2019年05月

脚気

アーチェリーの射場で常連仲間のひとりと話していて、

興味深い話を聞いた。

明治の文豪のひとり森鴎外。

日露戦争当時の陸軍の軍医のトップでもあったわけだが、

医者としては二流で権威主義的な人物であり、

彼の頑迷さのゆえに日露戦争で数万人の兵士が脚気に罹り死んだという。

「そんな二流の医者がなんで軍医のトップになったんですか?」 と聞いたら、

「役人の世界は上への報告をうまく書ける人間が出世するんですよ。

彼は漢文調で見事な報告を書いたんです」

言っている本人が医師免許を持って医療行政に携わっているお役人さんだから、

そうなのであろう。

米を精米して食べるようになって脚気に罹る人が増えた。

江戸時代、江戸で白米を食べる人が増えたことで脚気は「江戸患い」といわれた。

軍隊ではこれは大きな問題で、

海軍はわざわざ軍艦を出し何か月か航海させて、

一方の船は白米を乗組員に食べさせ、

もう一方の船は麦飯を食べさせるという実験をしたらしい。

その結果、白米を食べさせた船からは脚気の患者が出たが、

麦飯を食べさせた船からは脚気の患者が出なかった。

それで海軍では麦飯を食べさせるようになり、

日露戦争のときも脚気による死者はひとりも出なかったらしいのだが、

陸軍は鴎外が海軍の実験結果も部下の軍医からの進言も受け入れず白米を食べさせ続け、

その結果、数万人が脚気で死んだのだそうな。

「権威主義的で下からの意見は聞かなかったんですよ。そのために何万人も死にました。

とんでもない男です」

とその人は言っていた。

なんとなく分かる気がした。

森鴎外に限らず文学趣味の人間には割と権威に弱い人間が多い。

短歌をやっていてそれは感じる(^^;

たぶん、権威に対して自由でいられる人間はほんの一部であり、

大多数はそういう一部の人に自分を重ねているだけである。

いずれにしろ、文学趣味の軍医殿のために脚気で苦しんだ兵士達、

大変だったであろう。

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  紫蘭

成年後見

税理士会の成年後見相談員連絡協議会に出席。

年に一回、相談員と支援センターの関係者が集まって会議をするのだが、

始めの頃と顔触れが変わってきた。

成年後見制度がスタートして税理士会でも社会貢献の一環として取り組みが始まった頃、

税理士会ではボランティア議論があった。

成年後見を仕事としてするべきかボランティアとしてするべきか、

そういう議論である。

正直、なんでそんな話をしてるんだ? という違和感を覚えた。

職業後見人として弁護士や司法書士がいるわけだが、

彼等もボランティアで成年後見をしているわけではない。仕事としてやっている。

ボランティア精神は持って取り組んでいるだろうが、あくまでもビジネスである。

なぜ、税理士会ではボランティア議論があったのだろうか?

いずれにしろ、ここ数年で税理士会での成年後見に取り組む人達の顔触れが変わり、

ボランティア志向の人達から実務派の人達に中心が移った。

かつてあった不毛なボランティア議論は聞かれなくなった。

どうやって成年後見の仕事を取っていくか、それが当たり前の話になった。

この変化はとてもいい変化である。

相変わらず税理士会上層部の成年後見への姿勢は歯がゆいばかりなのだが、

税理士の顧問先も高齢化するのである。

そういう顧問先を守るための任意後見の重要性。高度成長の時代のようには顧問先を

増やせない若い会員のための新しい業務としての法定後見。

いずれもこれからの税理士にとつて重要なはずであり、

取り組みは続けていきたいと思っている。

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   最近、黄色い花が目に付く これは黄色のポピー?

鬼に外道なし

短歌結社の結社誌が届き、自分の歌を見て苦笑した。

毎月10首出詠し、選者がそのなかから選歌した歌だけが誌面に載るわけだが、

今月号は3首落とされて7首載っていた。

7首のうちの3首、

 

   きさらぎの夜道の椿咲かせしは追い払われた鬼であろうか

   まつろわぬ民が鬼へと変わりゆく時の果てにて追儺の声聞く

   夜の椿あまた咲く道に振り向きぬ「鬼に外道なし」聞こえたような

 

出詠したときこの3首の次にこの歌があったのだが、その歌は落とされていた。

 

   大江山いく野の道の遠ければ酒呑童子をまだ弔わず

 

出詠したとき、まだ推敲不足だなと思った。言うまでもなく、

「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」

この歌の本歌取りだが、本歌取りとしてもどうかな? というところではある。

本歌の上句を借りているだけで、内容的には大江山つながりの酒呑童子を持って

きているわけで、本歌と意味的なつながりはない。本歌取りが生きていない。

勧善懲悪で彩られた酒呑童子の伝説は、

人をさらって食べてしまう鬼の酒呑童子を源頼光とその家臣が退治するという話だが、

民話なり説話にはその原型となったなんらかの事象があったりするわけで、

酒呑童子の物語も、王権に従わないまつろわぬ民の存在がその背景にある気がする。

大和の王権がこの列島に支配を及ぼしていく過程で、

従わなかった勢力は「まつろわぬ民」と呼ばれた。

まつろわぬ民の方にしてみれば、自分達は昔から他国の支配など受けずに生きていた

わけで、それを「まつろわぬ民」というレッテルを貼られても迷惑なわけである。

そして、「まつろわぬ民」の抵抗の記憶は、王権による支配の正当化のなかで、

「鬼」の物語に変質していく。

王権に従わない邪悪な鬼。

それを退治する朝廷の勇敢な武者達。

説話もまた歴史と同じく勝者によって語り継がれるのである。

そんなことをちょっと思いつつほんの数首の連作で作ったのだが、

最後の歌が落とされているので、ちょっと分かりにくいかもしれない。

それともうひとつ、出詠してから気が付いたのだが、

「鬼に外道なし」ではない。

御伽草子に出てくる酒呑童子、

山伏に変装した源頼光とその一行を礼節をもって歓待し、

彼等の持ってきた毒酒で酔わされ騙し討ちされたとき酒呑童子は叫ぶ、

「鬼に横道なし」。

鬼はこんな卑怯な真似はしない、酒呑童子はそう叫んで殺される。

「鬼に横道なし」なのである。

「鬼に外道なし」はつまり単純な間違い(^^;

選者は気付いていて取ったのか、気付かなかったのか?(^^;;

しかし、まあ、「鬼に外道なし」でもいいかなとは思う。

言いたいことは伝わるだろう。

むしろ横道だと現代では意味が伝わりにくいかもしれない。

「鬼に外道なし」

そのまま読むと、鬼は道理に背いたことなどしない、みたいな意味になるだろうか。

字面的にもニュアンスは伝わりそうな気がする。

実際、相手の礼節につけこんで騙し討ちした源頼光達の方が外道なのである。

短歌は細かいこと言わない。

造語みたいなものだと思っていただければいいのではなかろうか(^^;;;


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  デイジー・・・かな?

倫理無用

ゴールデンウイークの一日、横浜歌会。

例によって気になった歌というより、気になった批評について。

当日の歌会は「踏」の題詠で、詠草のなかに「舞踏病」という言葉を使った歌があった。

この歌について出席者から

「舞踏病って死ぬ人もいる大変な病気で、可哀そうで私は嫌です」という批評があり、

他の出席者からもそれに同調する意見があった。

「嫌です」というのは、そういう大変な病気を歌に使うことが嫌だということだと

思うのだが、生理的な嫌悪感を抱くのは人それぞれなので仕方ないとして、

病気の人に失礼とか、そんな詠い方をしたら病気の人に悪い、という倫理観だとしたら、

そういうものを短歌の批評に持ち込むことには違和感がある。

日常生活でそういう倫理観を持つのは当然のことであろう。

しかし、表現の世界は違う。

表現の世界に倫理を持ち込んだらどうなるのか?

病気、障害、死、犯罪、それらは文芸作品のなかに多く出てくるのであり、

それが可哀そうだから嫌だ、そういう評価がまかり通るなら表現はかなりの制約を

受けねばならない。

絵画もそうだろう、写真も映画もみな同じである。

およそ表現の世界に倫理は無用である。

もちろん、病気や障害を悪意でとりあげたり揶揄したりする表現は否定されるだろう。

しかしそれは表現してはいけないというより、

そういう表現が嫌悪と軽蔑の対象にしかならないということである。

念のために言い添えれば、

くだんの詠草はなんら舞踏病を揶揄したりするものではなかった。

表現の世界に倫理を持ち込めば自己規制が働き、それは表現を委縮させる。

萎縮させるだけならまだしも、

倫理の旗のもとに表現をジャッジしたり否定することもできるようになる。

それは危険なことである。

およそ表現者であるならばそういうことは知っておくべきことで、

短歌の世界に倫理を持ち込む向きは、

そういうことをもう一度考えてみた方がいい。

考えてみて、それでも私はやはりそういうのは嫌だというのは仕方ない。

それはたぶん生理的な嫌悪であり、

そういう嫌悪と向き合うことが出来ないのは、

あるいは表現者に向いていないということかもしれない。


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   歌会風景

春の上越

若い頃、ゴールデンウイークは大抵、上越あたりの山を歩いていた。

越後三山、利根源流の山々、谷川岳、平標から白砂、苗場に続く山なみ。

残雪の山稜をテントを背負って何日もかけて歩いた。

白い残雪、青空、山裾に広がる透きとおるような新緑。

それは鮮やかで大きな自然の世界だった。

子供が生まれてあまり山に行けなくなってからは、

魚沼の五十沢キャンプ場でゴールデンウイークを過ごした。

巻機山の残雪を望む新緑のキャンプ場は子供達との思い出の場所になった。

で、今年のゴールデンウイーク、10連休だったが10日も休んではいられないので、

谷川岳にさくっと登り、そのあとは越後湯沢の温泉でのんびりしようとしたのだが、

ちょっと都合が悪くなり予定を変更。谷川岳には登らず越後湯沢の温泉にだけ行ってきた。

上越の山脈をはさんだ水上とか湯沢のあたりはまだ桜が咲いていて、

新緑と桜とその向こうに見える残雪の山が気持ちいい。

ゆっくり温泉につかり、越後湯沢駅の日本酒の利き酒コーナーで試飲を楽しんだり、

子供達とよく登った八海山に行き、スキー場の雪の消えた斜面のカタクリの群落を

見たりして、春の上越を楽しんで帰ってきた。

大抵の人には思い入れのある土地というのが幾つかあると思うが、

自分にとって春の上越はそのひとつ。

今年は登れなかったが来年は残雪を踏んでどこかのピークに登りたいと思う。


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  越後湯沢駅の利き酒コーナー

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   子供達とよく登った八海山

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  八海山スキー場のカタクリの群落
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  カタクリにまじってイチゲが咲いていた。
 イチゲを見るとこの歌を思い出す。

    
氷河期より四国一花は残るといふほのかなり君がふるさとの白
                           / 
米川千嘉子

   ちなみにこのイチゲは四国一花ではなく、キクザキイチゲ。

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