ひさしぶりに湘南の歌会。

例によって気になった歌。

誌面発表前なのでそのままでは出せないが、

ジンベイザメがゆったり泳いでいる空を見て自分の転生を思う、

そんな歌意の歌。

歌会では「沖縄の美ゅら海水族館のようなところでジンベイザメを見ているのでしょう。

大きな水槽で下から見上げるようなので、それを泳いでいる空と表現したのでしょう」

概ねそういう批評。

ただ、私は疑問を感じた。

「歌の表現のとおり、ジンベイザメが空を泳いでいるんでしょう。

それを見て自分の転生を思ってる、そういう歌なんじゃないですか?

と発言したが、歌会ではほぼ無視(^^;

歌会での批評は、水族館の歌という前提で進む。

我慢できなくなって、

「短歌を鑑賞するとき、合理的に読もうとしなくていいと思うんです」

と再度発言したが、やはり無視(^^;;

歌会終了後、作者にこの歌について聞いたら、

やはり水族館ではなく、空をゆったり泳いでいるジンベシザメを思い浮かべての歌だった。

もちろん、歌の批評というのは作者の作歌意図を当てることではない。

作者の意図とは全く違う読みが出て当たり前なのが短歌である。

しかし、この歌は水族館の歌としてしか読めない歌ではなかった。

空を仰ぎ、そこにゆったり泳いでいるジンベイザメを見ている、あるいは思い浮かべている、

そういう歌として読めたはずである。

ジンベイザメが空を泳いでいるなどということはありえない。

しかし、そういう合理的思考は詩には関係ない。

あり得ないことが起こり、見えないものが見える、それが詩の世界であろう。

水族館にしろ空を泳ぐジンベイザメにしろ、

一首がそれを表現しえているかどうかが肝心なところではないのか。

合理的に歌を解釈してみせることだけが批評ではないはずだ。

作者は自分の転生を思っているのである。

空を仰ぎ、そこにいつか見たジンベイザメのゆったり泳ぐ姿を重ね、物思いにふけっている。

私はそういうふうに読んだ。

水族館の大きな水槽を泳いでいるサメなどを見て、空を泳いでいるように見立てるのは、

たまに見かける表現で、そうだとすればもう少し工夫が必要な気がする。

歌を合理的に解釈しようとせず、もっと自由に読んでいいのではないか?

水族館で固まった批評を聞きつつ、

「つまらない読みにこだわる連中だな」と心密かに思ってそのあとは沈黙していた(^^;;;


DSC_0008

   白い彼岸花