ひさしぶりの横浜歌会。

例によって気になった歌。

誌面発表前なのでここには出せないが、

少女は額をあらわにし風に向いて孕みし者は女児だと言った。

そういう歌意の歌。

ちなみに歌意を伝えるよう言葉を並べているので、

これだけ読むと全然、短歌という感じがしないだろうが、

それは仕方ないと思ってもらうしかない(^^;

横浜歌会では選歌をするのだが、この歌を選歌したのは私だけ。

四句が歌を曖昧にしていて意味が取りづらく明らかに未完成な歌なのだが、

なにか興味を感じたのである。

歌会での批評の基本は出された詠草をその表現に寄り添って読むことである。

歌の表現そのままに読めばこの歌は、

「少女は妊娠したのは女児だと言った」ということになる。

この場合の「女児」は「少女」以外の女性であろう。

しかし、私はどうしても引っ掛かるところがあった。

「少女」についての描写が細かい。

「額をあらわにして風に向いている」そういう描写からは少女の覚悟のようなものを

感じた。さらに「少女」と「女児」という言葉の選び。この言葉の使い分けはなんだろうか。

私は「歌会での批評の基本から外れるけど、この『孕みし者』というのは、

『孕みたる子は』ということではないのか?  つまり、額をあらわに風に向かって立って

いる少女は自分の腹のなかの子は女の子だと言った。そういう歌ではないのか?

少女の覚悟のようなものが感じられる。そうでなければ少女の描写や言葉の選びを

説明できないのではないのか」

それに対して、当然に反対意見が出るわけである。

確かに基本通りに読めば「少女は妊娠したのは女児だと言った」なのであり、

上句の少女の描写はすなわち少女の抗議で、「女児」という低年齢の者が妊娠させられた

ことに対する怒りではないのか、つまり紛争地での性暴力あるいは犯罪に対する抗議と

いう意見があった。

しかし、私は同意できなかった。

そういう歌ならば「女児」という言葉は変えた方がいいはずである。

「少女」の怒りであるならば、12歳以下の学童が「女児」だなどという行政が使うような

言葉を使うのは違和感がある。「十二歳が」とか「十一歳」とか「小学生」とか、

そういう言葉を持ってきた方がいいのではないのか。

それと、少女の描写について、「怒り」と断定できるのだろうか。

たぶん、下句の言葉から少女の怒りだろうという読みだと思うが、

少女の毅然とした姿から、「怒り」が感じられるか、あるいは「覚悟」が感じられるか、

どうなのだろう。歌に使われている言葉をそのまま読めば少女の毅然とした姿は「怒り」

なのかもしれない。しかし、私はどうも、一首全体から伝わるものは、

性暴力に対する怒りというような、単純なものではないように思えてならなかった。

四句の曖昧さゆえだとは思うが、私は「怒り」は感じることが出来なかった。

なにかこう不思議な感じがするのだ。

どうしてもその辺が引っ掛かったのであるが、

この辺については歌会での批評は深まらなかった。

で、歌会が終わってから作者に聞いてみた。

なんでも、奥さんが妊娠したとき、全然知らない少女がやってきて、

「女の子だよ」と言い当てた。そういう不思議な経験をしたらしく。

それがもとになってはいるらしいのだが、

作っているうちに自分でもよく分からなくなった状態の歌を出したらしい。

作者も分からないような歌、どうやって読むんだ(^^;;

ま、それはそれとして、

一首で使われている言葉そのままだけで歌を読むか、

あるいは一首全体から伝わってくる雰囲気・気配、そういうものにも目を向けて読むか、

歌会での批評の仕方を考えさせる、ちょっと面白い歌ではあった。

歌会のあとはいつものように飲み会。

月集に昇欄したことをおめでとうと言ってもらったが

吾が師匠、岡部史さん曰く「月集は墓場」。

まあね、確かに結社誌開いて一番最初に出てくるところだけど、

それにしては無風地帯という気はする。

俺は墓場行きなのかな…(^^;;;

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  批評で頭を抱えているKさんを窓の外から見ているヒヨドリ