新型コロナのためしばらく対面での歌会は実施していなかった福島歌会が

ひさしぶりに対面で歌会をするというので行ってきた。

どのくらいひさしぶりかブログの過去記事を見てみたら、

福島歌会が出てくるのは2019年の4月、福島市郊外の花見山で吟行して以来。

その年の暮れから新型コロナが広まったわけだから、ほぼ3年ぶりである。

で、早速、気になった歌。

ちなみに今回の歌会は三首の連作を出し、それを批評するというもの。

当然、気になった歌も三首連作の中の一首である。

誌面発表前なので、そのままここに出せないが、

川の面は流れ流れいつだって濡れた緑が新しい。

そんな歌意の歌。

気になったのは「いつだって」。

いつだって濡れた緑が新しいはずはない冬はどうなる、とかいう冗談はさておき、

歌のなかで作者にとっては「いつだって」濡れた緑が新しいのであろう。

三首連作なので、他の二首も読みながら、それを読み取ろうとするのだが、

なかなか読み取れなかった。

連作は「東京」という題で、窓の水滴でぼやけるピルを見つめる一首目と、

子供の声が聞こえるのに子供の姿を見なかったホテルを出る二首目、

それとこの歌の三首からなる。

一首目、二首目と読んできて、作者の心の中に何かがあるのであろうという

感じはするのであり、そして三首目の「いつだって」。

あるいは作者は仕事かなにかでたまに東京に行くのかもしれない。

その時に「いつだって」濡れた緑が新しい、と思うなにかがあるのだろうか?

ただ、いかんせん三首というのは連作としては短すぎて、読み取れない。

この歌について、川面に映る緑が流れてゆく、それはいつだって濡れて新しい、

という読みも出されたのだが、私は同意できなかった。

流れる水に映った緑だから濡れて新しいのだ、というのは合理的なのである。

その合理的なところが嫌なのである。

歌会でたまにあるのだが、歌を読み取ろうとして合理的な解釈を試みる。

しかし、詩は合理性とは別のところにある。

合理的な解釈は歌をつまらなくすることがある。

第一、  水に映った緑も同じではない。

6月になり緑が濃くなり、夏になり緑はさらに深くなる。

水に映る緑の色も変わるのであり、

それを「濡れた緑が新しい」で片づけているのなら安易である。

たぶん、そうではないと思うわけである。

しかし、それを読み取れなかった。

いかんせん、三首というのが連作として短すぎるのであって、

この歌のせいではないのかもしれない。

連作を批評する歌会って難しい。

しかるべき歌の数でなければ連作としては作りにくいわけで、

やはり三首は少なかったのではなかろうか、

さりとて増やせば時間の制約がある。

ちなみに、その難しさを歌会の取りまとめ役は承知していたのであろう。

取りまとめ役本人はオムニバスで出してきた。

つまり、題に関連があるだけで中身は全く関係ない別々の歌三首を出してきた。

こっちは連作だと思って読み取ろうと悪戦苦闘するわけだが、

実は全く関係のない三首の歌だったという、、、。

ま、オムニバスも分類としては連作なのかもしれんが、

悪戦苦闘させられた方としては反則に近くないかと言いたくなる(^^;

歌会のあとは軽く飲む。

短歌でつながった人間が青森、山形、仙台、福島、横浜から来てわいわいと

歌の話をする。楽しからずや(^^

今日中に帰らないといけない人もいるのでテキトーなところで切り上げ、

飯坂線の二両電車に乗って飯坂温泉。

ホテルに入り温泉にどっぷりつかりぐっすりと寝る。

しばらく忙しかったので体をしっかり休ませ、

翌日、飯坂の温泉街を少し歩き、福島で土産を買って横浜に帰った。


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  飯坂温泉 堀切邸
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 外湯の鯖湖湯 

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  摺上川沿いの外湯 波来湯