウェイの最終に間に合わなくなるかもしれない。
あと10分で山頂に行き昼飯を食っていると3時間を過ぎる。
先に山頂に行っていた息子に手を振って戻って来いと合図して、戻ってきた息子と
あんぱん一個で昼飯を済ませて下山をはじめた。
ま、白根山の山頂は冬に二回行っているのでそれほど執着もなく、白根山は初めての
息子が登ったことでよしとした。

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 山頂下の雪の斜面
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 奥白根神社のピーク
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 ピークから男体山と中禅寺湖

下山は教科書通りにアイゼンを着けて雪の斜面を下る他の登山者を横目に、
アイゼンなしのキックステップでしゃかしゃかと降りて思ったよりスムーズだった。
幸い腰が痛くなることもなく1時間半で山頂駅に着いた。
結果としては腰もロープウェイの最終時間も余計な心配だったわけで、
下山してから、あと10分なら山頂まで行けばよかったかなとか、
考えて由無いことを考えるわけだが、ま、仕方ない(^^;
その腰痛だが、行動中は大丈夫だったのだが、下山後かなり痛くなり、
このブログを書いている今も痛い。明日あたり医者に行ってこようと思っている(^^;;
下山後は桜満開の沼田からやはり桜満開の越後湯沢へ。
温泉で腰を温め、夜は居酒屋で美味しい日本酒を楽しんだ。

歌会

ひさしぶりに歌会に出席。
出席者6人の小さな歌会だった。
以前は毎月複数の歌会に出ていたが仕事が忙しくなったり他の用事が増えたりして、
去年は2回、今年は初めての歌会である。
題詠と自由詠のなかにそれぞれ報告の歌があった。
「入」の題詠の方、誌面発表前なのでここには出せないが、
風の強い春の彼岸の入り、燐の火もガスの火もつかなくて線香を置いてきた。
そんな歌意の歌。
読んでそのまま、こうなって、こうなって、こうなったと報告しているような歌であり、
読者に響いてくるものがない。
一方、自由詠の方の報告の歌は、
令和〇年〇月〇日午前1時となりの部屋からプレスリーの歌が聞こえてきた。
という歌意の歌。
この歌は事実だけを報告しているのだが、
それを読んだとき、ふふっ(^^;とする感じがある。
「大変だな…、そのあとどうなったんだろ?」みたいな。
両方とも報告している歌なのだが、
令和〇年云々の歌は事実だけを提示して、あとは読者に委ねている。
事実だけを提示することで、読者になにかを感じさせる、想起させる、あるいは考えさせる、
そういうことが出来るわけで、この歌はそういう点で成功しているのだろう。
一方、題詠の方の風が強くて火がつかなくて線香を置いてきた、という歌は、
読者に委ねるものはなく、すべて報告し説明している。
読者は報告を聞いて、はあ、そうですか、で終わってしまう。
もう少し読者に委ねる部分がないと歌はうまくいかないんじゃなかろうか。
ところで、「燐の火」ってなに?
たぶん「燐寸」(マッチ)の省略なんだろうがちょっと省略きついだろう。
歌会後の作者の弁でもやはり燐寸の省略だったのだが、
今の燐寸って燐寸の頭の燃える部分に「燐」は使ってないんじゃないのかな?
「燐」を使っていたのは昔の映画とかで靴底でこすると発火する燐寸じゃないのか?
つまり今の燐寸が燃えている火は「燐の火」ではない。
昔、「燐」を使っていたからマッチが「燐寸」になったわけだけど、
この省略はどうなんだろ。
墓場で「燐の火」というとついつい人魂を思い浮かべてしまうわけで、
いっそ、人魂もマッチもつかぬ風の火に線香を・・・とか作った方が歌が面白く
なりそうだが、科学的には人魂も燐が燃えているわけではないらしい。
ひさしぶりの歌会は和気藹々とした雰囲気で人が少ない分、一首一首をじっくり
批評できていい歌会だった。
去年は2回しか歌会に出られなかったが、
できれば今年はもう少し出席したいと思っている。


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     テーブルからタケノコが生えているわけではない。
 アーチェリーの射場で採れたタケノコ、ちょっとこんなふうに並べて撮ってみた。

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  で、そのタケノコで青椒肉絲を作り、ラーメンに乗せて青椒肉絲麺。美味しかった(^^

金継ぎ依頼 北陸2

金継ぎを頼んでそのあとは金沢へ。
金沢城の桜は場所によって違ったが五分咲きくらい?
二回ほど来たことがあるのでさくっと桜を眺めて七尾に向かう。
家族から、金沢に行くなら普段使いの器を買ってきてくれと頼まれていて、
同じ買うなら地震で影響受けたところで買った方が少しでも応援になるかと、
七尾に向かったのである。

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 金沢城の桜

金沢あたりは地震の影響はなさそうだが七尾あたりからは地震の影響があるみたいで、
立ち寄った漆器店も仮店舗での営業だった。
輪島塗と山中塗、九谷焼などが置いてあったが、
気に入ったのは山中塗。
どうも優雅な輪島塗より木の地を生かした山中塗の方が自分の好みには合っている。
ということで、山中塗の汁椀と九谷のマグカップを購入。
ちなみに息子は輪島塗のぐい呑みを買っていた。

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 普段使いに買った山中塗の汁椀 木の木目が生かされていて気に入った。

そのあとは富山の氷見へ。
氷見の温泉に泊まり、夕飯は氷見の美味しい寿司を食おうというわけで、
ネットで調べた「すしやの城光」にホテルから歩いて行く。
海岸沿いの道を歩いていくのだが、ブルーシートのかかった家が結構目に付く。
「危険」と書かれた張り紙のされた家もあり、壊れた家を取り壊したらしい更地もある。
地震の影響がかなりあるようだ。

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 ホテルの窓からの氷見の街並み。
 ここから見える範囲では地震の影響は見えないが、
 北の海岸沿いの道を歩いていくとブルーシートで覆われた家が目に付くようになる。

寒い中20分ほど歩いて城光に着く。
カウンターに座り、刺身をつまみに酒を飲み暖まってから寿司を頼む。
醤油を使わずに食べる寿司でなかなか美味しい。握りも小さすぎず大きすぎず程よい。
寿司を食べながら大将から氷見の町のことも聞く。
やはり地震の影響でこのあとも取り壊す家が増えるそうで、人も減るだろうということ。
復興はまだ遠いようである。三陸の地震との違い、なんなんだろう。

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 すしやの城光
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 飲みながら食べているので、なんの寿司だったか忘れた。
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 これもなんの寿司だったか忘れた。美味しかったことだけは覚えてる(^^;

美味しい寿司を食べ、タクシーを呼んでもらってホテルに戻り、
温泉で暖まってゆっくりと寝る。
翌日は日本海沿いに親知らずを通り新潟に入り、上杉謙信の居城・春日山城を訪ね、
まだ雪深い妙高の横を抜け、3日間の北陸の旅を終えて関東に戻った。

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    上杉謙信の居城 春日山城 名前のとおり山城。
 しかし、城域は麓の方にかなり広く広がっていて下の方に柵や堀がある。
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 春日山城から見た越後の山と平野
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